:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

戦国観光やまがた情報局
第19回鷹山公シンポジウム
〔主催:鷹山公と先人顕彰会〕
テーマ
 直江兼続の史跡紹介〔米沢・山形最終編〕
 −迫力ある映像と楽しい語り−
解説 米沢市文化財保護審議会委員
   鷹山公と先人顕彰会常任理事
   石栗 正人

期日 平成21年9月20日(日)
   午後1時30分開場
   午後2時開演

場所 伝国の杜 置賜文化ホール
入場無料

第1部「朝日軍道」 
   日本史上最大の山岳道「朝日軍道」
   開拓にまつわる話と、畑谷城並びに
   長谷堂城の戦いについて語ります。

第2部「殖産振興と学問振興」
   殖産興業の振興、学問文学のすすめ、愛情溢れる
   領民政策、人生終焉の跡をたどります。

駐車場について
  当日、「天地人博」開催中のため
  伝国の杜及び上杉城史苑駐車場は
  大変混雑することが予想されます。
  他に、臨時駐車場、無料シャトルバスが
  用意されておりますので、そちらをご利用
  いただきたいと存じます。

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2009/08/25 08:40:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
ナビゲータ山口良一さんが、やまがたの魅力を紹介している情報番組「やまがた発!旅の見聞録」で、「天地人ゆかりの地を訪ねて」と題して県内ゆかりの地を紹介されます。
第一回は山口良一さんが米沢市で直江兼続ゆかりの地を巡り、天地人博や林泉寺などを地元の人と触れ合いながらご紹介します。

■やまがた発!旅の見聞録
 <テレビ埼玉・千葉テレビ・テレビ神奈川・山形放送(YBC)>

■8月22日(土)
 午前9時25分〜9時40分(山形放送の日時)
 「天地人ゆかりの地を訪ねて〜米沢市〜」

■8月29日(土)
 午前9時25分〜9時40分(山形放送の日時)
 「天地人ゆかりの地を訪ねて〜後編〜」

▼放送後に動画が見られます
 旅の見聞録

2009/08/21 19:26:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
大河ドラマ「天地人」の放送記念イベントとして、大河ドラマ「天地人」シンポジウムを開催いたします。
NHK大河ドラマ「天地人」の時代考証をご担当されている小和田哲男氏の講演と、小和田氏をコーディネーターにお迎えし、奥羽の関ヶ原とも呼ばれる「慶長出羽合戦」についてのパネルディスカッションを開催します。

開催日:平成21年9月13日(日)

時 間:開場 午後0時30分 開演 午後1時30分  終了予定 午後4時30分
     第1部 小和田哲男氏基調講演
        「裏側から読みとく戦国武将 〜ドラマと史実のうそほんと〜」
     第2部 パネルディスカッション
        「もう一つの関ヶ原 慶長出羽合戦とは何だったのか」
          コーディネータ:小和田哲男氏
          パネラー:伊藤清郎氏(山形大学地域教育文化学部教授)
                遠藤 英 氏(九里学園高等学校教諭)

会 場:山形テルサ ホール(山形市双葉町1−2−3)

入場料:無料(入場整理券が必要です)

定 員:500名

主 催:大河ドラマ「天地人」山形県推進協議会
共 催:大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会、NHK山形放送局
後 援:大河ドラマ「天地人」広域観光連携協議会


入場整理券の配布方法について
山形県観光振興課、各総合支庁観光振興室、やまがた観光情報センター、NHK山形放送局にて整理券を配布しております。
上記のほか、FAX、はがきでも受け付けいたします。【氏名・住所・郵便番号・電話番号・整理券の枚数】を明示してお申し込みください。後日整理券をお送りいたします。

※たいへんご好評をいただき、規定の枚数に達したため、入場整理券の配布を終了させていただきました。どうもありがとうございました。

お申し込み・お問合せ
 大河ドラマ「天地人」山形県推進協議会(事務局:山形県観光振興課)
  郵便番号:990−8570 山形市松波2−8−1
   電話:023(630)2373  FAX:023(630)2097

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2009/08/21 09:20:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
永正21年(1524)〜慶長14年(1609)
 綾姫。上杉景勝の生母で、上杉謙信の姉でもある。父は越後守護代長尾為景、母は虎御前。
 坂戸城主長尾政景に嫁ぎ二男二女をもうけた。長男義景は10歳で早世、二男顕景は後の景勝、長女は上条城主・上条政繁に嫁ぎ、二女は上杉景虎(北条氏政の七男で謙信の養子)に嫁いだ。
 夫政景の死後、才気煥発な少年樋口与六(後の兼続)を見出し、喜平次(景勝)の小姓として推挙。その後謙信の招きで、景勝とともに春日山城へと移り、景勝は謙信の養子となった。
 仙洞院は、「御館の乱」で景勝と景虎(二女の夫)が争うことになり辛い立場に置かれながら、動乱の時代を景勝とともに歩んだ。
 その後、景勝の移封に伴い会津そして米沢城へ移る。慶長14年(1609)2月15日、米沢城二の丸で死去。享年85。墓は米沢市林泉寺にある。

 大河ドラマ「天地人」では、仙桃院、二女は華姫となっている。

2009/08/20 23:10:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
清水光氏(しみずあきうじ):1582〜1614
  最上義光の三男。のち義親(よしちか)。最上氏の一族であった清水義氏の養子となり、清水家を継ぎ清水城主となった。慶長出羽合戦では、長谷堂城を救援して上杉軍と戦った。その後の庄内攻略戦では、叔父の楯岡光直とともに総大将を務めた。若い時に豊臣氏の人質となっていたため、豊臣秀頼との繋がりがあり、大坂の役に際して内通を疑われた。兄の最上家親に清水城を攻められ、嫡子・義継ともども自刃した。
   関連史跡:清水城址(大蔵村) 


清水義氏(しみずよしうじ):1547〜1586
  最上氏一族の清水氏6代目当主。清水城主。1565年に父・義高が大宝寺義増に敗れ、討死したため跡を継いだ。その後は最上義光と連携して大宝寺氏とたびたび争う。男子が無かったため、義光の三男・光氏を養子に迎えた。のちに娘の清水姫は義光の継室となった。


山野辺光茂(やまのべあきしげ):1588〜1664
  最上義光の四男。のち義忠(よしただ)。慶長出羽合戦後に父・義光の命により山野辺城主となり、山野辺家の名跡を継いだ。山野辺の城下町整備や治水事業を行なうなど、優れた行政手腕を発揮して領民に慕われた。兄・家親が急死し、その子家信が藩主を継いだが、家信は若年で国政を執るには力不足で、光茂を当主に推す声が強くなった。このため家臣団がまとまらず、最上家改易の原因となった。改易により光茂も池田家に預けられた。後に水戸藩の家老となり、徳川光圀の教育係を務めた。
   関連史跡:山野辺城址(山辺町)


上山光広(かみのやまあきひろ):1594〜1627?
  最上義光の五男。のち義直(よしなお)。1616年に2万1千石にて上山城主となり、上山姓を名乗った。最上家改易により黒田家に預けられ、4,5年後に自害したと云われる。
   関連史跡:上山城(上山市)


大山光隆(おおやまあきたか):1602?〜1623
  最上義光の六男。1615年に2万7千石にて庄内大山城主となり、大山姓を名乗った。最上家改易により酒井家に預けられ、翌年広島にて自害した。
   関連史跡:大山(尾浦)城址(鶴岡市)


長瀞義保(ながとろよしやす):?〜1591?
  最上義守の次男。兄・義光が天童氏を攻め滅ぼすと、その命により天童氏を盟主として義光に対抗した最上八楯の一員である長瀞氏を継いだ。
   関連史跡:長瀞城址(東根市)


長瀞光忠(ながとろあきただ):?〜?
  義保の跡を継いで長瀞城主となる。1596年湯沢城に拠る楯岡満茂が小野寺義道の攻撃を受けた際、小国光基とともに救援に赴いて撃退した。


白岩光広(しらいわあきひろ):1589〜1672
  長瀞義保の子。白岩義広の養子となり、白岩家を継いで白岩城主となった。1615年松根城を築城して城主となり、松根氏を称した。最上家親が急死した件を、楯岡光直による毒殺であると幕府に訴え出た。幕府は調査したが証拠が無く、光広を立花家へ配流する処分を下した。
   関連史跡:白岩城址(寒河江市)


楯岡光直(たておかあきなお):?〜1629?
  最上義守の三男。楯岡城主。楯岡満茂が湯沢城(湯沢市)に移り、湯沢氏を称するようになったため、その跡を継いで楯岡氏を名乗った。慶長出羽合戦では、長谷堂城を救援して上杉軍と戦った。その後の庄内攻略戦では、甥の清水光氏とともに総大将を務めた。最上家信が藩主となると、最上義光の四男・山野辺光茂の擁立に動いた。このため、最上家中は二分して混乱し改易された。改易後は細川家に預けられた。
   関連史跡:楯岡城址(村山市)


楯岡満茂(たておかみちしげ):1556?〜1639?
  楯岡城主。1586年横手城主の小野寺義道が侵攻してきた際、有屋峠で最上義康とともに戦い、苦戦の末にこれを撃退した。1595年逆に仙北地方に侵攻し、湯沢城(湯沢市)を攻め落とした。そのまま城主となり、湯沢氏を称した。
  慶長出羽合戦のときは、小野寺氏に対する守備を担当した。のちに由利郡に移り、本荘城を築城、本荘氏を称して、最上家中の最高の4万5千石を領した。
   関連史跡:本荘城(由利本荘市)


楯岡満広(たておかみちひろ):?〜?
  満茂の弟。関ヶ原合戦後、兄に従って由利郡に移る。矢島城(由利本荘市)3千石を与えられた。最上家改易により兄弟ともに酒井家に預けられた。


氏家定直(うじいえさだなお):?〜1570?
  最上家の宿老。天文の大乱時に、伊達に味方した主君・最上義守の名代として出陣した。義守とその嫡男・義光が争った際には、病身をおして調停に入り、義光への家督相続を実現させた。


氏家守棟(うじいえもりむね):?〜1591?
  定直の子。知略に優れ、最上義光の懐刀と呼ばれた。最上義守・義光親子の争いに介入する伊達輝宗との和睦交渉を担当。謀略をもって天童氏や上山氏を攻略したほか、鮭延城攻めや観音寺城攻めなど各方面で活躍した。


成沢道忠(なりさわみちただ):?〜?
  成沢城主。氏家守棟の従弟。最上義光と上山満兼・伊達輝宗連合軍が戦った柏木山合戦では、山形城南方の要となる成沢城を守備した。
   関連史跡:成沢城址(山形市)


氏家光氏(うじいえあきうじ):1565?〜?
  成沢道忠の子。氏家守棟の子が十五里ヶ原の戦いで戦死したため、守棟の養子となり氏家家を継いだ。最上義光の三女・竹姫を娶り、重臣として活躍した。慶長出羽合戦では、長谷堂城救援のため出陣した。


延沢満延(のべさわみつのぶ):1544〜1591
  大力剛勇の武将。延沢城主。最上八楯の一員。はじめ天童氏に味方し、大いに最上義光を苦しめた。義光の長女を満延の子に嫁がせるという条件で、義光方に寝返った。このため天童氏は敗北。義光と力比べをしたときに、あまりの強さに桜の木にしがみついた義光を、その桜の木ごと引き抜いたという逸話をもつ。
   関連史跡:延沢城址(尾花沢市)


延沢光昌(のべさわあきまさ):?〜?
  満延の子。最上義光の長女・松尾姫を娶った。父の死後に家督を継ぎ、慶長出羽合戦では、長谷堂城救援のため出陣、続いて上杉領であった庄内地方を攻略した。その後、1614年清水義親討伐に参加、最上家改易後は加藤家に預けられた。


志村光安(しむらあきやす):?〜1609
  最上義光の重臣。「いかなる強敵も彼の前には降った」と云われる最上家の知将。慶長出羽合戦の際には、長谷堂城を守備した。直江兼続率いる上杉軍2万に対し、篭城戦を展開。ついに守りきり上杉軍を撤退に追い込んだ。戦後、庄内侵攻戦に加わり、東禅寺(酒田)城主となった。
   関連史跡:亀ヶ崎城址(酒田城址)・永泉寺の供養塔(遊佐町)


志村光清(しむらあききよ):?〜1614
  光安の子。父の死後に家督を継ぎ、亀ヶ崎城主となる。最上義光が死去した後、最上家親の家督相続に反対した一栗高春に、鶴岡城内で襲われ斬殺された。
   関連史跡:亀ヶ崎城址(酒田市)


鮭延秀綱(さけのべひでつな):1562〜1646
  佐々木貞綱の子。鮭延城主。横手城主小野寺氏に仕えていたが、最上義光に攻められ降伏。その後は最上家家臣として活躍した。慶長出羽合戦では、副将として長谷堂城の守備にあたった。その最中、上杉軍に夜襲をかけて、直江兼続本陣を脅かすほどの戦果うぃ挙げ、兼続に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめた。
   関連史跡:鮭延城址(真室川町)


庭月広綱(にわつきひろつな):?〜1650
  佐々木氏(鮭延氏)の一族。鮭延秀綱が最上義光に攻められた際、同じく攻撃を受け降伏した。
   関連史跡:庭月観音(鮭川町)


谷柏直家(やがしわなおいえ):1551〜1610
  最上義光の小姓。片桐蔵人。谷柏館主。慶長出羽合戦では、飯田播磨守らとともに畑谷城救援に向う。途中、畑谷城が落城したことを知り、追われて逃げてきた領民達を保護した。上杉軍の追撃を防ぐために殿郡として戦っていた飯田が討ち取られたことを知ると、引き返して飯田の首を奪い返した。長谷堂城に隣接する谷柏館も上杉軍の攻撃を受けたが、よき防戦して守りきった。
   関連史跡:谷柏館跡(山形市)


飯田播磨守(いいだはりまのかみ):?〜1600
  実名不詳。天童八楯のひとつで、村山郡北部(村山市本飯田)を本拠地としていた。天正年間に村山郡南部に移封となり、飯田館を築いた。慶長出羽合戦では、畑谷城の救援に向った。途中、畑谷城が落城したことを知ったが引き返さず、追われて逃げてくる領民の救出にあたった。避難の時間を稼ぐために残って上杉軍と交戦し討死した。
   関連史跡:飯田館跡(山形市飯田)・たらたら清水(最後の地/山形市)


江口光清(えぐちあききよ):1544?〜1600
  畑谷城主。慶長出羽合戦の際、最上義光から山形城に退却するよう命令されたが、城を棄てるのは武士の名折れとしてこれを拒否し、直江兼続率いる上杉軍2万との徹底抗戦に出た。約3百の兵で奮戦したものの、畑谷城は落城し、全員討死した。連歌の才があり、義光の連歌会に何度も同席している。
   関連史跡:畑谷城址(山辺町)・長松寺(供養碑/山辺町)


加藤清次(かとうきよつぐ):?〜1600
  悪戸楯主。伊達政宗の母・保春院の警護役を務めた。親友の江口光清が畑谷城で討死したことに憤激し、長谷堂合戦に参陣したが、長谷堂城の北方で戦死。
   関連史跡:掃部の碑(供養碑/山形市)


坂 光秀(さかあきひで):?〜1616
  成沢城主。慶長出羽合戦では、援軍として長谷堂城に駆けつけた。戦後、東禅寺(酒田)城主となった志村光安に代わって、長谷堂城主となった。
   関連史跡:清源寺・坂光秀の肖像画(山形市)


堀 喜吽(ほりきうん):?〜1600
  最上義光の御伽衆。筑紫喜吽とも。筑前で生まれ、兵法家として諸国を巡り、今判官と称した。連歌にも長じており、義光とともに京での連歌会に出席している。慶長出羽合戦の際、撤退する上杉軍に対し、自ら先頭に立って追撃する義光を諌めたが、逆に臆病者と罵倒されたため、単騎で突撃した。上杉軍の鉄砲隊に撃ち抜かれ、義光の馬前で戦死、義光自身も兜に銃弾を受けた。


里見民部(さとみまんぶ):?〜1614
  実名不詳。最上義光の誘いに乗り、上山城主・上山満兼と誘いを拒んだ兄・内蔵助を斬殺した。父の義近(越後守)が代わって上山城主となる。慶長出羽合戦では、上杉軍の別働隊4千を約5百の兵で奇襲し、撃退した。上杉側に城を明け渡す約束をしていたが、義近が軍奉行として山形城に入った(人質に取られた)ため、逆に奮戦したとも云われている。最上義康の廃嫡事件に関わり、上山城を退去。加賀前田家などへの士官を義光に妨害され、各地を流浪した末に尾浦城主・下吉忠に預けられた。将来に禍根を残すとして、義光が遺言し、義近、民部、民部の子の権兵衛(光正)など主従23名が切腹させられた。
   関連史跡:上山城址(上山市)・天澤寺の里見主従墓地(鶴岡市)


草刈正辰(くさかりまさたつ):?〜1600
  志摩守を称す。慶長出羽合戦の際に、上山城へ援軍として派遣された。山中に伏兵して上杉軍を待ち伏せし、隊列が延びたところを奇襲、大将・本村親盛を討ち取り、上杉軍を壊滅状態に追い込んだ(物見山の戦い)。勢いに乗じて、上杉側の拠点・中山城攻略のため攻め込んだが、上杉鉄砲隊の反撃を受け、戦死した(広河原の戦い)。
   関連史跡:首塚(両軍の戦死者を祀る/上山市)・広河原古戦場跡(上山市)
2009/08/20 14:20:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
天文16年(1547)〜天正15年(1587)
 新発田城主・新発田尾張守長敦の弟。新発田家は兄長敦が家督を継いだため、五十公野家を相続し、五十公野源太と名乗るが後に治長と改名。
 謙信の死後勃発した「御館の乱」では景勝に味方し、戦功をあげ武名を轟かせた。
 天正7年(1597)兄長敦が病死すると、生家の新発田家を相続。名を重家と改名。
 「御館の乱」後の論功行賞で、恩賞を不服として景勝を見限り、信長に通じて挙兵。信長の支援を受け、新潟・沼垂などを占領し戦線を拡大していった。
 しかし、天正10年(1582)信長が本能寺で自刃すると、秀吉と家康の抗争に乗じて勢力伸張を画策した重家は、両者の停戦で孤立したところを景勝に攻められ、新発田城は落城。天正15年(1587)自害。享年41。
2009/08/18 16:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
天文15年(1546)〜天正10年(1582)
 武田信玄の四男として誕生。母は側室諏訪御料人。上杉景勝の正室となった菊姫の兄でもある。
 母方の諏訪氏の名跡を継ぐが、兄の武田義信の死により、武田氏の後継者として武田勝頼となり、元亀4年(1573)父信玄の死により家督を相続する。
 信玄は病床で「孫の信勝が元服するまで後を継ぎ、甲・信・上・駿を束ねよ」と勝頼に遺して逝去した。勝頼は遺命を守るため諸国と戦うが、長篠の戦いで織田・徳川軍に惨敗。
 勝頼は北条氏政の妹と結婚し北条氏と同盟を強化するが、後に北条氏と対立。天正7年(1579)上杉景勝に妹菊姫を娶らせ、上杉氏と同盟を結ぶが、天正10年(1582)織田・徳川軍の侵攻を受け自害。享年37。勝頼の代で武田家は滅亡。
2009/08/18 15:30:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
天地人放送記念!
よねざわ上杉戦国絵巻夜の陣が9月26日(土)に開催されます!

そこで、この夜の陣の有料桟敷席(お土産、飲食券付き観覧席)
を8月17日(月)の午前9時より予約申込受付開始いたします。
完売いたしました。

「よねざわ上杉戦国絵巻夜の陣」有料桟敷席、
9月17日午前9時より販売開始いたしましたが
おかげさまで1日のうちに予約席完売いたしました。
前売りご購入いただいたお客様誠にありがとうございます。

桟敷席ご希望の方は、9月26日(土)
当日14時より販売する当日席をご購入いただきたいと存じます。
当日券は150席販売予定でございます。

当日券が購入できなくても
合戦は松川河川敷で行なわれますので
広い会場になっております。

客席は堤防斜面を利用した桟敷席と一般席とに分けられます。
桟敷席以外は自由観覧ですので一般の方はその他の場所 
何処でも無料で観覧できます

今回桟敷席を購入できなかったお客様も
ぜひご来場いただきお楽しみください。

夜の陣(夜の川中島合戦) 桟敷席 販売要項
予約開始  平成21年8月17日(月) 午前9:00〜  
      定員になり次第終了致します。

予約人数  電話予約        先着300名 完売いたしました。
      インターネット予約   先着250名 完売いたしました。
      当日販売         先着150名
      ※当日券は午後2時より合戦会場にて販売

料金    1500円 (消費税込・お土産、飲食券付き)
      ※前売、当日、同料金
  
申込方法  電話での申し込み、
      またはインターネット予約
      申込フォームから受付致します。

インターネット予約完売いたしました。
電話申込完売いたしました。

お問合せ
米沢観光物産協会 TEL0238-21-6226


お支払方法(前売り券): 郵便振込。振込確認後、
            9月10日(木)にチケットを発送します。
           (振込手数料はお客様ご負担となります)
           ・チケット発送時に、市内の観光パンフ、
            まつりパンフレットも同封いたします。


有料桟敷席は席取りをすることなく会場に入れますので、
市内観光や市内で同時に開催されているイベントに参加した後、
合戦会場へゆっくり向かうことが出来ます。

有料桟敷席の場所は、会場のほぼ中央に位置しており、
会場内全てを見渡すことが出来ます。

絶好のロケーションで、戦国絵巻の幻想と興奮を
間近で味わってみませんか!

※詳細は公式ホームページhttp://www.uesugi-festa.com/


実施主体 米沢観光物産協会青年部
2009/08/17 09:00:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
「天地人コレクション」コーナーは8月15日(金)より「家康と景勝・兼続」をテーマに展開しております。景勝・兼続の人生に大きく影響を与えた人物の一人、徳川家康と景勝・兼続との関係について9月11日(金)までの1か月間紹介していきます。次回のテーマ「慶長5年の兼続〜最上義光と」(9月12日〔土〕〜10月9日〔金〕)と合わせて2か月間、関ヶ原合戦に関する史料を展示していきます。

上杉景勝は織田信長の同盟者としての徳川家康と対立関係になります。本能寺の変後は信濃支配や秀吉との関係において対立。豊臣政権下でのライバル関係をへて関ヶ原合戦での衝突に至ります。その後家康が天下人となると、景勝は一大名として臣下となります。家康と景勝は様々な面で密接した関係にあり、兼続もそこに関っていたのです。今回は謙信時代も含めて、家康と景勝・兼続について紹介していきます。

今回の見どころ 

〜景勝が家康との戦いに臨む際に身に付けたとされる甲冑。「天地人シアター」にも登場〜
「浅葱糸威黒皺韋包板物二枚胴具足」(宮坂考古館蔵)
〜関ヶ原合戦の様子を描いた絵巻物〜
「関ヶ原合戦図絵巻 下巻」(真田宝物館蔵)

ぜひおこしください。

2009/08/16 17:19:Copyright (C) 伝国の杜 情報BLOG
神田紫エコ講談「もったいない善兵衛」
米沢に見参!
ご当地編、初書き下ろし!

開演日時:平成21年9月26日(土) 
     開演14:00(開場13:00)
会場:伝国の杜 置賜文化ホール

チケット:前売り/3,500円 
     当日/3,800円 【全席自由】

チケット販売:音楽事務所ジャパンユニオン
       03-3476-4422
       伝国の杜、大沼デパート、米沢楽器店、
       音楽アズム館米沢店、米沢商工会議所

主催お問い合わせ:音楽事務所ジャパンユニオン
         03-3476-4422

今からさかのぼること、約200年ほど前の江戸時代。
小間物店「吉屋」の丁稚、善兵衛は店の無駄を見つけては
「もったいない!」と指摘する働き者。
いつしか周囲の人たちから「もったいない善兵衛さん」と
呼ばれるようになりました。

善兵衛はお客様にも真心を尽くすため「吉屋」は益々大繁盛。

神田紫が米沢を舞台とし、ご先祖様から連綿と引き継がれている、
人・物・自然を大切にする心を伝えます。

ゲスト出演!
ソウル&ビートユニット 天地人
(大間ジロー・黒澤博幸)
2009/08/14 10:13:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
 大河ドラマ「天地人」の主人公直江兼続と山形城主最上義光が戦った長谷堂合戦では、山形城防衛にあたった鮭延城主・鮭延秀綱が、上杉軍二万の大軍勢に包囲されるものの、五百といわれる少数精鋭で頑強に抵抗、獅子奮迅の活躍をしました。
 その鮭延秀綱の功績や人物像などをふまえ、先人の歩みを紐解きます。

■「ふるさと再発見!ご利益講演会」
■日時 平成21年9月19日(土)
    午後2時〜午後4時
■会場 庭月観音 巡礼堂

■題目「天地人!あの直江兼続公を退けたふるさとの名将“鮭延秀綱公”を語る」
■講師 庭水山多福院 ご尊住様 小川邦昭先生

▼参加料:無料
▼問合せ先:最上三十三観音打ち止めの寺
      庭月観音住職 庭崎賢恵
      TEL 0233−55−2343 FAX 0233−55−2505

▼主催:庭月観音法灯護持会
▼後援:鮭川村教育委員会・鮭川村観光協会


2009/08/11 22:13:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
天地人でご当地キャストと言えば、米沢出身のあき竹城さん(かよ役)ですが、
今週の放送からついに二人目の山形県出身者が。
 豊臣秀次役の眞島秀和さん。この方も米沢出身です。「スウィングガールズ」の
フォーク兄弟のお兄さん、と言ったら分かる方もいらっしゃるでしょうか。
 最近は、映画、ドラマ、CMと幅広く活躍中。今回もなかなか凛々しい関白ぶりでしたね。

でも、関白秀次は来週の放送で切腹させられてしまうんですよね。残念です。
もう少し見たかったですね。
2009/08/11 17:38:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
【氏家伊予守定直・尾張守守棟/うじいえいよのかみさだなお・おわりのかみもりむね】 〜信頼厚い譜代の重臣〜

 「どうぞ親子の争いをおやめください。最上のお家は義光様に任せるのが一番です。」
元亀元年(1570)に義光が家督を嗣ぎ、新たな政策を実行しはじめた段階で、家臣団が父義守派と嫡男・義光派に分かれて対立、領内が混乱におちいった。このとき、病床の氏家定直はこう言って、主君義守をいさめた。
 その事情は5月15日付けの義守(入道して栄林)書状によってわかる。

 「さてゝゝ此口之儀者、氏家存命不定之刻、意見に及び候条、諸事の不足をさしおき、親子和与せしめ候。定めて祝着たるべく候や」

 現代語では「こちらの方では、氏家(伊予守)が生死のさかいにあるときに、意見してくれたことから、いろいろ問題はあっても、親子和解したところだ。まずは目出度いこととしてよいだろう」となる。
 
 義守としては、不満はあれども喜んでいいことと、自分を納得させている文面である。
 定直の忠言に従って義守は一旦は政治の世界から引退し、龍門寺に入った。
 文献史料を見ると、氏家定直が最上家の重臣として活躍をはじめるのは、義光が生まれる前の天文12、3年(1543、4)ごろからで、主君義守が20歳を過ぎたばかりの時期にあたる。若い山形の主を、定直は懸命に支え続けてきたのである。だからこそ、その病床からの意見には、剛毅な義守も従わざるを得なかったのであろう。
 仙台市青葉城資料館の大沢慶尋氏の研究によれば、15世紀前半の当時、米沢の伊達氏と最上氏が外交折衝をするときは、定直が後見となっていたとのことで、「義守政権の宿老で第一の重臣」の地位にあったという。
 さらに筆者の意見を述べるなら、その名字の「定」は、さらに前代の「最上義定」から拝領したのではないか。だとすれが、義定の没年とされる永正17年(1520)以前からの、譜代の家臣だということになる。
  *  *  * 
 義光時代に活躍する氏家尾張守守棟は、定直の子であろう。父が主君の名の一字をもらったのと同じく、彼も義守から「守」一字を拝領したと考えられる。ついでだが、その子「棟」、孫「定」もまた、「義」「家」の一字をもらったのだろう。
 『最上記』によれば、守棟は常に義光の側近にあった。義光が領域拡大の戦いを積極的に進めていった時代、谷地の白鳥氏、寒河江氏、天童、上山の里見氏等との戦いには、さまざまな計略を進言して、成功を収めたとされている。
 それだけではない。主君に対して厳しい苦言を呈したこともあった。
 永禄年間(1565前後)に、貴志氏が篭もった八ツ沼城(朝日町宮宿)を攻めたとき、義光は真っ先かけてめぼしい敵と渡り合おうとする。一軍の総大将が勢い込んで走り出るのを、兵士たちは「とんでもないこと」と引き止めるが、義光はそれを振り切って進み、例の鉄棒を振り回して相手を仕留め、首を取った。
 そのとき、傍に駆け寄った氏家守棟は、「大将ともあろう方がそんな雑兵の首を取って誰に見せようというのか」と、厳しく叱り付けた。義光は叱られてしょげかえり、取った首をかたわらにいた兵に与えてしまった。
 まさに信頼厚い重臣なればこそである。
 『奥羽永慶軍記』では、義光を「ソノ性寛柔ニシテ無道ニ報ヒズ、然モ勇ニシテ邪ナラズ」と称賛したのに続けて、「誠ニ君々タレバ、臣々タリトカヤ、時ノ執事氏家尾張守、元来忠アリテ義アリ」と、守棟を「志村九郎兵衛(伊豆守光安)」と並べて最上家の最重要な家臣として位置付けている。
 守棟は、まさに義光の出羽南部統一事業をささえた大功労者であった。
 『最上義光分限帳』には、その子「高壱万七千石 氏家左近」が出ており、城下絵図で見ると、山形城二の丸東大手門の前、元の県立病院の敷地一帯が氏家の屋敷であった。山形城内で最も重要な所に居住していたわけである。守棟の子光棟は、義光の娘「竹姫」を妻とするが、これは別項にゆずる。
 山形市平清水の大日堂に、氏家相模守光房が「諸願成就」を感謝して寄進した鉄鉢がある。この人物も、伊予守、尾張守に連なる人物であろう。「慶長六年閏月(この年は十一月)二十八日」とあるから、出羽合戦で勝利を収めた記念でもあろうか。参考までに、尾花沢市六沢の円照寺観音堂に延沢康満が奉納した絵馬も、同年、同月「十七日」の銘がある。この月、山形領内では祝勝パーティーでもあったのか、あるいは戦後の論功行賞が発令されたのかもしれない。
 話かわって、古く14世紀の南北朝時代、新田義貞が越前で戦死したときに、その首を取ったのは斯波氏の家来の氏家重国だと『太平記』にはある。このとき新田義貞が佩いていた太刀が、めぐりめぐって最上家に伝えられた名刀「鬼切丸」であるとされる。
 斯波氏は現宮城県北部に居住して「大崎」を名乗り、最上家はその分家として出羽最上に入った。両家には共に「氏家」を名乗る重臣がいた。
 どうやら氏家氏は、斯波氏、最上・大崎両家とは切っても切れない深いつながりがあったらしいのである。
■■片桐繁雄著
2009/08/10 16:51:Copyright (C) 最上義光歴史館
じゃらんnetにて、「天地人」ゆかりの地の特集ページを開設中です。
山形・新潟・福島の天地人ゆかりの地の紹介のほか、天地人にちなんだ宿泊プランも検索できます。ぜひ旅のご参考にご覧ください。
 じゃらんnet http://www.jalan.net/jalan/doc/theme/taiga/tenchijin/tenchijin_index.html
2009/08/10 16:30:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局


武将兜のペパクラで御世話になっている木村社長から前田慶次郎の旗指物が寄贈されました!!

いまや伝説になりつつある二人の貴重な2ショットです!!

なぜ敵の旗を…??
おや!?これはもしや…!?
これが出現するとうれしい…

などなど…みなさん感じ方はいろいろでしょうが、敵将の旗を飾る歴史館の懐の深さをご理解いただいて、希代の傾奇者前田慶次郎の旗指物と記念撮影☆はいかがですか!?

ナニナニ(ÒへÒ)!? 木村社長!!つぎの武将兜はだれのですか??秀吉ですか!?家康ですか!?えー!!!あの有名な…


※この「大ふへん者」旗印は、慶次郎縁の地限定でノーススターズピクチャーズ社(原哲夫先生の版権管理会社)のご許可を得て、「花の慶次」の1コマより転写させていただきました。(非売品です)
2009/08/05 10:30:Copyright (C) 最上義光歴史館
平成21年7月30日(木)、伊達氏・上杉氏・最上氏などの戦国武将にゆかりのある自治体関係者が集まって、「奥羽戦国観光連携会議」の第1回会議が開催されました。

近年、ゲームや漫画、小説、アニメといった分野で戦国武将が題材として取り上げられ、歴史ブームあるいは戦国武将ブームが若い世代を中心に広がりをみせています。
この会議では、ゲームなど戦国コンテンツの制作サイドへ情報提供をしていくこと、戦国武将キャラクターとのタイアップなどにより地域振興を図っていくことなどを話し合いました。

[参加自治体]
  宮城県 宮城県大河原地方振興事務所 仙台市 白石市 川崎町
  福島県 福島県県北地方振興局 福島市 会津若松市
  山形県 山形県村山総合支庁 山形市 上山市 天童市
  米沢市 長井市 南陽市 高畠町 川西町 小国町 白鷹町 飯豊町
   事務局:山形県置賜総合支庁観光振興室

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2009/08/03 17:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
東京の「毘沙門天管弦楽団」は発足20年を迎えた市民オーケストラです。7月25日に「天地人博」開催を記念して開かれた米沢演奏会では、大島ミチル「天地人オープニングテーマ」やハチャトゥリアン「仮面舞踏会」、ブラームス「交響曲第1番」など耳なじみのよい音楽を演奏し、演奏を楽しむ出演者の姿に、会場となった伝国の杜置賜文化ホールは来場者からの温かい拍手で包まれました。演奏会当日はリハーサルの合間を縫ってテレビ収録も行われ、ゆかりある米沢のためにと協力してくれました。団の益々の活躍を期待したいと思います。
2009/08/02 13:58:Copyright (C) 伝国の杜 情報BLOG
『歴史館だより No.16』

「長谷堂合戦図屏風−軍記と屏風−」  
執筆:宮島新一 (山形大学教授/日本絵画史)  

「慶長出羽合戦の褒賞としての名刀正宗」   
執筆:布施幸一 (財団法人日本美術刀剣保存協会会員)

◆参加者の声 こども講座  
執筆:森谷涼太/伊藤佐和子/向田翔太郎

◆研究余滴「一枚の史料」  
執筆:長谷勘三郎

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平成20年度事業 (一覧) /事業スナップ
平成21年度事業 (一覧)

※「歴史館だより」は無料で配布しております。ご希望の方はご来館のときに受付にお申し出ください。
※遠方でご希望の方は電話(最上義光歴史館/023-625-7101)かファクシミリ(023-625-7102)でご連絡ください。
※郵送料(切手代)だけご負担いただきます。
2009/08/01 11:10:Copyright (C) 最上義光歴史館
よねざわ上杉戦国絵巻〜夜の陣
前夜祭!
天地人宝船ツアー2009
9月25日(金)開催!

天地人とは・・
日本の音楽シーンを築いた元「オフコース」のドラマー
大間ジロー氏
津軽三味線の日本チャンピオン、黒澤博幸氏
和太鼓界の将来を担う女性奏者、大館曲げわっぱ太鼓の
大沢しのぶ氏
東北の大物3者が和楽器と洋楽器を駆使し、
ジャズとロックと民謡をクロスオーバーさせ、
新時代のサウンドを未知国(みちのく)から発信する
愛と調和と情熱のソウル&ビートユニット「天地人」

今回、運命的に同じ天地人という名称
米沢ともゆかりの深いことから
この度、よねざわ上杉戦国絵巻の前夜祭として
コンサートが開催されます!
神気あふれる音の饗宴!
天と地のパワーを感じてください!

日時 9月25日(金)
開演 18:30(開場17:30〜)
会場 伝国の杜 置賜文化ホール(米沢市丸の内)
電話 0238−26−2666
チケット代 前売り3,500円 当日3,800円 全席自由

詳しくは、チラシPDFファイル
ホームページをご覧下さい。
天地人公式ホームページ



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2009/07/28 19:28:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
天地人ゆかりの新潟県・福島県・山形県の首都圏アンテナショップを巡って、
3県の温泉宿泊券や特産品が当たる「天地人スタンプラリーキャンペーン」を実施します!

スタンプを全て集めると、抽選で各県の温泉宿泊券や特産品が合計69名に当たります。
さらにパンフレット(スタンプ台紙)には、各店舗で使える特典クーポン付きです!
ぜひこの機会に、3県のアンテナショップに足をお運びください。

『新潟・福島・山形アンテナショップめぐり「天地人」スタンプラリーキャンペーン』
 開催期間 平成21年8月1日(土)〜平成21年10月4日(日)
 応募期間 平成21年8月1日(土)〜平成21年10月9日(金)

キャンペーン終了いたしました。たくさんのご応募ありがとうございました。
 
 スタンプ設置場所
    山形県 おいしい山形プラザ(銀座)
    福島県 福島県八重洲観光交流館(八重洲)
    新潟県 表参道・新潟館ネスパス(表参道)

 ※詳細は下記パンフレットを参照ください。
  (ダウンロード完了まで少し時間がかかります。)
    スタンプラリーパンフレット表面(PDF形式)
    スタンプラリーパンフレット裏面(PDF形式)

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2009/07/28 11:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
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