戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

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戦国観光やまがた情報局
 関ヶ原の戦い後、兼続は上杉家の生き残りのために奔走し、結果、上杉家は取り潰しを免れ、米沢30万石に削封となります。家臣の知行(給料)はそれぞれ3分の1に減り、大人数が一挙に米沢に引っ越してきたために、住む家さえない有様でした。
 兼続も6万石から1万石に禄を減らし、しかもそのうち半分を自分の家臣達に分け与えたため、自身の取り分はわずか5千石でした。この状況を打開するため、兼続は自ら先頭に立って殖産興業策を指揮します。
 米沢を流れる松川(最上川)の治水事業を行って町の基盤を整え、身分の低い士族にも開墾に当たらせ農地を拡大したほか、青芋(あおそ)、紅花、漆、うこぎなどの作物を奨励するなどして、米沢藩の基礎を築き、藩政を安定に導きました。
 これらの政策は、のちの米沢藩9代藩主、上杉鷹山の改革の手本ともなり、現代まで兼続の功績が評価されています。

 また一方で、蔵書家でもあった兼続は、その書籍を用いて学問所「禅林文庫」、のちの藩校興譲館を創設し、人材育成にも力を注いだほか、白布高湯の地には、技術者を招いて鉄砲製造工場を設け、家臣達に射撃訓練を奨励しました。
 慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、上杉軍は鉄砲隊を用いて奮戦し、めざましい活躍で家康をはじめとする諸将から賞賛されています。

 元和5年(1620)、兼続は江戸の屋敷で死去し、米沢の徳昌寺に葬られました。享年60。後に林泉寺に改葬され、墓は現在も奥方であったお船の方の墓と並んで建っています。また、兼続所用として有名な「愛」の前立の兜は、上杉神社稽照殿(けいしょうでん)にて観ることができます。

2007/09/19 11:36:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
 山形城趾霞城公園は、東北を代表するさくらの名所である。この城を大改修したのは、ほかならぬ最上義光であるが、彼は武人であると同時にすぐれた文人だった。特に連歌(れんが)においては、同時代諸侯のなかではトップクラスの作者と目されている。
 さくらを詠じた作品も、もちろんある。『最上義光連歌集』(最上義光歴史館発行)からいくつかひろってみよう。ただし、連歌は五七五/七七/五七七と句ごとに作者が交替し唱和するものだから、二人の句で「一首の和歌の形」になる。作者名は、義光の一字名「光」と、唱和した人物名を括弧内に記し、参考までに私案としておよその大意を付してみた。

●面影の花をたびたびかえりみて/
   過ぎ行くあとの関ぞ霞める (光/里村玄仲)
 
 なつかしい人の面影をしのばせる桜の花を、幾度も振り返り見ると、あの人と別れ過ぎて来た関所の建物も、うっすらと霞んでいる。あの人も霞の中に立って、こちらを見送っているのだろうか。


●変わらじとのみ契りつる仲/
   花ゆへに馴れ初めけるも縁(えにし)あれや (飛鳥井雅庸/光)

 お互いに心変わりをしまいと固く契りあった二人の仲。美しく咲いた花がきっかけで愛しあうようになったのも、何か深い縁があったからだろう。


●暮るるまで帰さ忘るる花の下/
   そことも知らず鐘かすむなり (光/光高〈姓未詳〉)

 日が暮れるまで帰ることさえ忘れてしまう花の下。どこで鳴るのか、夕方の鐘の音もぼんやりと霞んで聞こえてくる。のどかな春の日暮れよ。


●散るあとも尋ぬる花の山深み/
   帰りも絶えぬ鶯の声 (光/里村唱叱)

 里の桜が散った後も、もっと花を見たいと尋ね入った山深く、帰りの路でも鶯の声が絶えず聞こえていた。名残り惜しい花の季節もそろそろ終わりか。


●誰もただ花に心や浮かるらん/
   出(い)で入りしげき九重の春 (光/里村景敏)

 だれもが花に浮かれて、たくさんの人が行き交う。都はまさにらんまんの春。



 
花ざかりの霞城公園も、これと同じだ。花を愛した最上義光が、二十一世紀のこの様子を見たら、どんなに喜び、満足することだろう。

■執筆:片桐繁雄氏(元最上義光歴史館事務局長)


※美しい山形・最上川フォーラム「夢の桜街道(さくら物語) 平成18年10月 第8号」より筆者の許可を得て転載しました。
2007/04/14 14:04:Copyright (C) 最上義光歴史館
◆◇◆義光連歌の語るもの◆◇◆

 最上義光は古典文学に関して深く豊かな教養をもち、すぐれた感覚で見事な連歌を物した。こうした義光を京洛の縉紳が高く評価したことは、同席連衆の顔ぶれからもあきらかである。
 ところで、われわれの歴史理解は、とかく日本人の書き残した史料に頼りがちだが、16C末〜17C初頭、すなわち義光の時代ともなれば、ヨーロッパ人による文献記録も大いに参考になる。
 たとえば古来日本人の理念とされてきた「文武二道」について、ジョアン・ロドリゲースは、「この両者はいずれも国家にとってきわめて必要なものであり、あたかも車が動くための両輪、鳥が飛ぶための両翼のようなものだと言われている」と、当時の日本人の価値観に敬意を込めて書き記した。(以下引用は、大航海時代叢書X『日本教会史・下』〈岩波書店・/1970刊〉による。)
 その「文事」の重要な部分をなす「連歌」についても、彼らの見方が参考になる。
 「(文事つまり芸と能のうち)能は学芸を意味し……高官、武家貴族および公家貴族によってそれ自体名誉とされ、重んじられ、行われている」とし、十種の能を挙げた。
 その第八が連歌である。
 「多くの人々が一緒に集まって、ある主題なりある詩句〔発句〕なりにもとづいて作るもので、各自は前の句に関連させて自身の句を作って続けてゆく。これは貴人の間ではよく行われることで、多大の理解力と判断力を要するものである。」と、「能」十種中最も高度なものと彼は見ていた。
 現在のわれわれは、当時の大名や貴族なら連歌など常識的な嗜みだったかのように思いがちだが、実際は誰も彼も堪能というわけにはいかなかったのである。清雅幽玄の連歌世界に遊ぶことは、天分に恵まれ、古典文学に通暁した者にのみ可能だったことを、ロドリゲースは示唆する。
 そして共通の教養を身に付けた人間同士……大名、公家、宗教人、豪商らは、連歌を媒介として独特な社交世界を形成していたらしいのだ。
 数多い最上義光連歌は彼の人間そのものの表現であるが、同時に桃山文化界の思いがけない一面を語りかけているような気がする。

執筆:長谷勘三郎「歴史館だより�癸后晋Φ耆湘�2」より
2006/11/04 09:25:Copyright (C) 最上義光歴史館
◆◇◆鉄砲の威力◆◇◆

 ヨーロッパ渡来の鉄砲が組織的集団的に使われた嚆矢は、織田信長の長篠の戦い(1575)とされているが、慶長五年(1600)の長谷堂合戦でも鉄砲はフルに活用された。
 義光は、長谷堂への応援として「小筒足軽二百余人」を派遣したと『羽源記』にあるが、総数がどれくらいかははっきりしない。
 伊達政宗が山形に派遣した援軍には「鉄砲四百五十四丁」が含まれていたと、水沢の留守家文書には書いてある。到着が遅れたといえども、この加勢が最上勢を元気づけたことはいうまでもあるまい。
 直江兼続は、長谷堂城を攻めあぐみ、主君景勝に兵力増員を要請する。景勝は直属鉄砲隊500のうち、300を派遣したらしいと、これは9月26日付け伊達政宗の手紙に、敵方の捕虜から聞いた話として書かれている。
 当たり前かもしれないが、この時代ともなれば、鉄砲こそ戦いを左右する最重要武器だった。
 10月1日の上杉軍撤退の時は、上杉鉄砲隊が華やかに活躍する。
「種子島の中筒鉄砲」の達者な兵を50人ずつ4組に分けて山中にひそませ、追撃する最上兵に雨霰と撃ちかけたという。これに辟易してひるんだ隙に、上杉軍はさあっと引き退く。見事な戦法だったらしい。
 陣頭に立った義光は、この時兜の真っ向を撃たれた。義光の側近、堀喜吽斎は、左肩先から右胸まで射ち抜かれて即死した。志村籐衛門も主君の身代わりのごとくになって、戦死した。
 上杉方、前田慶次の、赤柄大身の槍を振るっての奮戦は有名だが、実際は鉄砲にはかなうまい。新影流の剣豪上泉泰綱といえども、部下が鉄砲で追い散らされて独りとなっては、腕の見せようもないだろう。
 ところで、こんな言い伝えが長谷堂にはある。寄せ来る上杉の軍勢を山上から俯瞰射撃しようとすると、鉄砲にこめた弾丸がコロコロと抜け落ちてしまって、なかなかうまく射撃できなかったという話である。
 これなどは旧式の鉄砲だったのであろうか。それとも、根も葉もない民衆の語りぐさにすぎないのだろうか。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��10/研究余滴3」より


2006/10/13 10:14:Copyright (C) 最上義光歴史館
◆◇◆知識人たちの戦い◆◇◆

 慶長5年(1600)秋の出羽合戦と言えば、「長谷堂合戦」として知られているが、このとき戦った最上・上杉両軍のなかには、すぐれた知識人たちが加わっていた。
 最上義光は桃山文化華やかなりし京都において、古典に通暁(つうぎょう)した連歌作家として遇されていた。
 畑谷城を死守して、300余りの城兵もろともに討ち死にした江口五兵衛光清、上杉鉄砲隊の乱射を浴びて、主君義光の馬前で壮烈な最期を遂げた堀喜吽。この二人は義光に扈従(こじゅう)して京都文化界のサロンにしばしば出入りし、公家や連歌師らとともに多くの連歌を巻いた。
 一方、上杉軍2万を率いて侵攻した直江兼続もまた、妙心寺の南化和尚の賛辞にくまなく語られるごとく、世に知られた好学の士であった。文雅風流の席に臨んでも、和漢・漢和の連歌数巻に名を残している。
 兼続に従って出征し、赤柄の槍をふるって奮闘したと伝えられる老武者、前田慶次郎も豊かな教養と繊細な感覚を持った文化人であった。『前田慶次道中日記』一巻は、その人柄を如実に物語るものだ。
 ところで、在京時の義光参加連歌の連衆と兼続のそれとには、数名の共通メンバーが見られる。
 里村紹巴、昌叱、友益。これら専門連歌師のみならず、五奉行の一人前田玄以、細川幽斎など、著名な文人政治家も共通参加者である。
 義光と兼続が一座したことはないにしても、これらの人々を通して互いに文名を知り、尊敬しあっていた可能性も十分にある。
 そういえば、いろんな文献資料をみても、敵対した両者が相手をけなした言辞を見出すことはできない。
 長谷堂合戦の後、義光は、兼続の戦いぶりを絶賛した。
 「直江すこしも臆せず心静かに陣払いし、勝ちに乗りたる味方を数多討ち取り……誠に景虎武勇の強み、今に残りたり」(最上記)
 賞められた兼続、称賛を惜しまなかった義光、いずれも傑出した知識人だったのだ。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��11/研究余滴4」より



2006/10/06 11:43:Copyright (C) 最上義光歴史館
長谷堂合戦は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の地方戦です。

山形県のほぼ全域で、東軍の最上軍と西軍の上杉景勝の重臣直江兼続の軍が戦いました。
長谷堂は山形城から目と鼻の先、山形市の西方に位置します。

屏風は右隻が9月15日の様子、左隻が10月1日前後の様子です。

最上軍、直江軍とも有名な武将は名前が表記されています。
大将の最上義光も直江兼続もしっかり描かれています。
作者はこれまで戸部正直といわれてきましたが、近年その伝承について見直されています。詳細は>>こちら


▲右隻:長谷堂の攻防。右手には、長谷堂城主志村伊豆守の出陣姿が描かれています。左手には、軍配を持つ直江山城守ほか上杉軍の精鋭が描かれています。右上の建物が長谷堂城です。(※クリックすると拡大します)


▲左隻:退却する上杉軍と追撃する最上軍が描かれています。中央には、有名な鉄の指揮棒をふるって猛追する大将最上義光、左手には、鉄砲隊に守られた寄せ手の大将直江山城守が描かれています。(※クリックすると拡大します)

【参考】
・解説シート〜長谷堂合戦図屏風
・解説シート〜武将詳細図
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2006/06/25 19:28:Copyright (C) 最上義光歴史館
丸く円を描いた竹の図柄に二匹の向かい合った雀が配されています。最上家の家紋の一つです。竹に雀は上杉家や伊達家が有名ですが、最上家もこの紋を用いていました。この家紋は最上義光が愛用した三十八間金覆輪筋兜の鍬形台の中心に据えられています。
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2006/06/25 19:26:Copyright (C) 最上義光歴史館
軍旗(伝直江軍部隊旗)

桃山時代(16世紀)
作者/不明・材質/絹
縦156.0cm×横222.0cm
最上公義氏寄贈

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の地方戦・出羽合戦(通称:長谷堂合戦)の上山口の戦いで、東軍の最上軍が西軍の上杉軍の直江兼続の家来本村親盛の部隊に勝利したときに、戦利品として持ち帰ったものと伝えます。
この旗は「かりがねの旗」と呼ばれ、絹の白地に墨で飛翔する一羽の雁を描いた斬新なもので、モダンなデザインです。
旗の素材に絹を用いる例は、上杉家だけでなく最上家や伊達家にも現存しています。
『山形市史 中巻』に、『米沢五十騎組旗明細帳』に「かりがねの旗、行衛不明」とあるのがこの旗だと記されていますが、はっきりしません。
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2006/06/25 19:20:Copyright (C) 最上義光歴史館
最上家に伝わる義光愛用の鉄製の指揮棒です。

重さは1750gもあり、刀のおよそ2倍の重量です。
義光が実践で使用したとすれば、相当腕力のある人物だったことが想像されます。

指揮棒の表面には、「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光(せいわてんのうまつようやまがたでわのかみうはつのそうよしあき)」と刻まれています。

清和源氏であること、山形出羽守であること、剃髪していないが仏に仕える身であることなどを示しています。
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2006/06/25 19:17:Copyright (C) 最上義光歴史館
最上家に伝わる義光愛用の兜です。
織田信長より拝領したと伝えられています。

慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦(通称:長谷堂合戦/関ヶ原合戦の地方戦)に出陣したときに、敵将直江兼続の鉄砲隊から狙撃され、命中、しかし、この兜のおかげで命が助かりました。
兜は篠垂(しのだれ)一条(いちじょう)が失われ、激戦を物語る弾痕がいまも生々しく残されています。

鍬形と利剣は平成20年3月に復元されました。

※「三十八間金覆輪筋兜」は平成20年11月の山形市指定有形文化財の指定の際に「三十八間総覆輪筋兜」に名称変更になりました。
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2006/06/25 19:14:Copyright (C) 最上義光歴史館
山形市の桜の名所として知られる山形城跡(霞城公園)の二の丸東大手門をくぐると、二本足で立つ勇ましい騎馬像が目に飛び込んできます。

武将の騎馬像としては全国でも屈指の美しさを誇る最上義光の騎馬像です。櫓門を背景にしたその勇姿は、往時の武勇を偲ばせます。
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2006/06/25 19:11:Copyright (C) 最上義光歴史館
ワシが最上義光(もがみよしあき)ダ!!

いまから自己紹介(じこしょうかい)をするゾ!

ワシは約450年前の天文15年(1546)1月に山形城で生まれた。山形城は知っているか?いまは霞城公園になっているところダ!!

ワシの父は義守(よしもり)といって、最上家の10番目の殿様ダ。ワシはその長男として生まれたのダ!!子供のころは「白寿丸(はくじゅまる)」という名前で呼ばれておった。

ワシは永禄3年(1560)という年に15才で「元服(げんぷく)」したゾ!「元服」は知っているか?大人として認めてもらうための儀式ダ!これでワシも一人のサムライとして認めてもらったのダ!それから、その時日本で一番えらいサムライだった将軍(しょうぐん)足利義輝(あしかがよしてる)から「義(ぎ)」という字をもらって「義光(よしあき)」と名乗ることにしたのダ!!まあ、親しい人間からは源五郎(げんごろう)と呼ばれておったがな。

ワシが25歳になった元亀元年(1571)に、父の義守が引退(いんたい)したので、11番目の殿様になったゾ!!
11番目の殿様という意味はわかるか?ワシの先祖はいまから約650年前に山形に来て山形城を作った斯波兼頼(しばかねより)という人だが、その人から数えて11番目の最上家の殿様であり、11番目の山形城の殿様ということダ!!

殿様になってから、ワシは山形に住んでいるたくさんの人たちが、平和で幸せにくらせるように、たくさんいろいろな事をしたゾ。その事は、また別のページで教えよう!!

ワシはたくさん戦争をしたが、ムダな命はとらなかった。降参(こうさん)した人やかしこい人は自分の家来(けらい)にしたりしたゾ!「だましてあいてを殺したズルイ殿様」だって?ノー!!ノー!!そのやりかたが一番死ぬ人が少ないんだゾ!!たくさんの兵隊があつまって戦うよりも、あいてのえらい人だけやっつけた方が、死ぬ人の数が少くないし、大切な町や田畑がこわされなくてすむのダ!!そんなことも知らないのか!?ワシは人の命が一番大切なものだと思っている。

約400年前の慶長5年(1600)に、山形で大きな戦争(慶長出羽合戦/けいちょうでわかっせん)があったが、そのとき無敵(むてき)の軍隊(ぐんたい)からワシの軍隊が勝ったのダ!だれの軍隊に勝ったかわかるか?そう最強の軍隊上杉景勝(うえすぎかげかつ)の家来の直江兼続(なおえかねつぐ)の軍隊ダ。どうだ、すごかろう!!

そのあとワシは、そのすごさが認められて、57万石(徳川・豊臣を除いて全国第5位)という広い土地を管理する大大名(だいだいみょう/大名よりもすごい大名)になったのダ。

ワシも66才になった、慶長16年(1611)に従四位上・近衛少将(じゅしいのじょう・このえのしょうしょう)という位(くらい)をもらったゾ。ワシのことをみんな「虎将(こしょう)」というニックネームで呼ぶが、どうやらその位である近衛少将⇔虎賁郎将(こほんろうしょう)が関係しているらしい!!「虎将」という文字もかくれているゾ!!



残念ながらワシも人間ダ、慶長19年(1614)1月18日、69才のときに病気で死んでしまった。69才…昔はそれでも長生きしたほうだと思うゾ!!

ワシのお墓は山形市の光禅寺(こうぜんじ)というお寺にあるゾ。ぜひお参りにきてくれ!!

それではひとまずお墓にもどるとしよう…

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2006/06/20 19:37:Copyright (C) 最上義光歴史館
6月19日に山形市と姉妹都市であるオーストラリア・スワンヒル市の中・高校生の短期交換留学生来形団が来館しました。刀や甲冑、筆と墨で書かれた武将の手紙などを熱心に見学していました。
また、見学の最後には、ホンモノのヨロイを着用し、青い目のサムライたちは「重い!!」「サムライは大変だ!!」などと感想を述べていました。
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2006/06/20 10:23:Copyright (C) 最上義光歴史館
義光と連歌

義光は、当時の知識階級が文学的な楽しみとした連歌が非常に優れていました。

連歌は源氏物語や古今和歌集以下の古典を背景にしながら、一座の人々と静寂優雅な境地を楽しむものです。
桃山時代の連歌は数多くありますが義光の作品は数においても質においても同時代諸侯の中では、細川幽斎を別格例外とすれば、他に匹敵する人物は黒田如水だけです。
作品の数は現在確認されたものだけでも33巻、句数は約250句にのぼります。

同席した文人としては、里村紹巴とその一派の連歌師たち、公家では日野輝資、飛鳥井雅庸、大名では細川幽斎、前田玄以、黒田如水、僧侶では木食上人応其、聖護院道澄、醍醐寺光台院の亮淳僧正、豪商では灰屋紹由、角倉了以など。
まさに錚々たる文化人たちです。

義光が国文学者の間で以前から高く評価されていたのも当然でしょう。
義光連歌の中には、発句を後陽成天皇から賜ったものがあります。
まさに驚くべきことです。(勘)


※写真「慶長三年卯月十九日 賦何墻連歌(義光発句)」初折表部分
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2006/01/14 16:55:Copyright (C) 最上義光歴史館
最上家の第1代斯波兼頼(しばかねより)は、今から約650年前の延文元年(1356)にこの地にきて城をつくり、「出羽国最上郡山形郷(でわのくにもがみごうりやまがたごう)」という地名から「最上(もがみ)」という名字を名乗るようになったといわれています。

その兼頼から数えて11代目の当主(城主)が義光です。義光は慶長5年(1600)の慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)の活躍で57万石という広大な領地をもつようになりました。

現在の山形県のうち置賜地方を除く全部と秋田県の南の一部です。また、義光は57万石を治める城として、これまで住んでいた山形城を三重の濠(ほり)で囲まれた大変大きな城につくり直し、家臣や商人・職人たちが生活する城下町を整備しました。

この時に山形市の原型がつくられたといわれています。義光は現在の山形市の繁栄の礎を築いたといえます。
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2005/07/14 09:46:Copyright (C) 最上義光歴史館
■名 前 最上義光(もがみよしあき)
■出身地 山形(山形城/現在の霞城公園)
■生 年 天文15年(1546)1月
■没 年 慶長19年(1614)1月18日(69歳)
■墓 所 光禅寺(山形市鉄砲町)
■出 自 清和源氏・足利一門斯波氏の支族
■家 紋 丸ニ引両筋・竹ニ雀・五七桐・十六葉八重菊



最上義光(もがみよしあき)は今から約450年前の天文15年(1546)1月に最上家10代当主義守(よしもり)の長男として山形城で生まれました。

幼いころは「白寿丸(はくじゅまる)」と呼ばれ、永禄3年(1560)に元服し、将軍足利義輝(あしかがよしてる)から一字をもらって「義光(よしあき)」と名乗ります。通称は源五郎(げんごろう)です。

元亀元年(1570)25歳の時に第11代の当主(城主)になりました。それから約40年の間にたくさんの業績を残します。

慶長7年(1602)には、57万石(徳川・豊臣を除いて全国第5位)の大大名になりました。

慶長16年(1611)には従四位上・近衛少将(じゅしいのじょう・このえのしょうしょう)になりました。

慶長19年(1614)1月18日義光は病のため69歳でその生涯を終えます。




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2005/07/14 09:40:Copyright (C) 最上義光歴史館
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