戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

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戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

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TEL:0238-26-6046
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:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

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戦国観光やまがた情報局

永禄10年(1567)〜寛永13年(1636)
 伊達家17代当主。米沢城主。のち仙台藩初代藩主となる。伊達輝宗の嫡男として、米沢城に生まれた。母は最上義光の妹・義姫。5歳のときに疱瘡(天然痘)に罹り右目を失明。このことから、のちの世に独眼竜の異名で呼ばれることとなる。
 18歳のとき、政宗の将器を見込んだ父・輝宗から家督を譲られる。その後わずか5年の間に周辺勢力を次々と平定、天正17年(1589)には、摺上原の戦いにおいて蘆名氏を撃破、会津地方を手中に収め、南奥羽の覇者となった。
 翌年、小田原に参陣し豊臣秀吉に臣従、奥羽仕置で会津領を没収された。続いて起こった大崎・葛西一揆では、裏で扇動していたという嫌疑を掛けられ、一応無罪とされるが、伊達家伝来の所領を取り上げられ、岩出山へ移封となった。
 関ヶ原の戦いでは、徳川家康率いる東軍に属し、会津若松城主であった上杉景勝の動きを牽制する役割を担った。米沢城主・直江兼続率いる上杉軍が最上領を攻めた際には、伯父である山形城主・最上義光に請われ援軍を派遣した。
 戦後、仙台開府、仙台藩62万石の初代藩主となる。寛永13年(1636)江戸にて死去。享年70。


2008/05/21 16:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
天文15年(1546)〜慶長19年(1614)
 最上家11代当主。山形城主。対立していた父・義守が隠居し、26歳にて家督相続。有力国人領主が各地に勢力を保持していた村山郡・最上郡にあって、政略や策略を駆使して反勢力を平定、最上氏による集権体制を築き上げる。
 天正15年(1587)庄内地方へ侵攻、大宝寺氏を討ち領有化に成功するも、翌年、越後方の本庄繁長に十五里ヶ原の戦いで敗れ、支配権を失った。
 慶長5年(1600)の慶長出羽合戦では、直江兼続率いる上杉軍に攻め込まれた。義光自身は山形城本陣を守りながら指揮を行い、堅城・長谷堂城を中心に防衛戦を展開。関ヶ原の戦いにおける西軍敗報を受け、形勢が逆転すると、自ら前線へ出撃したが、上杉軍鉄砲隊の激しい反撃にあい、兜に銃弾を受けた。
 戦後、田川・櫛引・飽海の庄内3郡を加増され、57万石を領有する大大名へと飛躍を遂げた。その後は、城下町山形の整備や最上川舟運による商業振興、庄内平野の大規模開発などに尽力した。慶長19年(1614)山形城にて死去。享年69。

関連史蹟:霞城公園・最上義光騎馬像・最上義光歴史館(山形市)
2008/05/20 15:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
享禄3年(1530)〜天正6年(1578)
 越後守護代・長尾為景の末子として、春日山城に生まれた。幼少期を春日山城下の林泉寺にて学問を学んで過ごした。14歳で元服すると、越後国内の反乱鎮圧に活躍、家臣団の信望を集める。そのため、兄・長尾晴景と対立するも、越後守護・上杉定実の仲介で、晴景の養子となり、19歳で越後守護代長尾家の家督を継いだ。
 定実には跡継ぎが無く、越後守護上杉家が断絶すると、将軍・足利義輝から越後国主の地位を認められた。また、助勢を求めてきた関東管領・上杉憲政を庇護し、のちに憲政から関東管領職と上杉家の家督を譲られた。
 信濃方面では、村上義清らの救援要請を受けて、武田信玄と激戦を繰り広げ、この戦国史上に有名な川中島合戦は五度に及んだ。また、関東地方にもたびたび出陣し、北条家と戦った。のちには、北陸方面で織田軍とも戦い、これを打ち破っている。
 天正6年(1578)春日山城内で倒れ、急死した。享年49。このため相続争い(御館の乱)が起こった。謙信の養子の二人が争い、上杉景勝が勝利を収めた。
 尊骸は、越後、会津、米沢と、上杉家の転封とともに移され、現在は米沢市内の上杉家廟所に祀られている。
2008/05/20 09:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局

米沢市西部、鬼面川西岸の高台に鎮座する神社。
古くから、置賜郡成島荘の鎮守として崇敬をあつめ、長井氏、伊達氏、上杉氏といった歴代領主によって、改築・修理が行われてきました。

伊達政宗は、八幡神社への信仰が篤かったらしく、米沢から岩出山へ移る際に、この成島八幡宮を分霊し、岩出山城内に祀りました。
後に、政宗は仙台開府にあたって、総鎮守として大崎八幡宮を創建し、大崎地方にあった大崎八幡宮と米沢から分霊してきた成島八幡宮を合祀しました。現在、大崎八幡宮社殿は国宝に指定されています。


2008/05/18 18:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局

米沢市南西部、大樽川(鬼面川)と小樽川の合流地点に位置する丘陵上に築かれた山城です。一説には伊達家統治時代の「米沢城」ともいわれていますが、通説では伊達政宗の父・輝宗が、政宗に家督を譲ったのち、この舘山城に隠居したといわれています。

天然の要害となっているため、戦時にはこの城に拠って戦う計画であったらしく、麓には伊達家臣団の屋敷町が取り巻いていました。
平時は、政務を執るのに便利な平城の米沢城、戦時は、守りやすい山城の舘山城というように役割が分かれていたようです。

上杉氏の時代となると、舘山城は使用されませんでしたが、麓の屋敷町はそのまま上杉家臣団の屋敷町となりました。

山の中腹に見えるのは、東北電力舘山発電所です。


2008/05/18 16:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局

独眼竜の異名で有名な、仙台藩初代藩主・伊達政宗は永禄10年(1567)、米沢城で生まれました。幼少期から青年期(25歳)まで米沢城を居城としていました。

政宗は、天正12年(1584)に18歳で家督を継ぎ、米沢城主となりました。天正17年(1589)には会津の蘆名氏を攻め滅ぼし、南奥羽の覇権を握ります。このとき会津黒川城(のちの会津若松城)に居城を移します。

翌天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐、その後の奥羽仕置により会津を没収されたため、約1年で居城を米沢城に戻します。
ところが、この年の冬に起こった葛西・大崎一揆を裏から扇動した罪に問われ、いちおう無罪となりますが、伊達家伝来の所領は没収となり、代わりに旧葛西・大崎領を与えられ、天正19年(1591)岩出山城(宮城県大崎市)に転封となりました。

「伊達政宗公生誕の地」の碑は、米沢城址・上杉神社参道脇と、一説に伊達家統治時代の「米沢城」とされる舘山城址にそれぞれ建てられています。


2008/05/18 14:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
上杉の城下町・米沢におきまして、
『地元高校生おすすめ!歩いてわかる「ドラマチック戎市」と「直江兼続」』が開催されます。

この企画は、県立米沢商業高校の生徒の皆さんが提案をし、
JR東日本主催の「駅からハイキング」のツアーコースに選定されたものです。
「直江兼続」ゆかりの地を、全行程徒歩で巡ります。歩行距離は約8kmです。

当日は、米沢商業高校の生徒さんが、ガイドとして見どころをご案内いたします。
しっかり勉強して、コースの下見も行っていますので、こちらのガイド内容も楽しみです。
午後からは、米沢市内の粡町(あらまち)商店街で開催される「ドラマチック戎市」(物産大テント市)に向かいます。


開催日:平成20年5月25日(日)
     午前9時15分受付開始 午前10時スタート

集合場所:JR米沢駅西口

コース:米沢駅・宮坂考古館・春日山林泉寺・上杉神社稽照殿・上杉博物館
    (各自昼食)・ドラマチック戎市 全行程約8km    

参加料:入館料合計1,200円(昼食は各自で)

主 催:JR東日本「駅からハイキング」

詳細・お申込み:JR東日本「駅からハイキング」ホームページをご覧ください。

申込期限:平成20年5月21日(水)17:00
2008/05/16 17:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
平成20年5月15日(木)、置賜総合支庁講堂におきまして、大河ドラマ「天地人」サービス向上講習会を開催いたしました。

大河ドラマ放送に向けて、これからますます、当地域にお越しくださるお客様が増えることが予想されます。
ここでいま一度、おもてなしの心、接客サービスの基本を確認するために開催したところです。

置賜地域の旅館、タクシー会社、観光案内窓口担当者など、90名の参加があり、有限会社フェイスアップの金井津美先生からご指導いただきました。
2008/05/15 17:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
弘治元年(1555)〜元和9年(1623)
 坂戸城主・長尾政景の次男として生まれた。父・政景が死去すると、春日山城に移って叔父・上杉謙信の養子となった。天正6年(1578)謙信が急死すると、謙信のもう一人の養子・上杉景虎との間で相続争いが勃発。この御館の乱に勝利し、上杉家当主の座についた。
 その後、豊臣秀吉に臣従、関係強化に努めた。のちに五大老の一人に列せられた。慶長3年(1598)、会津120万石に加増移封され、会津若松城主となった。
 秀吉の死後、台頭してきた徳川家康と対立。家康は上杉征伐の軍勢を催し、下野国小山まで出陣したものの、上方で石田三成らが挙兵したことを知ると、軍勢を反転。腹心の直江兼続が追撃を主張したものの、景勝はこれを聞き入れなかった。
 関ヶ原の戦いの後は、米沢30万石に削封され、米沢藩初代藩主となった。大坂冬の陣では、徳川方として参戦、先鋒として鴫野の戦いで勝利を収めた。元和9年(1623)、米沢城で死去。享年69。

2008/05/10 12:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
永禄3年(1560)〜元和5年(1620)
 樋口兼豊の長男として坂戸城下に生まれた。仙洞院に見込まれ、幼くして上杉景勝の近習となった。御館の乱において功績があり、21歳の若さで家老に抜擢、のちに執政となる。景勝の命により、直江景綱の娘・お船と結婚し直江家を相続、与板城主となった。
 上杉家の内政・外交を取り仕切り、豊臣秀吉や石田三成との関係を深め、豊臣政権内での上杉家の地位を確立した。会津移封にあたっては米沢城主となった。
 秀吉没後、対立した徳川家康から送られた詰問状に対し、世に言う「直江状」を送り返した。関ヶ原の戦いと同時期に行われた慶長出羽合戦では、山形城の最上義光を攻めるも、石田三成率いる西軍の敗報に接し、撤退。追撃に出た最上軍相手に見事な退却戦を演じた。
 戦後は、上杉家の存続に奔走。米沢の街づくりを推進し、藩政の基礎を固めた。大坂の陣には徳川方として参戦し、将軍・徳川秀忠から感状と太刀一腰及び小袖を与えられた。元和5年(1620)江戸鱗屋敷にて死去。享年60。
2008/05/10 11:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
畑谷城の戦いの戦死者を埋葬した場所の一つ。

史跡マップ>>こちら
 米沢市全体が現在大フィーバーとなっているのが、平成21年NHK大河ドラマ「天地人」の放映。その主人公が上杉家重臣・直江兼続。米沢市上杉博物館では現在兼続に関する特別展は開催していないものの、館内各所に兼続に関する無料コーナーを設けております。この連休、米沢でそして上杉博物館で直江兼続に触れてみませんか。

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館内情報ライブラリーにて直江兼続を紹介したパネル展示を開催中です。無料配布の解説シートもございます。

��兼続を紹介した映像を放映中
カフェにて、直江兼続を紹介する映像を放映しております。カフェをご利用になられなくても(もちろんご利用いただけるとありがたいのですが)ご覧いただけます。

また有料になりますが、常設展示室にも兼続の業績を紹介したコーナーもございます。大河ドラマ放映を前に、上杉博物館でぜひ兼続について触れ、学んでいただければと思います。
2008/05/01 11:35:Copyright (C) 伝国の杜 情報BLOG
【義姫/よしひめ】 〜戦陣の間にすわりこみ……〜


 山形城主、最上義守の娘として、天文17年(1548)に生まれた。義光は2歳年上の兄。年齢の近い兄妹ということで、二人は仲が良かったらしく、後年の手紙などをみると、互いに心を打ち割って音信を取り交わしていたことがわかる。
 父義守が、最上家を守り発展させてきた経過をもそれなりに見聞きしたせいであろうか。
世の平和を願う心は、人一倍強かったらしい。
 たぶん1565〜6年のころに、米沢伊達家の若い当主・輝宗にとついだらしい。政略結婚といえば言えるかもしれないが、東北地方南部の名門最上家が、実力派大名の伊達家と縁組をするのは、戦乱を未然にふせぐためにも重要な方策であった。もちろん伊達家としてもありがたいことだった。米沢では館の東に住まいしたために「お東の方」と呼ばれ、自分でも手紙などには「ひがし」と署名した。
 永禄10年(1567)に、男児を出生。これが梵天丸で、後の仙台藩主伊達政宗である。次子は小次郎。
 米沢時代の伊達家の記録には「お東の方は、日ごろ時世の乱れを見ては、国が安らかに繁栄するよう心にかけておられた」とあるように、平和を求める気持ちの強い女性だった。
 ところが非情の戦国、争乱は身近に頻繁に発生する。
 天正2年(1572)には、実家最上家で、父・義守と兄・義光の争いがあり、夫・輝宗は義守方に味方して上山、楢下、狸森、畑谷などに兵を出した。戦闘は小規模なものだけだったが、それでも半年ほどごたごたと続いた。九月に乱は終息。
 義姫がこの時何を考え何をしたかはわからないが、身内同士が戦いにうつつを抜かす状態には、ほとほと愛想を尽かしたのではなかったか。
 結婚後20年ほどのちの天正13年(1585)、38歳で夫を失う。
 しかも、夫の死は、息子が当の立役者になっていたのだ。輝宗が宿敵畠山義継に、拉致連行されようとしたとき、追跡した政宗軍の鉄砲隊の乱射によって、義継ともども、夫も死ぬ。息子の命令で夫が殺されたと知った義姫が、どれほど悔やしんだか、はかりしれない。「戦いは、もう、たくさん」というのが、彼女の偽らざる心情だったろう。
 ところが、彼女の心を踏み付けにするような事態が、兄・義光と息子・政宗の間に発生したのである。
 天正16年(1588)、政宗が大崎領を攻めたとき、義光は妻の実家であることもあって、こちらを援護した。「敵の味方は敵」である。政宗は伯父・義光に刃を向けてきた。
 最上領・伊達領の境界、中山(現上山市南部)で、両軍がにらみあい、一触即発の状態にたちいたったとき、義姫が輿に乗って割り込んできた。両軍の間に仮住居をしつらえ、そこに起居して、兄と息子とに兵を引くように迫るのである。
 この期間およそ80日に及んだことが、義光が書き残した数通の手紙で確認される。で、結局、この戦いは両方が手を引くことで決着する。
 身を挺して戦いをやめさせた平和の女神、という比喩はともかく、戦国の世にありながら、戦いを憎み、和平実現のために自ら行動した女性として、大きく顕彰されてよい人物だろう。
 ところが、この義姫については、悪いうわさが意図的につくられた形跡がある。次男小次郎を愛するあまり、長男政宗を毒殺しようとした。それに失敗して、実家である山形に逃げ帰った。冷酷、不届きな女性だ、云々。
 だが、世に知られたこの話は、最近明らかにされた史料によって否定されている。それどころか、義光・政宗という大人物が二人とも、どういうわけか、義姫に対しては綿々と心を打ち明け、あるいは、すっかり頼りきっているような、そんな手紙さえ残っているのである。
 政宗が朝鮮に渡って苦労をしているとき、ねんごろな手紙と黄金3枚を送ったことは有名な事実である。その時の義姫の手紙は残されていないが、政宗が書いた返事は、仙台にしっかりと残っている。手紙をもらった政宗の感激、喜び、異国で苦戦している様子、家来たちが死んでゆくつらさなどとともに、母親に一目あいたいという息子としての願いも、しみじみとうかがわれる手紙文の傑作だ。
 義姫が、伊達の本拠地であった岩出山から山形にもどったのは、文禄3年の冬であった。
彼女が山形に帰って来た事情は、残念だがよくわからない。兄の配慮で、村木沢の悪戸や南館の館で暮らしたことは事実であろう。
 慶長5年(1600)、上杉軍が最上領に侵入したとき、義光は9月15日に嫡男義康を走らせて伊達政宗に援軍を要請した。16日の返事はOKだったが、肝心の軍勢がなかなかこない。しびれを切らした義姫は、19日卯の刻(午前6時ごろ)、援軍の早い到着を求めて、みずから緊急の手紙をしたためる。かまわずに置けば山形が滅亡するかもしれない怱忙の間である。文字はなかなかの達筆。簡潔ながら文面には心情がほとばしっている。
 「ここもとへ御越えのよし、御大儀、満足申し候。とてものことに一足も早く早く、御越え候べく…修理(義康)親子も待ち入り申し候、いそぎいそぎ、とくとく…」
 幸いに、伊達の援軍は22日に山形に到着。月末に関が原で上杉家の加担した西軍が敗れた報せを受けて、上杉軍は撤退し、山形は助かる。男同士の表向きの折衝だけでなく、義姫の懸命な動きも、伊達側を動かしたことは確かだろう。
 元和8年(1622)、最上家の没落を機に仙台にもどり、保春院にはいって、翌年76才の長寿を全うした。墓は北山覚範寺にある。
 村木沢の旧家加藤家には、義姫の愛用品だったという優雅な横笛や迫力ある能面が秘蔵されており、彼女がまつった阿弥陀堂も近くにある。また南館の神明神社付近には、義姫居住時代の面影が、いまもかすかながら残っている。
■■片桐繁雄著


2008/04/30 13:54:Copyright (C) 最上義光歴史館
(社)山形県観光物産協会が運営するHP「山形県の特産品」で
天地人の「愛」グッズの販売を開始しました!

先月横浜松坂屋で開催した物産展でも「愛」グッズは大好評でした。
米沢織のネクタイ、ブックカバーなど、贈り物にいかがですか。
ご来店をお待ちしております。

山形県観光物産協会「山形県の特産品」通販サイトはこちら
2008/04/30 12:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
※[ダウンロード]してプリントアウト(A4サイズ)することができます。

...もっと詳しく
2008/04/24 17:50:Copyright (C) 最上義光歴史館
※2009年12月31日をもって販売を終了いたしました。

このたび、大河ドラマ「天地人」のPR推進のため、「のぼり旗・ミニのぼり」の販売を行いますのでご案内いたします。
大河ドラマ「天地人」ゆかりの地として、関連する史跡、観光スポットを始め、県内の到る所に「天地人」のぼり旗が立ち並び、来県されたお客様に、山形が大河ドラマの舞台であることを実感していただけるよう、県をあげて取り組みを進めて参りますので、皆様のご協力をお願いいたします。

1 規 格
  「天地人」のぼり旗(ポール無し) 160cm×45cm
  「天地人」卓上ミニのぼり(立て台付) 33cm×10cm

2 デザインコンセプト
「旗指物」をイメージしたデザインで戦国時代の雰囲気を演出するとともに、ゆかりの史跡に掲げた際の景観も考慮しました。落款には直江兼続所用兜の前立「愛」の文字を採用しています。
「天地人」ロゴがデザインの中心ですので、地域を問わず掲出が可能です。また、上部のマークを入れ替えることでオリジナル性を出すことができます。
 
3 価 格(製作実費負担金)
 ・基本のぼり(赤2本線)
   のぼり旗:1,000円/枚 ミニのぼり:900円/枚
 ・マーク入りのぼり(直江家家紋・兼続兜「愛」・直江軍旗雁金)
   のぼり旗:1,200円/枚 ミニのぼり:900円/枚
   
4 申込み方法
  注文書をダウンロードしていただき、FAXにて大河ドラマ「天地人」山形県推進協議会事務局あてにお送りください。また、お電話でのお申込みもお受けいたします。

5 申込み取りまとめ期日および納品時期
  いただいた申込みを取りまとめて、毎月1日と15日に製作業者に発注します。発注から2週間以内で納品となります。

6 納品方法および送料
  宅配便にて製作業者から直接納品いたします。送料は、のぼり旗とミニのぼりの注文枚数の合計が、10枚未満のご注文時は500円、10枚以上のご注文で無料となります。
  お近くの方は、置賜総合支庁まで受け取りに来ていただいても結構です。

7 支払方法
  のぼり旗の納品時に請求書を同封しますので、下記事務局に代金をご持参くださるか、銀行口座振込にてお支払いください。なお、振込手数料についてはご負担願います。

8 お申し込み・お問い合わせ
  大河ドラマ「天地人」山形県推進協議会事務局(置賜総合支庁観光振興室)
   米沢市金池7−1−50 置賜総合支庁3階
   電話:0238(26)6046  FAX:0238(26)6047
   のぼり旗製作業者:高岡染店 南陽市宮内3572 電話:0238(47)2202

のぼり旗注文書[詳細版]を開く(PDFファイル)  のぼり旗注文書[簡略版]を開く(PDFファイル)

  ※注文書のダウンロード・保存方法
   Windowsの場合:上記リンク上で右クリック→「対象をファイルに保存」を選択
   Macの場合:上記リンクをクリック→ファイルの「保存」を選択

...もっと詳しく
2008/04/23 15:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
山形城(霞城公園)の桜情報

山形城(霞城公園)は山形でも屈指の桜の名所です。約1,500本の桜が植えられています。山形城二の丸のお濠に映る満開の桜は、訪れる人々の心を魅了しています。最上義光歴史館は、この山形城二の丸東大手門に隣接しています。


桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜【2008】桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜


【二の丸東大手門付近】

○4月23日 11時頃 






↑↑↑
水面が桜色に染まりました!!もう間もなく桜の季節が終わります!!


桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜



祝!!一番咲き\(⌒▽⌒)/(8日11時頃)


…(=_=)!! 街灯のそばの枝が満開です(⌒▽⌒)(10日10時頃)




ライトアップは22時までです!!水面に映る桜がとても幻想的です!!(16日21時頃)


山形城二の丸の桜回廊です!!白っぽいのはオオヤマザクラです!!(21日10時頃)


山形城二の丸東大手門広場の義光騎馬像も華に囲まれ賑やかになってきました!!今日が賑わいのピークでしょう!!!!(21日10時頃)




桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜


東北の桜開花予想  >>こちら

山形の桜見ごろ情報  >>こちら
  
霞城観桜会       >>こちら
2008/04/23 11:00:Copyright (C) 最上義光歴史館
福島県北塩原村におきまして、大河ドラマ「天地人」記念ウオークが開催されます。今回のコースは、旧米沢(会津)街道のうち、大塩から桧原までの約10キロメートルです。

旧米沢(会津)街道は、福島県会津若松市と山形県米沢市を結ぶ街道です。上杉120万石の時代は、上杉景勝の本城・会津若松城と直江兼続が城主の米沢城を結ぶ重要な街道でした。おそらく兼続も幾度となく往来したことでしょう。

また、上杉家が米沢30万石に削封された際には、会津若松から米沢へ向けて、約4千騎の家臣団、その家族なども含めるとおよそ3万人が、この街道を通って引っ越したといわれています。

このように大河ドラマ「天地人」とは非常に関係の深〜い街道でのイベントです。皆さまお誘いあわせのうえ、ぜひご参加ください!

開催日:平成20年5月18日(日)
     午前8時受付開始 午前9時30分スタート

集合場所:福島県北塩原村 大塩小学校グラウンド

コース:旧米沢(会津)街道 大塩〜桧原間のコース
     全行程約10キロ 標高差510m    

参加料:記念イベントにつき無料(主催者側で傷害保険に加入します)

主 催:NHK大河ドラマ「天地人」記念ウオーク実行委員会
     【福島県北塩原村・福島民報社】

申込方法:北塩原村 大河ドラマ「天地人」記念ウオークホームページからお申込みください。

申込期限:平成20年5月8日(木)
2008/04/18 12:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
平成20年4月16日(水)、山形市の霞城セントラルにおきまして、大河ドラマ「天地人」の原作者である火坂雅志氏の講演会が開催されました。
県内各旅館の女将さん方やボランティアガイドの方々、山形観光アカデミーの関係者など約200名が集まり、会場は満員状態。やはり地元として、関心の高さが感じられました。

火坂氏は、「今は利益が求められる時代。「利」を追求した結果、「偽」がまかり通るようになった。「利」よりも「義」を取る直江兼続のような生き方を今の世の中に対して問い質したい。そんな考えがあって、この「天地人」が大河ドラマの原作として選ばれたのでは。」とおっしゃっていました。
2008/04/17 12:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
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