:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

戦国観光やまがた情報局
6月19日に山形市と姉妹都市であるオーストラリア・スワンヒル市の中・高校生の短期交換留学生来形団が来館しました。刀や甲冑、筆と墨で書かれた武将の手紙などを熱心に見学していました。
また、見学の最後には、ホンモノのヨロイを着用し、青い目のサムライたちは「重い!!」「サムライは大変だ!!」などと感想を述べていました。
2006/06/20 10:23:Copyright (C) 最上義光歴史館
義光と連歌

義光は、当時の知識階級が文学的な楽しみとした連歌が非常に優れていました。

連歌は源氏物語や古今和歌集以下の古典を背景にしながら、一座の人々と静寂優雅な境地を楽しむものです。
桃山時代の連歌は数多くありますが義光の作品は数においても質においても同時代諸侯の中では、細川幽斎を別格例外とすれば、他に匹敵する人物は黒田如水だけです。
作品の数は現在確認されたものだけでも33巻、句数は約250句にのぼります。

同席した文人としては、里村紹巴とその一派の連歌師たち、公家では日野輝資、飛鳥井雅庸、大名では細川幽斎、前田玄以、黒田如水、僧侶では木食上人応其、聖護院道澄、醍醐寺光台院の亮淳僧正、豪商では灰屋紹由、角倉了以など。
まさに錚々たる文化人たちです。

義光が国文学者の間で以前から高く評価されていたのも当然でしょう。
義光連歌の中には、発句を後陽成天皇から賜ったものがあります。
まさに驚くべきことです。(勘)


※写真「慶長三年卯月十九日 賦何墻連歌(義光発句)」初折表部分
2006/01/14 16:55:Copyright (C) 最上義光歴史館
最上家の第1代斯波兼頼(しばかねより)は、今から約650年前の延文元年(1356)にこの地にきて城をつくり、「出羽国最上郡山形郷(でわのくにもがみごうりやまがたごう)」という地名から「最上(もがみ)」という名字を名乗るようになったといわれています。

その兼頼から数えて11代目の当主(城主)が義光です。義光は慶長5年(1600)の慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)の活躍で57万石という広大な領地をもつようになりました。

現在の山形県のうち置賜地方を除く全部と秋田県の南の一部です。また、義光は57万石を治める城として、これまで住んでいた山形城を三重の濠(ほり)で囲まれた大変大きな城につくり直し、家臣や商人・職人たちが生活する城下町を整備しました。

この時に山形市の原型がつくられたといわれています。義光は現在の山形市の繁栄の礎を築いたといえます。
2005/07/14 09:46:Copyright (C) 最上義光歴史館
名 前 最上義光(もがみよしあき)
出身地 山形(山形城/現在の霞城公園)
生 年 天文15年(1546)1月
没 年 慶長19年(1614)1月18日(69歳)
墓 所 光禅寺(山形市鉄砲町)
出 自 清和源氏・足利一門斯波氏の支族
家 紋 丸ニ引両筋・竹ニ雀・五七桐・十六葉八重菊



最上義光(もがみよしあき)は今から約450年前の天文15年(1546)1月に最上家10代当主義守(よしもり)の長男として山形城で生まれました。

幼いころは「白寿丸(はくじゅまる)」と呼ばれ、永禄3年(1560)に元服し、将軍足利義輝(あしかがよしてる)から一字をもらって「義光(よしあき)」と名乗ります。通称は源五郎(げんごろう)です。

元亀元年(1570)25歳の時に第11代の当主(城主)になりました。それから約40年の間にたくさんの業績を残します。

慶長7年(1602)には、57万石(徳川・豊臣を除いて全国第5位)の大大名になりました。

慶長16年(1611)には従四位上・近衛少将(じゅしいのじょう・このえのしょうしょう)になりました。

慶長19年(1614)1月18日義光は病のため69歳でその生涯を終えます。




2005/07/14 09:40:Copyright (C) 最上義光歴史館
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