:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

戦国観光やまがた情報局
‥全国の動き ‥山形の動き

慶長5年(1600年)
5月3日
家康、諸大名に会津出兵を命じる。
5月7日
家康、義光に戦闘態勢を整える事を慫慂。
6月16日
義光、伏見を発つ。
6月18日
家康、会津討伐のため伏見城を出発。
7月2日
家康、江戸城到着。
7月7日
家康より義光へ、奥羽諸将を率いて7月21日に会津出陣するよう指示あり。
7月11日
石田三成、大谷吉継と計り、毛利輝元を家康追討の盟主とする。
7月17日
長束正家、増田長盛、前田玄以ら、家康弾劾13ヵ条を挙げ諸大名の決起を求める。
7月19日
島津義弘、小早川秀秋ら伏見城を攻撃。
秀忠、江戸城を発して、会津に向かう。
7月21日
家康、江戸城を発して、会津に向かう。
義光、小野寺遠江に会津攻め参陣を求める。
7月23日
家康より、会津討伐を当分中止の連絡あり。
7月24日
家康、小山着。西軍蜂起の報到着。
政宗、白石城を攻撃。
7月25日
家康、下野小山軍議。
西上して石田軍攻撃を決定。
政宗、白石城を攻め落とす。
7月29日
三成、佐和山城を出て、伏見に至る。
家康より義光へ、秀忠を残し上洛する旨連絡。
8月1日
鳥居元忠ら戦死。伏見落城。
8月13日
東軍(福島正則、池田輝政)清洲到着。
このころ山形参集の奥羽諸将、帰国。
8月23日
東軍、岐阜城の織田秀信を攻め、落城。
会津に油断なきよう、家康より義光へ指示。
9月1日
徳川家康、江戸城を発って西上。
9月3日
米沢軍議。最上攻略を決定。
9月8日
上杉軍、最上領進攻開始。(米沢市史大年表)
9月11日
上杉軍、畑谷城攻撃開始。(義光書状)
9月12日
上杉軍、畑谷城攻撃開始。(上泉主水書状)
最上軍、畑谷において上杉兵100余を討ち取る。
9月13日
家康、岐阜城に到着。
畑谷落城。城主江口五兵衛父子ら、500余討ち死…最上の城5、6か所明逃、2、30か所降参という。
(簗沢・八ツ沼・鳥屋ヶ森・白岩・野辺沢・山野辺・谷地・若木・長崎・寒河江)
上杉軍先遣隊、長谷堂城外菅沢山に布陣。山形の民衆、不安高まり山中へ避難。
9月14日
家康、関ケ原に着陣。
三成、大垣城を出て関ケ原に移動。
上杉軍、長谷堂城包囲陣を敷く。
義光出陣、須川を越える。政宗、軽挙なきよう忠告。
9月15日
関ケ原の戦い。この一日にて決す。
上杉軍、長谷堂城攻撃【1】。
上杉方の主な武士10余騎を討ち取る。
最上兵、200〜300討死という。
義光、義康を使いとし政宗に援軍を求める。
9月16日
家康、近江に進陣。
最上軍、長谷堂へ進陣。
政宗、留守政景らを援軍とすることを決定。
9月17日
佐和山落城。石田正継ら、自殺。
長谷堂勢、上杉陣を夜討ち、首150余を取る。
上山戦闘、最上方優勢。300余を討ち取る。
9月20日
秀忠、近江草津に至り、家康に会す。
義姫、政景あて、一刻も早い援軍出動を催促。
9月21日
石田三成、捕らえられる。
政宗、援軍の笹谷越えを許可。
義光・義康、連名で弥勒に戦勝祈願。
9月22日
伊達軍、笹谷を越え東沢着陣。馬上150、足軽1000余
9月23日
安国寺恵瓊、捕らえられる。
義光、須川を越えて出陣。悪天候のため戦闘に至らず。25日に景勝が最上へ出馬するとの風評あり。
9月24日
毛利輝元、大坂城を退去。
上杉軍、長谷堂城攻撃【2】。伊達軍も出陣。
9月25日
二本松の上杉軍及び景勝直属鉄砲隊300を最上方面へ増援との情報あり。
9月27日
徳川家康、大坂入城。戦後処理開始。
政宗より政景に連絡「最上の村里みな焼けても苦しからず」(政宗書状)
9月29日
上杉軍、長谷堂城攻撃【3】。城兵、出撃。上泉主水、岩井備中息、松下木工ら、300余人討ち取る。
直江、陣替して焚略作戦に出ることを表明。
9月30日
長束正家、水口城を去って自殺。
両軍に、関ケ原合戦の結果が到着。
10月1日
石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の3将六条川原で処刑。
上杉軍、長谷堂より退陣。最上軍これを追撃。
1580人を討ち取る。最上討死623。
白岩、寒河江、左沢、長崎、富並などで1500人を討ち取る。
10月2日
政宗、政景あて、援軍の増員を連絡。
10月3日
直江、荒砥城へ帰陣。
10月7日
最上領内の戦闘、このころ終息。
義姫、政景あて礼状を送る。
10月8日
上杉全軍、撤退完了。伊達政景軍この日開陣。
10月15日
最上軍、庄内(上杉領)・仙北(小野寺領)攻略を開始。
10月16日
最上軍、仙北に進攻。有屋峠、法領ケ館合戦。
最上・秋田・由利衆連合軍、大森城攻撃。
10月17日
仙北、大森落城。(秋田最上両家関係文書)
10月20日
上杉勢、谷地に篭城中。(義姫書状)
10月21日
義光、政宗を訪ねて、礼を申し述べる。
帰路、山中にて暴風雨にあう。
10月22日
最上軍(湯沢豊前・鮭延典膳・延沢遠江ら)仙北柳田城を攻略。
10月中
最上軍尾浦城攻撃。松本信濃ほか力戦、落城。

慶長6年(1601年)
4月11日
最上義康勢6000、清水大蔵勢3500、最上川渡河戦、酒田東禅寺城を攻撃。
4月24日
志田修理・川村兵蔵、酒田城を開き降伏。
5月23日(両方)
「出羽奥州の合戦を停止するよう」家康より義光あて指示到来。
連絡を受けて、湯沢・大森の最上陣を開く。
出羽合戦、すべて終息。
8月
最上義光、庄内3郡・由利郡、33万石加増。
上杉景勝90万石削減、米沢に30万石移封。

■最上義光歴史館 特別展
 「東北の関ヶ原 慶長出羽合戦」より
 (2000年/片桐繁雄作成)

今年も米沢上杉まつりが
平成21年4月29日〜5月3日まで開催されます。
今年は5月2日の武てい式も会場変更になり、5月3日と同じく
松川河川敷で行なわれます。

そこで
5月2日(土)武てい式桟敷席(飲食券付)
5月3日(日)川中島合戦の桟敷席(お土産付き観覧席)を
4月1日(水)の午前9時より予約申込受付開始いたします。
予約販売終了いたしました。


武てい式・川中島合戦 桟敷席 販売要項
予約開始  平成21年4月1日 午前9:00〜  
定員になり次第終了致します。
電話予約&インターネット予約 
料金     5月2日 1500円(消費税込・飲食券付)
      5月3日 1500円 (消費税込・お土産付き)
      ※前売、当日、同料金
申込方法  電話での申し込み、または上杉まつり公式ホームページ内
      申込フォームから受付致します。
予約販売終了いたしました。     
申込先  米沢観光物産協会 TEL0238-21-6226
インターネット予約:上杉まつり公式ページhttp://uesugi.yonezawa.info/

※詳しくは各ページでご確認ください。

あなたもぜひ桟敷席に座り、
目の前で戦国絵巻の興奮をあじわってみませんか!!
2009/04/01 08:23:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会

大河ドラマ天地人米沢市推進協議会と(社)米沢観光物産協会では、
この度米沢市「直江兼続」マスコットキャラクター
“かねたん”の日常を描いた絵本『かねたんのいちにち』を
米沢市内の各児童施設に寄贈いたしました。

※米沢観光物産協会内藤会長(左側)から米沢市長(右側)へ贈呈

その後米沢市より米沢市内の認可保育園、
認可外保育園、児童センター、幼稚園、その他米沢市担当課などに
寄贈されることとなります。

「かねたんのいちにち」を米沢市内の多くの子供たちに読んでもらい
“かねたん”を好きになってもらい、かねたんを通して直江兼続公
に興味を持っていただき、天地人博のPRにつなげて行きたいと
考えております。

絵本「かねたんのいちにち」(900円税込)は、
全国の書店でお買い求めいただけます。
米沢市内の観光施設
天地人博会場(伝国の杜・上杉博物館)
道の駅田沢
織絵夢人館
米沢駅観光案内所アスク
米沢観光物産協会案内所
織絵夢人館でも販売しております。

ぜひお買い求めください。
米沢観光物産協会ホームページでも
紹介しております。
こちら絵本「かねたんのいちにち」発売!

絵本「かねたんのいちにち」
著者 おかのあき
監修 米沢市役所総合政策課・(社)米沢観光物産協会
定価 900円(税込)
発行所 株式会社ウェッジホールディングス
発売元 株式会社文苑堂

2009/03/18 23:15:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
「米沢 愛と義のまち 天地人博2009」「天地人コレクション」コーナーではテーマに沿って直江兼続に関する文化財を紹介しております。

3月20日(金・祝)まで「危機への対応」をテーマに、上杉家と織田信長軍との戦い、そしてその中で直江兼続が次第に上杉家中を統括する第一歩を踏み出していく姿を紹介しております。

真田昌幸所用と伝わる甲冑「啄木糸威伊予札胴具足(上田市立博物館所蔵)」、「賤ヶ岳合戦図屏風(馬の博物館所蔵)」等、米沢ではなかなかお目にかかることのできない資料も多く、見ごたえのある内容となっています。間もなく見納め。是非お見逃しないよう、よろしくお願いします。

2009/03/18 21:09:Copyright (C) 伝国の杜 情報BLOG
「かねたん」が「土曜スタジオパーク」出演!
「天地人」収録中のスタジオにかねたんが訪問!兼続役の妻夫木聡さんやお船役の常盤貴子さんを激励。
その様子が3月14日放送の「土曜スタジオパーク」(午後2時〜)で紹介されます!
ちなみにかねたんは妻夫木さんとは1月24日米沢でお会いして以来の再会。常盤さんとは初対面です。

土曜スタジオパークのホームページ

http://www.nhk.or.jp/dosta/next/index.html
2009/03/10 00:22:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
【楯岡甲斐守光直/たておかかいのかみあきなお】 〜兄・義光のために祈った〜
   
 「立石寺の薬師様の御前に、鰐口一箇を寄進します。そのわけは、出羽の国守、義光公の寿命が長く息災にて、文武ともに久しく発展するよう祈願するものです。」
 慶長13年(1608)10月26日の銘がある巨大な鰐口には、このような内容の漢文がしっかりと刻みつけられている。願主は「山形甲斐守源光直」、義光の弟の祈りのことばである。
 光直は一門の家老として、楯岡城主、1万6千石を与えられていた。
 この年の前後から、最上義光の領国内は、明るい発展のムードがみなぎってくる。
 山形専称寺、宝幢寺、鶴岡極楽寺には京都の「天下一道仁」の鋳造した鐘が納められ、羽黒山の五重塔や慈恩寺の三重塔が落成し、加茂の港は整備され、鶴岡三日町にはじめて橋がかけられ……と、出羽は新たな時代へと変わっていく。
 華やかな桃山文化が、ここ出羽の国につぎつぎと移入され、うつくしく花を開かせはじめていた。
 光直だけでなく、最上家の重臣たちもきそって、寺院や神社に土地、建物や美術品などを寄進して、領内の平和と発展を祈願した。
 この鰐口は、そのころの様子を物語る貴重な史料の一つであり、現在は立石寺の宝物として県文化財の指定を受けている。
 だが、最上家の繁栄を願った光直の祈りもむなしく、1622年(元和8)最上家はわずか一万石で近江に移されてしまう。
 光直は、幕府の命令で山形を離れ、九州小倉城主細川忠利に預けられることとなった。
忠利は、江戸から国もとの家臣にあてて、わざわざ手紙を書いた。(『細川実記』)
 「甲斐守が小倉に着きしだい、百人分の手当てをせよ。宿舎はしばらくは寺をあてるように。家は自分がそちらに行ってから申し付ける。……家来を百二、三十人も連れているのだから、その心得をするように」
 奥羽の雄藩、最上家の改易は、諸大名にとって大きな驚きであったのだろう。手紙につづけて、「光直ハ最上義守ノ次男ニテ、義光ノ弟、其姉ハ伊達政宗ノ母堂ナリ」と注があるが、そういう人物を預かるのはやはり大変なことと受けとめられていたのである。
 光直はやがて出家して「哲齋」と号し、七年後の寛永6年(1629)5月21日に病没する。年齢は65歳、71歳、二つの説がある。
 近くの柳川(福岡県)には、最上家後継ぎ問題で対立した一族の松根光広が住んでいたはずだが、顔を合わせる機会もなかっただろうと思われる。
 光直の子孫は、細川家が熊本に移ったのちも千石を与えられ、代々同家に仕えて明治維新を迎えた。
■■片桐繁雄著
2009/03/08 18:09:Copyright (C) 最上義光歴史館
天童商工会議所の主催で、下記のとおりセミナーが開催されます。ドラマの序盤は越後の国が舞台ですが、後半は出羽の国が舞台になります。ぜひぜひ皆様ご参加ください。

■日 時  平成21年3月4日(水)午後1時30分〜午後3時30分

■場 所  天童温泉協同組合 2階会議室

■参加料  無 料

■内 容  テーマ「大河ドラマ天地人にみる戦国時代の出羽の国の歴史」
       講 師 片桐繁雄氏(上山市立図書館 館長)

■主 催  天童商工会議所観光部

■申込先  天童商工会議所
 TEL:023−654−3511、FAX:023−654−7481
2009/03/02 20:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局

 
更新がおくれてしまい、ご覧いただいている方には大変申し訳なく思っております。

「米沢 愛と義のまち 天地人博2009」「天地人コレクション」コーナーではテーマに沿って直江兼続に関する文化財を紹介しております。現在のテーマは「危機への対応」(3月20日迄)景勝率いる上杉家が天下統一を目指す織田信長軍に苦戦を強いられていく中で、直江兼続が前線との連絡の要に位置づけられ、次第に上杉家中を統括する第一歩を踏み出していく姿を紹介します。またこのような活動が展開した信濃(現在の長野県)情勢を真田昌幸を通して、また中央の情勢もあわせて紹介します。
 
真田昌幸所用と伝わる甲冑「啄木糸威伊予札胴具足(上田市立博物館所蔵)」、秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦いを描いた「賤ヶ岳合戦図屏風(馬の博物館所蔵)」など、今回も米沢ではなかなか見ることのできない文化財を展示しております。また国宝「上杉本洛中洛外図屏風」複製は引き続き展示中です。

今回のテーマは大河ドラマでも丁度これから登場してくる時代です。その点も含めて是非お見逃しなく。
 

2009/02/27 13:09:Copyright (C) 伝国の杜 情報BLOG
 各新聞やテレビでも紹介されましたが、「米沢 愛と義のまち 天地人博2009」は、お陰様で先日2月11日(水・祝)に1万人目のお客様をお迎えすることができました。この日は展示室入口でセレモニーを開き、めでたく1万人目となられた東京都町田市よりおこしのご夫婦へ記念品を贈らせていただきました。

 これからもさらに多くのお客様をお迎えできるよう、職員一同がんばってまいります。

2009/02/14 10:58:Copyright (C) 伝国の杜 情報BLOG
楽天トラベルにて、山形には「愛」がある!「ロマンチックな愛に出会う旅」特集ページを開設中です。
見どころや美味しいもの、おすすめの温泉を2泊3日のコースでご案内しています。ぜひ旅のご参考にご覧ください。
 楽天トラベル:http://travel.rakuten.co.jp/movement/yamagata/200901/
2009/02/10 13:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
県政テレビ「週刊やまがたWALKER!」において、開幕した「天地人博2009」の様子が紹介されます。是非ご覧ください。

放送局:テレビユー山形(TUY)
番組名:週刊やまがたWALKER!
放送日時:平成21年2月12日(木) 午後7時54分〜午後8時
2009/02/09 13:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局


「米沢 愛と義のまち 天地人博2009」はNHK大河ドラマ「天地人」の中で描かれる直江兼続と、ゆかりの文化財を通して史実における直江兼続の2つの世界を知っていただくことができる展示内容となっております。
 
現在も様々な地域より、多くのお客様にいらしていただいております。横浜からいらした60代の男性の方からは「大河ドラマの登場人物一人一人について、わかりやすく解説されていてよい」というお言葉をいただきました。お隣は福島市からいらした60代のご夫婦からは「直江兼続について興味を深めることができてよい。周りに歴史好きな友達が多いので今度は一緒にきたい。」というお言葉をいただきました。どちらも大変ありがたいお言葉です。

会期中〔来年1月11日(月)まで〕は無休で開館いたします。是非多くのお客様からのご来館お待しております。

展覧会情報 
開館時間 9:00〜17:00(入館は16:30まで)             
 料金 一般700円 学生500円 小中学生300円
お問い合わせ 米沢市上杉博物館 0238−26−8001

お知らせ
2月14日(土)〜15日(日)の上杉雪燈籠祭り開催期間中は、伝国の杜駐車場はご利用いただくことができません。詳しくはこちらをご覧ください。

2009/02/06 17:17:Copyright (C) 伝国の杜 情報BLOG



 
「米沢 愛と義のまち 天地人博2009」「天地人コレクション」では兼続が目にし、また手にしたと思われる文化財、兼続の生きた時代から後の時代に書き写されて今に伝わる文化財を通して、兼続の時代を紹介しております。

出陣中(関東といわれる)の謙信に景勝がお守りを送ったことに感謝した謙信の書状が残っています。景勝はお守りに手紙を書いて付けたのでしょう。この書状のなかで謙信は景勝の文字が上達したことをほめており、さらに「手本」を送ったことを追伸に記しています。この時に送った手本とはいえませんが、謙信が景勝に贈ったとされる手本3点が当館所蔵の国宝「上杉家文書」の中に伝わっています(画像)。この手本から謙信が景勝の教育に取り組む姿が想像できます。

この手本3点は2月20日(金)まで「天地人コレクション」のコーナーにて展示しております。
 
また、大河ドラマに登場し、現在注目されている国宝「上杉本洛中洛外図屏風」複製を展示しております。

 是非当館へ、謙信・景勝・そして兼続ゆかりの文化財を見においでください。

お知らせ
2月14日(土)〜15日(日)の上杉雪燈籠祭り開催期間中は、伝国の杜駐車場はご利用いただくことができません。詳しくはこちらをご覧ください。

2009/02/05 16:53:Copyright (C) 伝国の杜 情報BLOG
大河ドラマをPRする天地人ギャラリーが開催されていますので、是非ご覧ください。

■展示期間
  平成21年2月2日(月)〜2月27日(金)

■展示場所
  山形県庁1階ロビー 県政発信ギャラリー

■主  催
  大河ドラマ「天地人」山形県推進協議会
  NHK山形放送局

■展示構成
○パネル等
 ・NHK大河ドラマ関連PRパネル
 ・県内ゆかりの地紹介ポスター
 ・最上義光・長谷堂合戦紹介ポスター
 ・長谷堂合戦・朝日軍道立体図(鳥瞰図)パネル
 ・県協議会制作天地人関連ポスター

○のぼり等
 ・県協議会制作天地人のぼり
 ・NHK制作天地人のぼり
 ・県協議会制作ミニのぼり

○パンフレット等
 ・ミニガイド、米沢市直江兼続青ガイド、ステラ抜刷り、かねたんマップ、
 ・山形市西部マップ、畑谷紹介パンフ、天地人博チラシ

...もっと詳しく
2009/02/03 11:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
上杉雪灯篭まつり会場にある上杉博物館では
現在、大河ドラマ天地人の放送にあわせて
天地人博2009が開催されております。
上杉雪灯篭まつり期間は、天地人博2009の開館時間が
下記のとおり延長されます。
2月13日(金)        9:00〜19:30(最終入場19:00)
2月14日(土)・15日(日) 9:00〜21:00(最終入場20:30)

また、上杉雪灯篭まつり会場行きのシャトルバスを
ご利用になると特典として、14日と15日の2日間限り、
天地人博の入場券を100円引きでお買い求め
いただけます!(入場券は2月16日以降もお使いいただけます)。
雪灯篭と一緒に天地人博2009をぜひお楽しみください!

※14日・15日は会場周辺に駐車場がありませんので、
米沢駅・米沢市役所・置賜総合支庁からのシャトルバスを
ご利用ください。

天地人に関する詳細は、天地人博HP
http://www.yonezawa-naoe.com/index.html
をご覧下さい。
2009/01/30 23:11:Copyright (C) 上杉雪灯篭まつり公式サイト
米沢市直江兼続マスコットキャラクター
かねたんが絵本になりました!
1月30日より販売開始!

かねたんの生みの親である、おかのさん書き下ろしの、
かねたん絵本!
いろんなかねたんに出会えます。
新しいキャラクターも登場し、可愛すぎる一冊です。

かねたんの1日を、こっそりのぞいてみませんか?

「この笑顔を見ていると、なんだか涙が出ました・・」
天地人推進室スタッフ談
「かねたんに会いに米沢に来てください!」
観光協会スタッフ談

書店でお買い求めできます。
米沢では、天地人博会場の上杉博物館
米沢観光物産協会でも販売中

「かねたんのいちにち」
著者 おかのあき
監修 米沢市役所総合政策課・社団法人米沢観光物産協会
定価 900円(税込)
こちらはかねたん絵本のCMです!ウェッジホールディングス・ブレインナビ製作
発行所 株式会社ウェッジホールディングス
発売元 株式会社文苑堂

...もっと詳しく
2009/01/30 13:37:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
直江兼続ゆかりの地・米沢
天地人博・泊パック!
米沢牛または米沢鯉を専門店でご夕食
市内宿泊でお一人様お得な10,000円!

さらに特典!
天地人博チケットが割引価格で購入できます!
一般700円→500円でお求めできます!
学生500円→300円
小中学生300円→150円

期間は平成21年1月24日から平成22年1月11日

市内のホテル・旅館に宿泊
ご夕食は市内の米沢牛・米沢鯉の専門店
ぜひ美味しい米沢牛・米沢鯉を食べて
天地人博を楽しんでみてはいかがでしょうか?

PDFファイルにてダウンロード印刷できます。
天地人博・泊パックPDFファイル

郵送をご希望の方はお送りさせていただきますので
ご連絡いただきたいと存じます。

パックのお申込み方法
ご希望の宿泊施設までお電話で
2日前までお申込みください。
お食事処のお申込みも同時にお伝えください。
※現金のみのお取り扱いとなります。

=会津・米沢地域観光圏整備事業=
発行/社団法人米沢観光物産協会
〒992-0052
米沢市丸の内1−3−60
電話0238−27−1390

...もっと詳しく
2009/01/30 08:36:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
「天地人博2009」オープニングイベントにお越しいただいた、妻夫木聡さんと北村一輝さんが、NHK土曜スタジオパークの番組紹介コーナー「まるNフラッシュ」に登場です。

 放送局:NHK総合/デジタル総合 「土曜スタジオパーク」
 放送日時:平成21年1月31日(土) 午後2時〜午後3時
 コーナー:「まるNフラッシュ」
        妻夫木聡&北村一輝「天地人博2009」トークショーに出陣!
2009/01/29 12:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
【山野辺義忠/やまのべよしただ】 〜水戸徳川家の重鎮となった〜   

 最上義光が巨大な人物だったことは言うまでもないが、その血を分けた息子たちのなかにも、非常にすぐれた人物がいた。
 四男山野辺義忠(改名前は光茂)は、その筆頭に挙げることができるだろう。
 天正16年(1588)生まれ。父義光43歳であった。
 幼名を比治利丸(ひじりまる)と称したという。義光のほかの子等同様、系図類には生母として「某氏」とあるだけだが、おそらくは正室大崎夫人の所生かと思われる。夫人は40歳に近かったのではあるまいか。
 義光の子供たちの生年を見ると、長男義康は1575年生まれ、松尾姫・78年、駒姫・81年、竹姫・84年、それにこの光茂は88年生まれ。異論はあるかもしれないが、14年間に生まれたこの5人を同腹としても矛盾はない。
 家親(義光没後、山形城主)と光氏(後清水城主、義親)は、ともに1582年(天正10)生まれで当然異母兄弟、駒姫とは1歳違いの弟に当たる。
 家親の実母は、慶長3年(1598)12月14日逝去「高月院殿妙慶禅定尼」と最上家過去帳に記載がある。光氏は天童夫人(天正10年10月12日没)の子らしく、彼の領した清水(現大蔵村)の興源院が母子の牌所となっている。
 これら七人の兄弟姉妹からずっと離れて、光茂とは11歳違いの五男光広(1599生、後上山城主)、六男大山光隆(1602生、後大山城主)、徳島で亡くなった女子(旧東根城主、後徳島藩家臣、里見親宜の妻)がいるが、この3人は義光の最後の妻となった、30歳ほど年下だった清水夫人の生した子ではあるまいか。
 さて、四男が義忠を名乗るようになった時期ははっきりしない。山形で見られる名乗りは「光茂」である。鶴岡市の高木家、松山町石川家の慶長年間と推定される文書や、山辺町専念寺、山形市千手堂吉祥院、朝日町大谷大行院の文書など、すべて「光茂」である。
 慶長5年の出羽合戦のときは、13歳の少年であったから、戦陣には加わらなかったと見え、水戸徳川家の『水府系纂巻第三十八』には「関原ノ證人ト為テ神君(徳川家康)ニ参リ静謐ノ後従五位下ニ叙シ右衛門大夫ニ任セラル」とある。人質として家康のもとに預けられたというわけだが、その折家康は「将来恐るべき怪童」と評したという。どこか並々ならぬ素質を具えていたのであろう。
 関ケ原戦後は山野辺家の名跡をつぎ、右衛門大夫を称し、1万9千300石を領した。山野辺は、山形の北西7キロメートルばかりの所にあり、本城を支える重要な城池であった。領地の範囲は、現在の山辺郷周辺の平野部と白鷹丘陵の山間地、及びその西の最上川が峡谷となって北流する五百川郷(現朝日町)を含む範囲だったらしく、最上家改易のとき接収された朝日町の八ツ沼城は「山野辺右衛門の内」と伊達文書に記載されている。
 15歳そこそこの少年でありながら重要な一城をあずかったのも、それなりの器量の持ち主だったからであろう。もちろん、すぐれた家臣団があってのことと推測される。伝承によると、光茂は現在の大石田町深堀で育ち、山野辺に入部するに際して連れてきたという、いわゆる「深堀三十六人衆」と称される人々が家臣団の中核をなしていた可能性もあるが、これについては今後の更なる検討が必要だろう。
 後藤禮三氏の研究をもとに、山野辺城主時代の業績を箇条書きにすれば次のようになる。
 1 山野辺城の拡張改修
 2 城下町の建設と市の開設
 3 釣樋堰の開鑿など灌漑治水事業
 4 神社仏閣の護持
 5 交通路の整備
 最上家改易(1622)までのおよそ20年、山野辺の青年城主としてこれらの事業を成し遂げ、城下町山野辺を小規模ながらも山形の衛星都市として完成させたのである。
 57万石の大大名となった奥羽の重鎮最上義光は、しばしば長期にわたって京都、江戸などに滞在しなければならなかった。そういうとき、留守をまもって領内政治を取り仕切ったのが、確かな史料があるわけではないが、近くに居城を持つ山野辺光茂ではなかったか。
 ともあれ、彼がすぐれた力量の持ち主だったことが、後にお家騒動の原因となったのは、まことに皮肉な巡り合わせであった。
 義光亡き後藩主となった兄・駿河守家親が元和3年(1617)3月に急病で亡くなると、その子源五郎家信が12歳で山形の主となる。家信は江戸生まれ、江戸育ち、全国有数の57万石の大封土と、大名クラスの重臣をはじめとする多数の家臣団を統治するには力不足だった。(以下、別項と重複することをお許し願いたい。)
 「義俊(当時は家信)若年にして国政を聴く事を得ず。しかのみならず常に酒色を好みて宴楽にふけり、家老これを諌むといえどもきかざるにより、家臣大半は叔父義忠(光茂)をして家督たらしめんことをねがう」と、『最上氏系図』(寛政重修家譜)は述べている。
 このとき、義忠は30歳であった。一族・家臣団の多くは、信望あつい彼に最上の未来を託そうとしたのだった。むろん、義忠自らも領内の最高権力者、責任者となって、出羽国を発展させることに、強い自信を持っていたに相違あるまい。重臣のほとんどが彼を推した。中心となったのが義光の弟楯岡甲斐守光直、千軍萬馬の勇将として知られる鮭延越前守秀綱。
 一方、これに強く反対し「家親の死は、楯岡らの陰謀による毒殺。源五郎家信こそ正統」と幕府に訴え出たのが、一族の老臣松根備前守光広であった。だが、幕府はこれを無根の説と退けて、彼を九州柳川の立花家に預けた。そのうえで重臣たちを呼び出し「皆で最上家を守り立てよ」と説得したにもかかわらず、重臣の多くはこれを拒否した。
 最上のトップたる義忠が、並み居る幕府閣僚を前にして何を語ったかは知ることができないが、自己の主張信念を曲げることはなかっただろう。
 元和8年8月、最上家は改易となった。
 多くの家臣は禄を失って流浪するものが少なくなかった。
 このときに義忠は、岡山池田家に預けられた。ここで約12年を過ごし、寛永10年(1633)9月、三代将軍徳川家光じきじきの命令によって、水戸徳川家の家老として1万石で仕えることとなった。類まれな処遇というべきだろう。
 水戸藩主頼房は、やがて三男千代松(1628〜1700)の教導役を命じたそうである。
 非行少年と心配された千代松は、青年時代から急速に変貌をとげ、仁義の大道を歩むようになる。そうして、ついには名君・水戸光圀公と仰がれるようになるわけだが、その蔭には山野辺義忠の豊かな薫陶があったのであろう。
 頼房が没する(寛文元年/1661)と、光国(のち、圀に改む)が藩主となる。これを見届けたのち義忠は隠居して仏門に入り、道慶と号する。
 義忠の後を嗣いだ義堅は、光圀の妹である利津姫を妻に迎えている。その後も山野辺家は、幾度か主家と縁組を重ねている。改易のとき九州細川家に預けられた楯岡甲斐守光直の孫が、山野辺家の養子となったという奇しき因縁もある。最上義光の血筋は、こうして水戸徳川家を支える名門として伝えられたのである。
 茨城県那珂市にある常福寺は、水戸徳川家の菩提寺で、浄土宗の名刹として知られている。境内の入り口には、山野辺家の墓所がある。巨大な五輪塔が四基立ち並んでおり、右端が義忠の供養塔である。牌記は「良源院殿前堅門貞誉松座道慶大居士」。
 山形にも、山野辺家にゆかりある小堂がある。
 立石寺奥の院近く、中性院前にある「最上義光公霊屋」がそれである。
 これを建立したのは、たぶん山野辺義忠であろう。年次不明6月晦日の千手院別当あての光茂書状に「今度山寺にて玉屋(霊屋)直し申し付け……」とあるが、これは義光没後まもないころに建てた霊屋が破損したので、修理するよう手配したものであろう。
 また、館林市に伝わる『山形風流松木枕』には「宝暦十三年(一七六三)二月七日に、義光公百五十年忌、この御子孫(義忠の子孫)より御弔いあり」という記事があるが、これはたぶん山寺の霊屋のことであろう。水戸に移ってから百五十年たった後にも、山野辺家は先祖のふるさと山形との縁を大切にしていたのである。もっとも、この年は義忠の百年忌にもあたっていたので、その供養も兼ねたのかもしれない。
 霊屋内には、義光・家親二代の位牌を中に、山野辺義忠親子三人の位牌も納められている。義忠の牌記は次のとおり。
 「義光次男従五位上 山野辺右衛門太(ママ)夫義忠 寛文四天極月十四日午ノ上刻」
 「次男」は誤記かどうか。正室が生んだ男子としては、次男に当たるという意味か。
寛文四年は1664年。「極月」は12月。午ノ上刻は正午少し前ごろ。77歳、堂々たる生涯であった。
 東根家に嫁いだ腹ちがいの妹が、遠い徳島で亡くなったのは同年8月のことだが、お互いにそういう事実を知ることができたのだろうか。
■■片桐繁雄著
2009/01/29 09:25:Copyright (C) 最上義光歴史館
NHK山形放送局の夕方のニュース番組「やまがたニュースアイ」の中で、大河ドラマ「天地人」に出演されている、上杉謙信役の阿部寛さんと、直江兼続役の妻夫木聡さんへのインタビューの模様が放送されます。ぜひご覧ください。

 放送局:NHK山形放送局
 放送日時:平成21年1月28日(水) 午後6時10分〜午後7時
        上杉謙信役:阿部寛さんへのインタビュー

       平成21年1月29日(木) 午後6時10分〜午後7時
        直江兼続役:妻夫木聡さんへのインタビュー

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