戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

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戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

〒992-0012
山形県米沢市金池7丁目1-50
TEL:0238-26-6046
FAX:0238-26-6047

:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

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戦国観光やまがた情報局

大頭堰または西川堰とも呼ばれ、舘山城の外堀の跡を利用して堀削されたものです。

帯刀堰の名は、直江兼続の家臣たちが帯刀のままで工事に参加したことからそう呼ばれるようになったといいます。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
▼地図:Google Maps


2007/11/05 23:07:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
慶長年間、城東の山上村、城南の南原窪倉に植林をしました。白旗松と呼ばれる赤松の一種で、枝は弾力性があり雪折れが少なく、幹は真直ぐに伸び成長は早く樹脂が少ないので建材として最適でした。

江戸中期の調査では2万8222本あり、その大半は幹まわり三尺以上のものであったといいます。

明治の暴風でほとんどが倒れ、現存するのはその後自生したり、鉄道防雪林として植林されたものです。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
▼地図:Google Maps
2007/11/05 23:01:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局

米沢藩の下級武士(原方衆と呼ばれる)が暮らした屋敷が、米沢市南部の各地区(主に芳泉町・石垣町・通町)に数多く現存しています。

上杉家が会津から米沢に移封になった際、城下には家臣全員を収容しきれなかったため、防衛の役割を与えて下級武士を郊外に配置したものです。

原方衆は農業をしながら武芸に励むという半士半農の生活を送り、荒地の開墾も行いました。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
    東北中央自動車道米沢八幡原ICから車で約10分
▼駐車場:なし 車窓から見学
▼案内:ボランティアガイドによる案内可(市内ガイド1名1時間1,000円・予約制)
▼問合せ:米沢観光コンベンション協会 TEL0238−21−6226

▼地図:Google Maps



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2007/11/05 22:55:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局

猿尾堰の取水口近くに立つ巨碑で「龍師火帝」の文字が刻まれています。「龍師」は水神、「火帝」は火神を意味し、直江兼続が猿尾堰の鎮守として、洪水や日照りが起きないよう祈願し建立したと言われています。
石碑は李山字丹南の松川(最上川)川岸にあります。

 ※冬期間(11月下旬〜4月上旬)は積雪のため見学できません。

▼交通:JR米沢駅から車で約15分
    東北中央自動車道米沢八幡原ICから車で約15分
▼駐車場:なし ※大型バス通行不可
▼所要時間:15分
▼案内:ボランティアガイドによる案内可(市内ガイド1名1時間1,000円・予約制)
▼問合せ:米沢観光コンベンション協会 TEL0238−21−6226

▼地図:Google Maps



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2007/11/05 22:47:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
堀立川に注ぐ取入れ口で、猿尾の名は、その堰口の構造が猿尾留の工法を用いたところから名づけられました。

諸堰の中でも特に難しい工事だったため、直江兼続は、工事に先立って安山岩の大石を流れに据えました。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
▼地図:Google Maps


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2007/11/05 22:33:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
三の丸外の侍町、町人町、寺町の小路に水路を通し、城下の生活用水とするため、松川上流と大樽川中流から引き水を図り、松川からの用水路として開削したものです。

慶長7年(1602)頃から着工。南原六十在家(現芳泉町)上西岸から堰上げ、笹野街道の天神清水・大清水・新清水・吉野清水などの湧水を加え、城下南端の七軒町に導水。ここから本丸・城下南部・東部・北部へと配水することで士民の用水に供されました。

御城に入る水なので御入水と敬称したと言われています。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
▼地図:Google Maps

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2007/11/05 22:04:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
直江兼続の指揮のもと築かれた石積みの堤防のうちのひとつで、約140メートルにわたって続いています。

「野面積み」と呼ばれる川原石を積み上げた技法で、建造当時の姿を保っています。積み上げた石が蛇のウロコのように見えることから、「蛇堤」と呼ばれるようになったようです。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
▼地図:Google Maps

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2007/11/05 21:54:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
馬の名手・人見下斎入道宗次を総監として招き、「追廻し馬場」を築き、馬術を家臣に習わせました。

その馬場の広さは約7500坪あり、中通りに桜を植えたので「桜の馬場」と呼ばれました。

白子神社の東側、現在の米沢警察署付近にあたる場所です。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
▼地図:Google Maps
2007/11/05 21:31:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
和銅5年(712)創建。初めは蚕菅社(こすげしゃ)と呼ばれ、白子明神と称していました。県内最古の社宝として平安時代の鬼瓦が保存されています。

鎌倉時代、暦仁元年(1238)、領主長井時広が社殿を修復して置賜郡の総鎮守としました。その後蒲生時代に米沢城の鎮守となり、歴代藩主の崇敬が篤く、特に、上杉鷹山は藩主となった明和4年(1767)、藩の中興を誓った誓詞を納めています。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
▼地図:Google Maps
2007/11/05 21:17:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
直江兼続が天正18年(1590)、小田原征伐の折、富士山麓の社から曽我兄弟の木像を請い受け、越後直峯の城下に社を建て神達明神と名づけました。

後に米沢移封の際にこの社も移され、兼続没後は実家樋口家の屋敷神となり、7月16日の例大祭は町内あげての祭りで賑わいます。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
▼地図:Google Maps
2007/11/05 20:57:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局

元和4年(1618)に上杉景勝と直江兼続が創建した臨済宗の寺院で、当初は禅林寺と称していました。
直江兼続が禅僧九山を足利学校に学ばせ、業成った九山を招き、「禅林文庫」と呼ばれる蔵書を備え、学問の修業の場としました。兼続逝去後、九山も米沢を去ったため、学問所は実を結びませんでした。慶安元年(1648)上杉綱勝が禅林寺境内に文殊堂を建立し、禅林文庫の鎮守としました。

元禄3年(1690)上杉綱憲の命により「法泉寺」と改称されました。境内には、兼続の参禅の遺跡、3代藩主上杉定勝の娘で吉良上野介夫人・三姫の墓があります。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
    東北中央自動車道米沢中央ICから車で約10分
▼駐車場:隣接のすこやかセンター駐車場利用(無料)
▼拝観料:なし
▼所要時間:15分
▼案内:ボランティアガイドによる案内可(市内ガイド1名1時間1,000円・予約制)
▼所在地:米沢市城西2−1−4
▼問合せ:米沢観光コンベンション協会 TEL0238−21−6226

▼地図:Google Maps



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2007/11/05 20:44:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局

明応5年(1496)、上杉謙信の祖父長尾能景が亡父重景の菩提を弔うため、越後春日山城の麓に建立したもので、その後上杉家の移封に伴い、越後春日山より会津・米沢に移転し、上杉家の菩提寺となりました。

林泉寺境内には、上杉藩主の妻子や一族の墓所があります。上杉景勝夫人菊姫の墓や、武田信清(武田信玄の六男)・直江兼続夫妻の墓(共に県指定史跡)をはじめ重臣たちの墓が並んでいます。また、直江兼続逝去時の位牌を祀っています。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
    東北中央自動車道米沢八幡原ICから車で約15分
▼駐車場:有り(無料) 大型バス・自家用車可 他に第二中学校東側に大型バス待機所有り。
▼拝観料:有り
▼拝観時間:午前9時〜午後5時
▼所要時間:30分 (12月〜3月は要予約)
▼トイレ利用可
▼案内:ボランティアガイドによる案内可(市内ガイド1名1時間1,000円・予約制)
▼問合せ:春日山林泉寺(米沢市林泉寺1−2−3 TEL0238−23−0601)

▼地図:Google Maps



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2007/11/05 16:28:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局

当初は城内御堂の避難所として建てられたものですが、上杉景勝没後、米沢藩主代々の墓所となりました。

米沢城解体後の明治9年(1876)、藩祖上杉謙信の墓所を城内御堂より移し、参道正面奥に一間社流造の社殿を造営し祀りました。

御廟所の配列は、中央正面に謙信があり、その向かって左に2代景勝、4代綱勝、6代吉憲、8代宗房、10代治憲、12代斉定の祠堂が並び、中央より向かって右に、3代定勝、5代綱憲、7代宗憲、9代重定、11代治広の祠堂があります。

歴代藩主の廟所が置かれているのは珍しく、昭和59年(1984)国指定史跡となりました。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
    東北中央自動車道米沢中央ICから車で約15分
▼駐車場:有り(無料) 大型バス・自家用車可
▼拝観料:有り
▼拝観時間:午前9時〜午後5時
▼所要時間:30分
▼休館日:年中無休
▼トイレ利用可
▼案内:ボランティアガイドによる案内可(廟所敷地内無料・予約制)
▼問合せ:上杉家廟所(米沢市御廟1−5−30 TEL0238−23−3115)

▼地図:Google Maps



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2007/11/05 16:22:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局

県立置賜文化ホールと米沢市上杉博物館の機能を併せ持った文化施設です。
博物館には上杉家の歴史がわかりやすく展示されており、常設展示室では、上杉の歴史と文化を中心とした城下町米沢の歴史が見られます。

織田信長が上杉謙信に贈った国宝「洛中洛外図屏風」や「上杉家文書」など上杉氏ゆかりの文化財を多数所蔵・展示しています。また肖像画や文書など直江兼続関連の資料も多数所蔵しています。

☆大河ドラマ「天地人」の放送期間中は、ここを会場に「天地人博2009」を開催しました。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
    東北中央自動車道米沢中央ICから車で約15分
▼駐車場:自家用車可 バスは隣接のおまつり広場駐車場利用(無料)
▼入場料:有り
▼入館時間:午前9時〜午後4時30分
▼所要時間:60分
▼問合せ:上杉文化振興財団(伝国の杜)(米沢市丸の内1−2−1 TEL0238−26−8001)

▼地図:Google Maps



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2007/11/05 16:15:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局

上杉神社の宝物館で大正12年(1923)に開館。平安時代から江戸時代までの各時代にわたる甲冑、刀剣、武具、絵画、仏書画、仏具、陶磁器、漆器、服飾、文書、墨跡など重要文化財131点、重要美術品を含む多数を収蔵・展示しています。収蔵品のほとんどは上杉謙信、景勝、鷹山、直江兼続の遺品などです。
ここでは直江兼続所用の「愛」の一字の甲冑も見られます。

設計者は米沢市出身の建築家・伊東忠太で、国の登録文化財になりました。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
    東北中央自動車道米沢中央ICから車で約15分
▼駐車場:隣接のおまつり広場駐車場利用(無料) 大型バス・自家用車可
▼拝観料:有り
▼入館時間:午前9時30分〜午後4時(最終入館:午後3時45分)
▼所要時間:20分
▼休館日:�。厳遒鮟�く第2水曜日

      �■祁鄲茖何緲貌�前後(展示替えのため)

      �E澣─�11/26〜翌年3月下旬)

       ※2月第2土曜日・日曜日の上杉雪灯篭まつり中は開館します。
▼問合せ:上杉神社社務所(米沢市丸の内1−4−13 TEL0238−22−3189)

▼地図:Google Maps



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2007/11/05 16:07:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局

米沢城は暦仁元年(1238)、長井時広によって築かれ、慶長3年(1598)から上杉氏領となりました。上杉景勝が越後から会津120万石に転封となった際、直江兼続に与えられた城でした。関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、上杉景勝は米沢30万石に減封され、慶長6年(1601)に兼続に代わって上杉景勝が城主となりました。

明治2年(1869)の版籍奉還まで(2代景勝から14代茂憲まで)舞鶴城と称されていました。明治6年(1873)、城が取り壊され、翌年から松が岬公園として市民に開放されました。

上杉鷹山公像、稽照殿、春日神社、福徳稲荷神社、招魂碑、謙信公祠堂跡、曦山公碑などがあり、観光スポットとして賑わいます。また、春には濠に囲まれた四周を桜で埋め尽くし、桜の名所になっています。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
    東北中央自動車道米沢中央ICから車で約15分
▼駐車場:隣接のおまつり広場駐車場利用(無料) 大型バス・自家用車可
▼入場料:なし トイレ利用可
▼案内:ボランティアガイドによる案内可(無料・予約制:米沢観光コンベンション協会 TEL0238−21−6226)
▼問合せ:米沢観光コンベンション協会 TEL0238−21−6226

▼地図:Google Maps



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2007/11/04 10:54:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
 直江兼続は、永禄3年(1560)越後国魚沼郡坂戸城下(現・新潟県南魚沼市)にて、坂戸城主長尾政景の家臣、樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれました。幼名は与六といい、元服して兼続(樋口与六兼続)と名乗ります。
 与六の利発さに目を留めた、政景の正室で上杉謙信の実姉でもある仙洞院の推薦により、政景の次男喜平次(のちの上杉景勝)に小姓として仕えるようになりました。兼続6歳、景勝11歳のことといわれ、これ以後、兼続が死ぬまでこの主従関係は続きました。
 その後二人は春日山城(現・新潟県上越市)に移り、そこで謙信から様々な薫陶を受け、上杉の「義」の精神を受け継いでいくようになります。

 天正6年(1578)、謙信が急な病により没すると、上杉家の家督をめぐる争い、御館(おたて)の乱が起こります。兼続はよく主を支え、景勝方は勝利を収めます。この時の功績により、兼続は21歳の若さで家老に抜擢されました。
 天正9年(1581)、御館の乱の論功行賞をめぐるいざこざに、上杉家重臣の直江信綱が巻き込まれ死去するという事件が起こると、上杉家中の名門である直江家が途絶えるのを惜しんだ景勝は、直江の名跡を継ぐよう兼続に命じます。
 兼続は命に従い、信綱の死去により未亡人となった、3歳年上のお船(おせん)と夫婦となり、直江家を継いで与板城(現・新潟県長岡市)の城主となって、名乗りも直江兼続と改めます。

2007/09/19 11:44:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
 2年あまり続いた御館の乱では、謙信時代に保っていた領土の一部を失うなど、上杉家は勢力を衰えさせてしまいます。この状況のなか、天下統一を目指す織田信長は、加賀(石川県南部)から能登(石川県北部)・越中(富山県)へと軍勢を進めており、さらには、北越後の新発田重家と手を結び、上杉家に対し反乱を起こさせます。
 天正10年(1582)、織田軍は武田領への侵攻を開始し、たったひと月あまりで武田家を滅亡に追い込みます。続いて織田軍は、支配下に治めた旧武田領からも越後への侵攻を開始し、越中、信濃(長野県)、上野(群馬県)から越後を包囲しました。
 兼続も景勝に従い、各地での防衛戦に出陣しますが、多方面から押し寄せる敵軍に、しだいに追い詰められていきます。ここに上杉家は存亡の危機を迎えることになりました。

 ところがこの時、織田家重臣の明智光秀が主君の信長に謀反を起こし、京都の本能寺にて信長は命を落とします。主君を突然亡くした織田軍諸将は、越後への侵攻を取りやめ、それぞれ自分の領地へと引き上げていきました。この本能寺の変により、上杉家は危機を脱し、態勢を整えることができたのでした。
 謀反を起こした光秀は、織田家重臣の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に討たれ、織田家筆頭家老の柴田勝家と秀吉との間で、信長の後継者争いが起こります。景勝は、秀吉と同盟を結び、北陸に勢力を張る勝家と対峙します。この同盟交渉で手腕を発揮したのが兼続でした。

2007/09/19 11:43:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
 秀吉が勝家を討ち破り、天下の形勢が秀吉に大きく傾くと、秀吉は朝廷から関白の叙任を受け、豊臣の姓を賜るなど、着々と天下人としての地盤を固めていきます。その秀吉から上洛要請が来ると、景勝はこれを受け入れ、天正14年(1586)、兼続ら重臣とともに、初めての上洛を果たします。
 これ以降、兼続は秀吉側近の石田三成をはじめとする豊臣政権の要人や、天下に名の聞こえた武将達と交流を深め、上杉家に直江兼続ありとの評判を高めていきます。
 天正16年(1588)の2回目の上洛の際には、兼続は朝廷から従五位下・山城守(じゅごいのげ・やましろのかみ)に叙任されました。また、上杉家では家老職が廃止され、兼続が執政として政務全般を取り仕切る体制となりましたが、兼続は驕ることなく主君の景勝を支え続け、忠義を貫き通します。

 兼続は、背丈が高く容姿秀麗、言語さわやかで弁舌に巧みであったといわれています。また、漢詩の創作を得意としており、のちに日本初の銅活字印刷といわれる「文選(もんぜん)」の出版を行うなど、当時一流の文化人でもありました。
 現在国宝として指定されている、宋版「史記」「漢書」「後漢書」をはじめ、たくさんの書籍を所有していた愛書家としても知られ、文禄の役に参陣して朝鮮に渡った際には、自軍に略奪行為を厳しく戒めるとともに、貴重な書籍が戦火により失われるのを惜しみ、書籍の保護収集に努めて日本に持ち帰ったといわれています。

 秀吉は、兼続を「天下の政治を安心して任せられるのは、直江兼続など数人しかいない」と評したとされ、景勝が越後から会津120万石に移封の際には、陪臣(ばいしん:家臣の家臣)である兼続に対し、直々に米沢30万石を与えています。これに対し兼続は、一家臣に過ぎない自分に30万石は多すぎるとして断り、6万石で米沢城の城主となっています。

2007/09/19 11:41:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
 慶長3年(1598)、秀吉が病没すると、次に台頭してきたのは徳川家康でした。家康は天下人としての地位を固めるべく、まず加賀の前田家に謀反の疑いをかけ屈服させると、次に上杉家に矛先を向けてきました。
 慶長5年(1600)、領国に戻って軍備を整えていることについて、申し開きのために至急上洛せよと、家康が詰問状を送りつけてきたのに対し、兼続は堂々とした反論の書状を送ります。これが世に名高い「直江状」です。
 返書を読んだ家康は、激怒したといわれており、すぐさま上杉征伐の軍勢を招集します。この征東軍は総勢10万あまりに及ぶ大軍で攻め寄せ、下野国小山(現・栃木県小山市)までやって来ます。

 ところが、決戦開始も時間の問題となったころ、大坂にて石田三成らが挙兵したとの報告がもたらされます。
 征東軍では軍議が開かれ、三成率いる西軍との決戦に赴くことが決まると、西に進路を転じ退却を始めました。これぞ家康を討つ絶好の機会と、兼続は総攻撃を主張します。ところが景勝は、退きさがる敵の背中を討つのは、上杉の「義」に反するとして動きません。兼続もやむなく主君の命に従いました。

 このあと兼続は、東軍に属する山形城主の最上義光を攻めました。不戦の約束を破り、上杉領であった庄内地方に攻め込む姿勢を見せたからです。怒涛の進撃を開始し、山形城から南西の支城・長谷堂城を取り囲み、落城寸前までに追い込みますが、関ヶ原での西軍・三成の敗報を受け、米沢領への撤退を余儀なくされます。
 この撤退戦では、総大将である兼続自らが殿(しんがり:引き上げの際の最後尾の部隊)を務め、伏兵と鉄砲隊を用いて、少数の軍勢で追撃の大軍を防ぎきり、自軍の被害を最小限度に止めました。のちに敵将である義光や家康も賞賛するほどの見事な戦いぶりでした。

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