:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

戦国観光やまがた情報局
最上家に伝わる義光愛用の鉄製の指揮棒です。

重さは1750gもあり、刀のおよそ2倍の重量です。
義光が実践で使用したとすれば、相当腕力のある人物だったことが想像されます。

指揮棒の表面には、「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光(せいわてんのうまつようやまがたでわのかみうはつのそうよしあき)」と刻まれています。

清和源氏であること、山形出羽守であること、剃髪していないが仏に仕える身であることなどを示しています。
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2006/06/25 19:17:Copyright (C) 最上義光歴史館
最上家に伝わる義光愛用の兜です。
織田信長より拝領したと伝えられています。

慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦(通称:長谷堂合戦/関ヶ原合戦の地方戦)に出陣したときに、敵将直江兼続の鉄砲隊から狙撃され、命中、しかし、この兜のおかげで命が助かりました。
兜は篠垂(しのだれ)一条(いちじょう)が失われ、激戦を物語る弾痕がいまも生々しく残されています。

鍬形と利剣は平成20年3月に復元されました。

※「三十八間金覆輪筋兜」は平成20年11月の山形市指定有形文化財の指定の際に「三十八間総覆輪筋兜」に名称変更になりました。
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2006/06/25 19:14:Copyright (C) 最上義光歴史館
山形市の桜の名所として知られる山形城跡(霞城公園)の二の丸東大手門をくぐると、二本足で立つ勇ましい騎馬像が目に飛び込んできます。

武将の騎馬像としては全国でも屈指の美しさを誇る最上義光の騎馬像です。櫓門を背景にしたその勇姿は、往時の武勇を偲ばせます。
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2006/06/25 19:11:Copyright (C) 最上義光歴史館
ワシが最上義光(もがみよしあき)ダ!!

いまから自己紹介(じこしょうかい)をするゾ!

ワシは約450年前の天文15年(1546)1月に山形城で生まれた。山形城は知っているか?いまは霞城公園になっているところダ!!

ワシの父は義守(よしもり)といって、最上家の10番目の殿様ダ。ワシはその長男として生まれたのダ!!子供のころは「白寿丸(はくじゅまる)」という名前で呼ばれておった。

ワシは永禄3年(1560)という年に15才で「元服(げんぷく)」したゾ!「元服」は知っているか?大人として認めてもらうための儀式ダ!これでワシも一人のサムライとして認めてもらったのダ!それから、その時日本で一番えらいサムライだった将軍(しょうぐん)足利義輝(あしかがよしてる)から「義(ぎ)」という字をもらって「義光(よしあき)」と名乗ることにしたのダ!!まあ、親しい人間からは源五郎(げんごろう)と呼ばれておったがな。

ワシが25歳になった元亀元年(1571)に、父の義守が引退(いんたい)したので、11番目の殿様になったゾ!!
11番目の殿様という意味はわかるか?ワシの先祖はいまから約650年前に山形に来て山形城を作った斯波兼頼(しばかねより)という人だが、その人から数えて11番目の最上家の殿様であり、11番目の山形城の殿様ということダ!!

殿様になってから、ワシは山形に住んでいるたくさんの人たちが、平和で幸せにくらせるように、たくさんいろいろな事をしたゾ。その事は、また別のページで教えよう!!

ワシはたくさん戦争をしたが、ムダな命はとらなかった。降参(こうさん)した人やかしこい人は自分の家来(けらい)にしたりしたゾ!「だましてあいてを殺したズルイ殿様」だって?ノー!!ノー!!そのやりかたが一番死ぬ人が少ないんだゾ!!たくさんの兵隊があつまって戦うよりも、あいてのえらい人だけやっつけた方が、死ぬ人の数が少くないし、大切な町や田畑がこわされなくてすむのダ!!そんなことも知らないのか!?ワシは人の命が一番大切なものだと思っている。

約400年前の慶長5年(1600)に、山形で大きな戦争(慶長出羽合戦/けいちょうでわかっせん)があったが、そのとき無敵(むてき)の軍隊(ぐんたい)からワシの軍隊が勝ったのダ!だれの軍隊に勝ったかわかるか?そう最強の軍隊上杉景勝(うえすぎかげかつ)の家来の直江兼続(なおえかねつぐ)の軍隊ダ。どうだ、すごかろう!!

そのあとワシは、そのすごさが認められて、57万石(徳川・豊臣を除いて全国第5位)という広い土地を管理する大大名(だいだいみょう/大名よりもすごい大名)になったのダ。

ワシも66才になった、慶長16年(1611)に従四位上・近衛少将(じゅしいのじょう・このえのしょうしょう)という位(くらい)をもらったゾ。ワシのことをみんな「虎将(こしょう)」というニックネームで呼ぶが、どうやらその位である近衛少将⇔虎賁郎将(こほんろうしょう)が関係しているらしい!!「虎将」という文字もかくれているゾ!!



残念ながらワシも人間ダ、慶長19年(1614)1月18日、69才のときに病気で死んでしまった。69才…昔はそれでも長生きしたほうだと思うゾ!!

ワシのお墓は山形市の光禅寺(こうぜんじ)というお寺にあるゾ。ぜひお参りにきてくれ!!

それではひとまずお墓にもどるとしよう…

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2006/06/20 19:37:Copyright (C) 最上義光歴史館
6月19日に山形市と姉妹都市であるオーストラリア・スワンヒル市の中・高校生の短期交換留学生来形団が来館しました。刀や甲冑、筆と墨で書かれた武将の手紙などを熱心に見学していました。
また、見学の最後には、ホンモノのヨロイを着用し、青い目のサムライたちは「重い!!」「サムライは大変だ!!」などと感想を述べていました。
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2006/06/20 10:23:Copyright (C) 最上義光歴史館
義光と連歌

義光は、当時の知識階級が文学的な楽しみとした連歌が非常に優れていました。

連歌は源氏物語や古今和歌集以下の古典を背景にしながら、一座の人々と静寂優雅な境地を楽しむものです。
桃山時代の連歌は数多くありますが義光の作品は数においても質においても同時代諸侯の中では、細川幽斎を別格例外とすれば、他に匹敵する人物は黒田如水だけです。
作品の数は現在確認されたものだけでも33巻、句数は約250句にのぼります。

同席した文人としては、里村紹巴とその一派の連歌師たち、公家では日野輝資、飛鳥井雅庸、大名では細川幽斎、前田玄以、黒田如水、僧侶では木食上人応其、聖護院道澄、醍醐寺光台院の亮淳僧正、豪商では灰屋紹由、角倉了以など。
まさに錚々たる文化人たちです。

義光が国文学者の間で以前から高く評価されていたのも当然でしょう。
義光連歌の中には、発句を後陽成天皇から賜ったものがあります。
まさに驚くべきことです。(勘)


※写真「慶長三年卯月十九日 賦何墻連歌(義光発句)」初折表部分
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2006/01/14 16:55:Copyright (C) 最上義光歴史館
最上家の第1代斯波兼頼(しばかねより)は、今から約650年前の延文元年(1356)にこの地にきて城をつくり、「出羽国最上郡山形郷(でわのくにもがみごうりやまがたごう)」という地名から「最上(もがみ)」という名字を名乗るようになったといわれています。

その兼頼から数えて11代目の当主(城主)が義光です。義光は慶長5年(1600)の慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)の活躍で57万石という広大な領地をもつようになりました。

現在の山形県のうち置賜地方を除く全部と秋田県の南の一部です。また、義光は57万石を治める城として、これまで住んでいた山形城を三重の濠(ほり)で囲まれた大変大きな城につくり直し、家臣や商人・職人たちが生活する城下町を整備しました。

この時に山形市の原型がつくられたといわれています。義光は現在の山形市の繁栄の礎を築いたといえます。
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2005/07/14 09:46:Copyright (C) 最上義光歴史館
名 前 最上義光(もがみよしあき)
出身地 山形(山形城/現在の霞城公園)
生 年 天文15年(1546)1月
没 年 慶長19年(1614)1月18日(69歳)
墓 所 光禅寺(山形市鉄砲町)
出 自 清和源氏・足利一門斯波氏の支族
家 紋 丸ニ引両筋・竹ニ雀・五七桐・十六葉八重菊



最上義光(もがみよしあき)は今から約450年前の天文15年(1546)1月に最上家10代当主義守(よしもり)の長男として山形城で生まれました。

幼いころは「白寿丸(はくじゅまる)」と呼ばれ、永禄3年(1560)に元服し、将軍足利義輝(あしかがよしてる)から一字をもらって「義光(よしあき)」と名乗ります。通称は源五郎(げんごろう)です。

元亀元年(1570)25歳の時に第11代の当主(城主)になりました。それから約40年の間にたくさんの業績を残します。

慶長7年(1602)には、57万石(徳川・豊臣を除いて全国第5位)の大大名になりました。

慶長16年(1611)には従四位上・近衛少将(じゅしいのじょう・このえのしょうしょう)になりました。

慶長19年(1614)1月18日義光は病のため69歳でその生涯を終えます。




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2005/07/14 09:40:Copyright (C) 最上義光歴史館
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