「長谷堂合戦図屏風について ― 軍記と屏風 ―」 宮島新一:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

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「長谷堂合戦図屏風について ― 軍記と屏風 ―」 宮島新一
長谷堂合戦図屏風について ― 軍記と屏風 ― 

 近世に入ると合戦図は、時間の経過を追って場面が展開してゆく絵巻から、戦場の地形や展開する部隊を描くのに適した大画面、すなわち、屏風へと形式が変わってゆく。中には関ヶ原合戦図屏風(大阪歴史博物館)や、大阪夏の陣図屏風(大阪城天守閣)のように合戦後さほど間をおかずに描かれた図もあるが、多くは時がたってから回顧的な視点によって描かれたものばかりである。回顧的といってもそこには明確な制作の目的があった。目的は二つある。一つは家祖の軍功を図化して世間に明らかにすることである。軍功の誇示は合戦の美化につながる。もう一つは、敵味方が入り乱れて戦うために実情がわかりにくい合戦の状況を可能な限り調べて記録しようとする姿勢である。それが文章で表現されれば「軍記」となり、絵画化されれば「合戦図」となる。
 文章はより事実に近く、絵画はより遠いと思われがちだが、どちらにしても脚色は避けられない。その点で両者は同等、同格であり、事実よりも意図を読み取るように心がけたい。長谷堂合戦図は基本的に最上軍の戦勝場面のみが描かれ、落城した畑谷城は描かれておらず、援軍として参陣した伊達勢はまったく無視されている。登場する武士の数は少なく、制作依頼者は軍勢の配置には関心がなかったことがわかる。同様に地形も無視されている。紀州本や米沢本「川中島合戦図」のように軍師の指導によって制作された合戦図とは性格が異なる。
 本図は秋田の戸部一憨斎正直が元禄十一年(1698)正月に著わした『奥羽永慶軍記』に基づくとされるが、画中に記された人名を子細に検討すると同記の内容とはかなり違っている。中には軍書や記録に名前を見いだすことができない者も多く含まれており、オリジナル性が強い。かつては絵解き用の台本があったのかもしれない。また、人名が直か書きであることを考慮するならば、書き込まれた時期は制作当初と考えてよいだろう。
 向かって右隻の中心場面は前哨戦の一つで、『奥羽永慶軍記』では「鮭登茂綱会津勢を襲う」とされる段である。同記には鮭延方の軍勢として多くの武士が登場するが、画中の人名で共通するのは「鳥海勘兵衛尉・鮭延典膳頭健綱・沓沢金兵衛・新田十助・鮭延左衛門尉十五歳・鈴木藤蔵十七歳」などごく一部に限られ、しかも、同記には登場せず、かつ、出典を明らかにできない「片野對島守・田中兵部・馬淵伊織・柴田備中守・河田三右衛門尉」などの名がつけ加えられている。このうち「鮭延左衛門尉・河田三衛門尉」の二人の名は別筆である。一方、上杉勢では大関常陸介や小幡播磨守のほかに、「石坂・樋口」の名が記されている。上杉系の『越境記』を母体にした『最上合戦記』などには「石坂勘右衛門討ち死に」とある。また、「樋口」は言うまでもなく直江兼続の生家の苗字である。
 こうした戦闘場面とは別に右上隅の建物群の前に「成沢道忠」の名のみを記した部隊が描かれている。この挿話は『奥羽軍談』(佐久間昇氏の解説によれば宝暦初年に上林職広が増補)にしか見えない。同書に畑谷落城の知らせを聞いた最上義光が三之丸の飯塚口に成沢道忠らを警固に出した、とあるのに一致する。とすると、背後の建物群は三之丸の武家屋敷ということになる。だが、小山に囲まれている様子からは平城の山形城とは考えにくく、山城の長谷堂城とするのがふさわしい。予定を変更して成沢道忠を登場させたための矛盾だろうか。肝心の城主「志村伊豆守」の一隊はというと建物の下方、画面の端にあって、城との関連性が希薄である。左上隅の上杉勢本隊には「直江山城守兼続・色部修理亮・春日左衛門尉・高梨」の名があるが、『奥羽永慶軍記』に登場しない「色部修理亮」は保科家臣の向井新兵衛吉重が寛文二年に脱稿し、廷宝元年に浄書した『会津四家合考』などに見え、「高梨」については、延宝八年の自序をもつ『近代軍記』(黒川真道編『上杉三代軍記集成』所収)には第五陣に「高梨兵部」とある。
 向かって左隻は、上段に合戦全体の中心となる最上義光勢と直江兼続勢の主力部隊による戦闘が描かれている。『奥羽永慶軍記』巻三十二には最上義光をはじめとして多数の一族、郎党や仙台からの加勢が列挙されているが、図と共通するのは嫡子「最上義安(ママ)公」と「筑紫喜叶(ママ)斎」および、「川隈讃岐守(『奥羽永慶軍記』では川熊安芸守)・山邊右衛門大夫光茂(同じく山部右衛門尉)」だけである。なお、右方に見える「揚松権太夫」は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の延宝〜正徳年間に「上松権太夫」の名を見いだすことができるうえに、後ろを振り返る顔の向きからみて、敵陣に取り残された上杉方であろう。
 下段の左半は上段に続く光景で、関ヶ原の合戦で西軍が敗れたとの情報を得た上杉勢が軍を返すのを最上勢が追撃する揚面である。荷駄は別として上杉勢の殿軍が戦う姿勢を見せている点に注目したい。上杉方には「綱嶋勝左衛門・斎藤千右衛門・小倉将監・南條八郎」などの名が記されているが、いずれも『奥羽永慶軍記』には出てこない。『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』によれば、綱嶋勝三郎という者が慶長十九年の大坂出陣に加わっていることや、小倉将監宗信が直江兼続より少扶持を賜り、南条八右衛門が慶長十三年に米沢に帰参したことがわかるので、家中の何らかの情報に基づいているのだろう。
 問題は右半の、前哨戦の一つである上山合戦の場面である。ここにも出典不明の人名が認められるが、諸書では中心となるのは坂弥兵衛が穂村造酒丞を、金原七蔵が上泉主水正を討ち取る場面である。しかし、図では「金原七蔵」が「押野造酒丞」を、「坂上紀伊守」が「本多造酒丞」を討つように描かれている。この組み合わせは他に例をみない。通説に反して上泉主水正を「押野造酒丞」に変えるにはそうとうな裏づけが必要と思われるが、討ち手や死に場所に諸説あることに配慮したのかもしれない。より強調したいことは、上山合戦に坂上紀伊守を登場させるのは上杉系の『近代軍記』のみ、という点である。とりわけ『奥羽永慶軍記』では「本多造酒介」を討った者は「遠藤小一郎」となっており、図が同記に基づかないことは明らかである。
 こうした人名の不一致は本図と『奥羽永慶軍記』との関連性を疑わせる。もともと『奥羽永慶軍記』は写本が少なく、広く流布していなかったので参照した可能性は乏しい。そうであるならば、本図の描き手を著者である戸部一憨(閑)斎とする伝称もあらためて見直す必要がある。伝称の根拠は、本図を入れる箱の側面に「戸部一閑之画屏風一雙入 明治貮拾五年辰八月吉日記 湯沢町斎藤氏」、蓋裏に「戸部一閑之画最上合戦之図一雙入」とある墨書による。また、これとは別筆で蓋の前面に「斎藤五左衛門」とある。斎藤家の当主は代々五左衛門と称していたが、遅くとも安政二年までに「左太夫」と名乗りを変えている。もし、図と箱が一体のものであるならば、屏風は江戸時代末には現在の所蔵者のもとにあったことになるが、筆者の伝称がそこまでさかのぼるかは不明である。
 戸部一憨斎が絵を描いたことは戸部家に「戸部弌憨」の印章をそなえた水墨画の「船子夾山図」が伝わり、地元の湯沢市や横手市に涅槃図が三幅現存することから事実である。ただし、いずれも仏画、禅機図といった宗教画に画題が限定されていることに注意したい。なお、やはり戸部家に伝わり、一憨斎筆とされる源平合戦を描いた屏風は彼より早い時期の職業絵師の手になるもので、同人の作品ではない。「長谷堂合戦図」の筆致には町絵師らしい手慣れたところがあり、一憨斎の余技になるとは考えられない。その単純化された樹木や山野の表現には板本挿図、人物には初期の役者絵からの影響が認められる。一般に町絵師の作品は制作年代の判定が難しいが、上限は宝永四年(1707)十二月に亡くなった一憨斎の晩年に重なる可能性がある。だが、彼が亡くなる直前の同年四月に描いた湯沢市・善龍寺の涅槃図の老筆ぶりと比べると「長谷堂合戦図」の筆致は若々しく、同じ人物の手になる可能性はない。一方、下限は十八世紀中頃といったところだろう。
 実は、本図が長谷堂合戦を描いた図であることが判明したのは、湯沢市の文化財としてその存在が世に知られるようになってからで、比較的近年のことである。それまでは湯沢の小野寺氏と最上勢が戦った「有屋峠合戦図」と称されていた。いったん主題が忘れ去られていたという事実や人名に別筆が若干加わっている点は、制作主のもとを離れてからある程度の歳月と幾人かの手を経たことを物語っている。戸部一憨斎筆という伝称は本図が湯沢にもたらされた後から付け加えられたのだろう。
 本図は山形で制作されたに違いない。鮭延氏の活躍や喜吽斎の討ち死など、図の骨格は最上系の軍記に取材している。ただし、随所に独自の調査のあとが認められ、流布する軍書に基づかない、まったく独立した作品と言える。とくに上杉系の資料を積極的に取り入れている点は重要で、制作主はそれらを入手できる立場にあったらしい。どの軍記にもない、坂上紀伊守が敵将を組み伏せる場面が下段の中央に描かれている点に注目するならば、合戦後に長谷堂城主となった坂(坂上)紀伊守光秀ゆかりの者を制作主として考えるのも一案だろう。興味深いことに、坂氏一族には最上家改易後に上杉藩士となった者がいる。
(本文を草するにあたっては斉藤茂美氏、戸部尚武氏、善龍寺御住職の多大なご協力を得ました。皆様に感謝します。)

■執筆:宮島新一(山形大学教授/日本絵画史)「歴史館だより�16」より


【長谷堂合戦図屏風 斉藤茂美氏蔵】


【右隻】


【左隻】

※長谷堂合戦図屏風の詳細についてはこちらをご覧ください>>こちら
2009/09/01 10:30 (C) 最上義光歴史館
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