:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

戦国観光やまがた情報局
大河ドラマ「天地人」の放送を記念して、上杉・最上ゆかりの地である5市町(山形市・米沢市・上山市・山辺町・白鷹町)がコラボレーションしたイベントがこの秋開催されます。
大河ドラマでもいよいよ天下分け目の関ヶ原の戦いへと展開し、山形県ゆかりの地もこれから登場していきます。
「5市町コラボイベント・秋の陣」で一足先にいざ出陣!!

□最上・上杉ゆかりの地「5市町コラボイベント・秋の陣」
□会期:9月13日(日)〜27日(日)

◎9/13(日)
  ●畑谷城交流祭(山辺町) 
     時間:10:30〜20:00
     会場:畑谷城跡付近
     親子ウォークラリー、交流アトラクション、畑谷城史跡巡りなど
  ●大河ドラマ「天地人」シンポジウム
     時間:13:30〜16:30
     会場:山形テルサ・ホール
     入場無料・事前申込(先着500名)
     小和田哲男氏基調講演、パネルディスカッションなど

◎9/18(金)〜27(日)
  ●越後・会津・置賜「天地人うまいもの市」
     会場:伝国の杜広場

◎9/19(土)
  ●長谷堂「天地人」祭り(山形市)
     オープニングイベント、芋煮振る舞い、天地人パネル展示など
  ●かみのやま温泉全国かかし祭(上山市)〜27(日)まで
     上山市市民公園にてたくさんのかかしが登場
  ●上山秋まつり(上山市)
     市内巡行
  ●第33回白鷹鮎まつり(白鷹町)
     10:00〜17:00 道の駅白鷹ヤナ公園

◎9/20(日)
  ●長谷堂「天地人」祭り(山形市)
     木目込み人形(最上義光兜)講座(事前申込)10:00〜14:00
     芋煮振る舞い、天地人パネル展示など
  ●かみのやま温泉全国かかし祭(上山市)〜27(日)まで
     上山市市民公園にてたくさんのかかしが登場
  ●上山秋まつり(上山市)
     市内巡行
  ●御輿渡御行列・ふるさと秋祭り「踊りの山車」(上山市)
  ●第33回白鷹鮎まつり(白鷹町)
     10:00〜17:00 道の駅白鷹ヤナ公園
  ●しらたか工芸体験まつり(白鷹町)
     深山地区伝統工芸の村
  ●白鷹町食の文化街道 うんまえもの茶屋

◎9/21(月)
  ●長谷堂「天地人」祭り(山形市)
     天地人ゆかりの地ハイキング(事前申込)9:00〜14:00
     芋煮振る舞い、天地人パネル展示など
  ●かみのやま温泉全国かかし祭(上山市)〜27(日)まで
     上山市市民公園にてたくさんのかかしが登場
  ●上山秋まつり(上山市)
     市内巡行
  ●第33回白鷹鮎まつり(白鷹町)
     10:00〜17:00 道の駅白鷹ヤナ公園
  ●しらたか工芸体験まつり(白鷹町)
     深山地区伝統工芸の村
  ●白鷹町食の文化街道 うんまえもの茶屋

◎9/22(火)
  ●長谷堂「天地人」祭り(山形市)
     木目込み人形(最上義光兜)講座(事前申込)10:00〜14:00
     天地人パネル展示など
  ●かみのやま温泉全国かかし祭(上山市)〜27(日)まで
     上山市市民公園にてたくさんのかかしが登場
  ●第33回白鷹鮎まつり(白鷹町)
     10:00〜17:00 道の駅白鷹ヤナ公園
  ●白鷹町食の文化街道 うんまえもの茶屋

◎9/23(水)
  ●かみのやま温泉全国かかし祭(上山市)〜27(日)まで
     上山市市民公園にてたくさんのかかしが登場
  ●第33回白鷹鮎まつり(白鷹町)
     10:00〜17:00 道の駅白鷹ヤナ公園

◎9/25(金)
  ●「天地人」公演宝船ツアー2009(米沢市)
      18:30〜 伝国の杜置賜文化ホール
  
◎9/26(土)
  ●兼続どん丼まつり(米沢市)
      11:30〜 伝国の杜広場
  ●よねざわ食の陣〜牛牛まつり〜
      11:30〜 松川河川敷
  ●神田紫エコ講談「もったいない善兵衛」
      14:00〜 伝国の杜置賜文化ホール
  ●よねざわ上杉戦国絵巻「夜の陣」
      川中島合戦を夜バージョンで再現
      18:00〜 松川河川敷

◎9/27(日)
  ●兼続どん丼まつり(米沢市)
      11:30〜 伝国の杜広場
  ●無人販売「棒杭市2009」
      10:00〜 伝国の杜広場
  ●大河ドラマ「天地人」記念 全国まちづくりシンポジウム
      13:00〜 伝国の杜置賜文化ホール

...もっと詳しく
2009/09/01 23:30:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
長谷堂合戦図屏風について ― 軍記と屏風 ― 

 近世に入ると合戦図は、時間の経過を追って場面が展開してゆく絵巻から、戦場の地形や展開する部隊を描くのに適した大画面、すなわち、屏風へと形式が変わってゆく。中には関ヶ原合戦図屏風(大阪歴史博物館)や、大阪夏の陣図屏風(大阪城天守閣)のように合戦後さほど間をおかずに描かれた図もあるが、多くは時がたってから回顧的な視点によって描かれたものばかりである。回顧的といってもそこには明確な制作の目的があった。目的は二つある。一つは家祖の軍功を図化して世間に明らかにすることである。軍功の誇示は合戦の美化につながる。もう一つは、敵味方が入り乱れて戦うために実情がわかりにくい合戦の状況を可能な限り調べて記録しようとする姿勢である。それが文章で表現されれば「軍記」となり、絵画化されれば「合戦図」となる。
 文章はより事実に近く、絵画はより遠いと思われがちだが、どちらにしても脚色は避けられない。その点で両者は同等、同格であり、事実よりも意図を読み取るように心がけたい。長谷堂合戦図は基本的に最上軍の戦勝場面のみが描かれ、落城した畑谷城は描かれておらず、援軍として参陣した伊達勢はまったく無視されている。登場する武士の数は少なく、制作依頼者は軍勢の配置には関心がなかったことがわかる。同様に地形も無視されている。紀州本や米沢本「川中島合戦図」のように軍師の指導によって制作された合戦図とは性格が異なる。
 本図は秋田の戸部一憨斎正直が元禄十一年(1698)正月に著わした『奥羽永慶軍記』に基づくとされるが、画中に記された人名を子細に検討すると同記の内容とはかなり違っている。中には軍書や記録に名前を見いだすことができない者も多く含まれており、オリジナル性が強い。かつては絵解き用の台本があったのかもしれない。また、人名が直か書きであることを考慮するならば、書き込まれた時期は制作当初と考えてよいだろう。
 向かって右隻の中心場面は前哨戦の一つで、『奥羽永慶軍記』では「鮭登茂綱会津勢を襲う」とされる段である。同記には鮭延方の軍勢として多くの武士が登場するが、画中の人名で共通するのは「鳥海勘兵衛尉・鮭延典膳頭健綱・沓沢金兵衛・新田十助・鮭延左衛門尉十五歳・鈴木藤蔵十七歳」などごく一部に限られ、しかも、同記には登場せず、かつ、出典を明らかにできない「片野對島守・田中兵部・馬淵伊織・柴田備中守・河田三右衛門尉」などの名がつけ加えられている。このうち「鮭延左衛門尉・河田三衛門尉」の二人の名は別筆である。一方、上杉勢では大関常陸介や小幡播磨守のほかに、「石坂・樋口」の名が記されている。上杉系の『越境記』を母体にした『最上合戦記』などには「石坂勘右衛門討ち死に」とある。また、「樋口」は言うまでもなく直江兼続の生家の苗字である。
 こうした戦闘場面とは別に右上隅の建物群の前に「成沢道忠」の名のみを記した部隊が描かれている。この挿話は『奥羽軍談』(佐久間昇氏の解説によれば宝暦初年に上林職広が増補)にしか見えない。同書に畑谷落城の知らせを聞いた最上義光が三之丸の飯塚口に成沢道忠らを警固に出した、とあるのに一致する。とすると、背後の建物群は三之丸の武家屋敷ということになる。だが、小山に囲まれている様子からは平城の山形城とは考えにくく、山城の長谷堂城とするのがふさわしい。予定を変更して成沢道忠を登場させたための矛盾だろうか。肝心の城主「志村伊豆守」の一隊はというと建物の下方、画面の端にあって、城との関連性が希薄である。左上隅の上杉勢本隊には「直江山城守兼続・色部修理亮・春日左衛門尉・高梨」の名があるが、『奥羽永慶軍記』に登場しない「色部修理亮」は保科家臣の向井新兵衛吉重が寛文二年に脱稿し、廷宝元年に浄書した『会津四家合考』などに見え、「高梨」については、延宝八年の自序をもつ『近代軍記』(黒川真道編『上杉三代軍記集成』所収)には第五陣に「高梨兵部」とある。
 向かって左隻は、上段に合戦全体の中心となる最上義光勢と直江兼続勢の主力部隊による戦闘が描かれている。『奥羽永慶軍記』巻三十二には最上義光をはじめとして多数の一族、郎党や仙台からの加勢が列挙されているが、図と共通するのは嫡子「最上義安(ママ)公」と「筑紫喜叶(ママ)斎」および、「川隈讃岐守(『奥羽永慶軍記』では川熊安芸守)・山邊右衛門大夫光茂(同じく山部右衛門尉)」だけである。なお、右方に見える「揚松権太夫」は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の延宝〜正徳年間に「上松権太夫」の名を見いだすことができるうえに、後ろを振り返る顔の向きからみて、敵陣に取り残された上杉方であろう。
 下段の左半は上段に続く光景で、関ヶ原の合戦で西軍が敗れたとの情報を得た上杉勢が軍を返すのを最上勢が追撃する揚面である。荷駄は別として上杉勢の殿軍が戦う姿勢を見せている点に注目したい。上杉方には「綱嶋勝左衛門・斎藤千右衛門・小倉将監・南條八郎」などの名が記されているが、いずれも『奥羽永慶軍記』には出てこない。『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』によれば、綱嶋勝三郎という者が慶長十九年の大坂出陣に加わっていることや、小倉将監宗信が直江兼続より少扶持を賜り、南条八右衛門が慶長十三年に米沢に帰参したことがわかるので、家中の何らかの情報に基づいているのだろう。
 問題は右半の、前哨戦の一つである上山合戦の場面である。ここにも出典不明の人名が認められるが、諸書では中心となるのは坂弥兵衛が穂村造酒丞を、金原七蔵が上泉主水正を討ち取る場面である。しかし、図では「金原七蔵」が「押野造酒丞」を、「坂上紀伊守」が「本多造酒丞」を討つように描かれている。この組み合わせは他に例をみない。通説に反して上泉主水正を「押野造酒丞」に変えるにはそうとうな裏づけが必要と思われるが、討ち手や死に場所に諸説あることに配慮したのかもしれない。より強調したいことは、上山合戦に坂上紀伊守を登場させるのは上杉系の『近代軍記』のみ、という点である。とりわけ『奥羽永慶軍記』では「本多造酒介」を討った者は「遠藤小一郎」となっており、図が同記に基づかないことは明らかである。
 こうした人名の不一致は本図と『奥羽永慶軍記』との関連性を疑わせる。もともと『奥羽永慶軍記』は写本が少なく、広く流布していなかったので参照した可能性は乏しい。そうであるならば、本図の描き手を著者である戸部一憨(閑)斎とする伝称もあらためて見直す必要がある。伝称の根拠は、本図を入れる箱の側面に「戸部一閑之画屏風一雙入 明治貮拾五年辰八月吉日記 湯沢町斎藤氏」、蓋裏に「戸部一閑之画最上合戦之図一雙入」とある墨書による。また、これとは別筆で蓋の前面に「斎藤五左衛門」とある。斎藤家の当主は代々五左衛門と称していたが、遅くとも安政二年までに「左太夫」と名乗りを変えている。もし、図と箱が一体のものであるならば、屏風は江戸時代末には現在の所蔵者のもとにあったことになるが、筆者の伝称がそこまでさかのぼるかは不明である。
 戸部一憨斎が絵を描いたことは戸部家に「戸部弌憨」の印章をそなえた水墨画の「船子夾山図」が伝わり、地元の湯沢市や横手市に涅槃図が三幅現存することから事実である。ただし、いずれも仏画、禅機図といった宗教画に画題が限定されていることに注意したい。なお、やはり戸部家に伝わり、一憨斎筆とされる源平合戦を描いた屏風は彼より早い時期の職業絵師の手になるもので、同人の作品ではない。「長谷堂合戦図」の筆致には町絵師らしい手慣れたところがあり、一憨斎の余技になるとは考えられない。その単純化された樹木や山野の表現には板本挿図、人物には初期の役者絵からの影響が認められる。一般に町絵師の作品は制作年代の判定が難しいが、上限は宝永四年(1707)十二月に亡くなった一憨斎の晩年に重なる可能性がある。だが、彼が亡くなる直前の同年四月に描いた湯沢市・善龍寺の涅槃図の老筆ぶりと比べると「長谷堂合戦図」の筆致は若々しく、同じ人物の手になる可能性はない。一方、下限は十八世紀中頃といったところだろう。
 実は、本図が長谷堂合戦を描いた図であることが判明したのは、湯沢市の文化財としてその存在が世に知られるようになってからで、比較的近年のことである。それまでは湯沢の小野寺氏と最上勢が戦った「有屋峠合戦図」と称されていた。いったん主題が忘れ去られていたという事実や人名に別筆が若干加わっている点は、制作主のもとを離れてからある程度の歳月と幾人かの手を経たことを物語っている。戸部一憨斎筆という伝称は本図が湯沢にもたらされた後から付け加えられたのだろう。
 本図は山形で制作されたに違いない。鮭延氏の活躍や喜吽斎の討ち死など、図の骨格は最上系の軍記に取材している。ただし、随所に独自の調査のあとが認められ、流布する軍書に基づかない、まったく独立した作品と言える。とくに上杉系の資料を積極的に取り入れている点は重要で、制作主はそれらを入手できる立場にあったらしい。どの軍記にもない、坂上紀伊守が敵将を組み伏せる場面が下段の中央に描かれている点に注目するならば、合戦後に長谷堂城主となった坂(坂上)紀伊守光秀ゆかりの者を制作主として考えるのも一案だろう。興味深いことに、坂氏一族には最上家改易後に上杉藩士となった者がいる。
(本文を草するにあたっては斉藤茂美氏、戸部尚武氏、善龍寺御住職の多大なご協力を得ました。皆様に感謝します。)

■執筆:宮島新一(山形大学教授/日本絵画史)「歴史館だより�16」より


【長谷堂合戦図屏風 斉藤茂美氏蔵】


【右隻】


【左隻】

※長谷堂合戦図屏風の詳細についてはこちらをご覧ください>>こちら
2009/09/01 10:30:Copyright (C) 最上義光歴史館
関ヶ原合戦と最上義光 ― 義光宛家康書状を読み解く ―

【はじめに】
 今年(西暦二〇〇〇年)は、関ヶ原の戦いからちょうど四〇〇年ということで、関ヶ原の戦いに対する関心の度が高くなっている感じがする。そこで、″東北版・関ヶ原″などといわれる長谷堂城の戦いにからめ、そのときの最上義光の動向を追いかけてみたい。
 周知のごとく、家康は、関ヶ原の戦いを前にして、諸大名に実にたくさんの書状を出しており、慶長五年(一六〇〇)に入って、戦い直前九月十四日までの分だけでも一六九通を数えている。書状の内容は、恩賞を約したものもあれば、上方での戦況を報じたものもあり、作戦上の指示を与えたもの、さらには東軍へ誘ったものなどまちまちであるが、これら政治工作、すなわち、根まわしが進められたことを意味する。
 そこで、ここでは、家康から最上義光に宛てられた書状を通して、義光が、家康の考える大きな関ヶ原戦略の中で、どう位置づけられるのかを見ていくことにしたい。なお、書状については読み下しにして引用した。原文は、中村孝也編『徳川家康文書の研究』中巻にあたっていただきたい。

【第一報 七月七日付】

 急度申し入れ候。仍って会津表出陣の儀、来る廿一日に相定まり候。その表の衆、同心有り、御参陣有るべく候。然者、最寄(前カ)申し候如く、北国表にて北国の人衆を相持ち、会津へ打ち入らるべく候。猶、津金修理亮・中川市右衛門申し達すべく候。恐々謹言
(慶長五年)七月七日   御諱御判(徳川家康)
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「古文書集」十)

 家康は、六月十八日、伏見城を発し、会津討伐に向かった。「五大老」の一員であるにもかかわらず、上杉景勝が会津に引っこんだまま、領内の軍事強化を進めていることを、「豊臣家に対する謀反」と判断したためである。もちろん、家康の腹の中には、畿内を留守にすることによって、石田三成の挙兵を誘うという思惑もあった。
 七月二日に江戸城に入った家康が、七日付で最上義光に出した書状がこれである。ちなみに、会津攻めにあたって家康が定めた部署はつぎの通りである。
 
 白河口   徳川家康・秀忠および東海・畿内の大名
 仙道口   佐竹義宣
 伊達・信夫口 伊達政宗
 米沢口(最上ロ)最上義光と仙北(最上川以北)の諸大名 
 津川ロ(越後ロ)前田利長・堀秀治・同直寄・村上義明・溝口秀勝

 七日付書状に、「猶」としてみえる津金修理亮と中川市右衛門の二人は、家康の家臣で、このとき、使者となって山形に赴いている。もっとも、この二人は、単なる使者ではなく、家康から最上家に送りこまれた軍監のような立場だったのではないかと思われる。というのは、同じ七月七日付で家康がこの二人に宛てた覚書が「書上古文書」にあり、そこに、会津へ攻め入るときには義光を先手とすること、戦いになったときには兵糧を義光から借りることなどが指示されているからである。
 そして、家康は、予定通り、七月二十一日に江戸城を出陣し、会津攻めに向かった。ところが、二十二日、二十三日と軍を進める内に、三成挙兵が次第にたしかな情報として入ってくるようになり、二十三日、下総の古河に着いたところで、進軍中止を指令した。それを物語るのがつぎの義光宛第二報である。

【第二報 七月二十三日付】
                   
 急度申し入れ候、治部少輔(石田三成)・刑部少輔(大谷吉継)才覚を以って、方々に触状を廻らすに付て、雑説申し候条、御働の儀、先途御無用せしめ候。此方よりせ重ねて様子申し入るべく候。大坂の儀は、仕置等手堅く申し付け、此方は一所に付、三奉行の書状披見の為これを進せ候。恐々謹言
(慶長五年)七月廿三日   家康御判
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「譜牒餘録後編」四)

 この文書は、家康が会津討伐中止を指令した一番早いものである。このあと、二十四日に家康は下野小山(おやま)まで進み、二十五日、有名な「小山評定」を開き、そこで、反転して畿内にもどり、石田三成を討つ作戦を決めている。そして、家康自身、二十六日に小山の陣を引き払い、八月五日に江戸城にもどるわけであるが、その間、諸大名に精力的に書状を出している。つぎの第三報もその一つである。

【第三報 七月二十九日付】

 急度申し入れ候。仍って上方奉行衆一同の者、鉾楯の由申し来るに付て、会津の閣、先ず上落せしめ候。併、中納言(秀忠)差し置き候条、彼表働の儀を相談尤に候。猶、後音の時を期すべく候。恐々謹言
(慶長五年)七月廿九日   御諱御判(徳川家康)
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「古文書集」十)

 ここで注目されるのは、会津のことはひとまずさしおいて、まず上方にもどり、三成を討つことにしたことを義光に伝えていることと、「秀忠を押さえとして残したので、今後のことは相談するように」といっている点である。
 つまり、七月二十九日の時点では、家康は秀忠を残すつもりでいたことがわかる。事実、秀忠軍が下野宇都宮を陣払いしたのは八月二十四日であった。そのあと、代わったのが結城秀康ということになる。
 江戸城にもどった家康は、何と二十六日間もの間、動こうとしなかった。その間、東軍先鋒として福島正則ら豊臣恩顧の大名たちが東海道を西に攻めのぼり、八月二十三日には岐阜城を攻略している。家康から義光への第四報はそのことにかかわるものである。

【第四報 八月二十七日付】

 急度申し入れ候。去る廿三日午の刻、岐阜の城乗崩し、中納言(織田秀信)兄弟一人も洩らさず撫切申す由注進候条、書状持たせ進せ候。政宗より参るべく候。我等父子も出陣申し候間、万事そこもと御行仰せ付けられ給うべく候。委細(今井)宗薫申すべく候間、具にする能わず候。恐々謹言  
(慶長五年)八月廿七日   家康御判
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「譜牒餘録後編」四)

 家康はこのように、東軍先鋒の戦いの模様を義光に報じており、翌日にも、第五報(八月二十八日付)で三成らが美濃に出てきたことを伝えている。

【おわりに】
 九月十五日の関ヶ原の戦いを前にした義光宛家康の最後の書状は九月七日付で、これが第六報ということになる。
 そこでは、三成らを大垣城に「追籠」たことを報じ、「其口、政宗と相談し、油断無き行等、分別尤に候」といっている。
 おそらく、この第六報が義光の手もとに届く前のことと思われるが、上杉景勝の老臣直江兼続が最上領へ侵入してきた。九月十三日には、山形城の支城である畑谷城が攻められ、城将の江口五兵衛父子が殺され、水原親恵率いる上杉軍はその勢いで長谷堂城を包囲しているのである。
 上杉軍の猛攻を支えながら、長谷堂城が破られた場合、本拠山形城も危なくなると判断した義光は、長子義康を政宗の本陣北目城に人質として送り、援軍の要請をしている。
 結局、政宗は自分の名代として伊達政景を援軍に送り、最上・伊達連合軍有利な状況となった。その長谷堂城の攻防戦の最中、具体的には九月三十日の朝といわれているが、関ヶ原での東軍勝利の報が最上陣営に届けられ、ついに、十月一日、長谷堂城攻囲の上杉軍が撤退したのである。

■執筆:小和田哲男/静岡大学教育学部教授・文学博士(2000年執筆当時)・静岡大学名誉教授 (2009年) 「歴史館だより�7」より
2009/09/01 09:53:Copyright (C) 最上義光歴史館
【鮭延越前守秀綱/さけのべえちぜんのかみひでつな】 〜重文の仏像にかかわり?〜

 不思議な仏像が一体、真室川町内町の薬師堂にある。
 奈良時代か白鳳期の作かと思われるブロンズの薬師如来像で、国指定重要文化財となり、今は特別に建てられたお堂のなかに安置されている。
 いったいなぜ、こんなにすぐれた仏像が山形県内にあるのか。すくなからず謎めいている。
 16世紀の終わりごろ……。
 この付近を領していたのは、鮭延(真室川)城主、佐々木典膳という武将であった。彼は、源平合戦のむかし宇治川の先陣で名を挙げた近江源氏の名門、佐々木高綱の子孫であるという誇りをもって、義光に従おうとしなかった。
 義光は大軍をさし向けて鮭延城を攻撃し落城させたが、武勇才知にすぐれた典膳を惜しんで、庄内に逃げ去るのを見逃してやったという。典膳はこの事実を後で知り、その温情を忘れず、後年最上義光に帰参したと軍記物語類にはある。
 義光はかれに1万千5百石という高禄を与え、鮭延越前守秀綱と名のらせた。その後の秀綱は、義光の側近として知謀才覚を発揮、なかでも慶長5年の上杉軍山形侵攻に際しては、長谷堂城への応援軍としてはなばなしい活躍ぶりを見せる。
 泰平の世になってからは、鮭延城(真室川町)を居城として、町づくりに尽力、現山形県最上郡北部の発展に大きな成果をあげた。
 嫡子、左衛門尉も父にまさる文武すぐれた人物だった。15歳で長谷堂合戦に出陣、その戦いぶりは「諸人ノ耳目ヲ驚カス、異国ハ知ラズ、本朝近代ノ弓矢ノ少年ニシテ是程ノ武功ハイマダ聞カザレバ…」と『奥羽永慶軍記』は絶賛している。だが、十八歳で亡くなった。以後、秀綱は妻をめとらなかったのであろう。血筋は絶えたという。
 義光没後の最上家は、家親の早世に端を発し、少年源五郎家信が家督を相続するに至って、重臣たちの離反がはじまる。
 「家信は器にあらず、山野辺光茂を主君と仰ぐべし」と主張した旗頭が秀綱であった。これに対して「若年といえども、源五郎家信こそ正統」と、一族の松根備前守光広らは主張した。最上の家臣団は、二つに分裂してしまったのである。
 抗争は幕府の審問に付される。「幼君を補佐して最上家を全うせよ」という幕府閣僚の助言を、鮭延秀綱をはじめとして、山野辺・楯岡らは受け入れなかった。その結果、元和8年8月、最上家は57万石を没収されて、近江・三河1万石へ改易となり、重臣たちはそれぞれ各地の大名に預けられた。
 秀綱はこの時、審問の中心となった土井大炊頭利勝(当時佐倉、のち古河城主)に預けられた。実は、駿河大納言忠長から仕官の誘いがあったとも、彦根井伊家からの招きがあったともいわれ、秀綱の人物力量は広く諸侯の知るところとなっていたのである。
 土井家では彼を優遇して、古河に移転した後も大堤庄5千石を与えた。秀綱はそのうち3千石を出羽から連れていった譜代の家来18人に分け与えた。これが話題となって、越前は知行すべてを家来に与え、自らは清貧に甘んじ、家来たちの施しを受けて晩年を送ったという話にもなった。
 物欲に恬淡たる武人の生き様というべきか。戦国時代の荒波をくぐって生き抜き、泰平の世になってからも固い信念をもって、人生を全うした出羽の英傑の一人といえるだろう。
 正保3年(1646)6月21日没。84歳。菩提寺は古河市鮭延寺。秀綱の屋敷跡に建立され、その名もゆかりの故地「鮭延」にちなんだものだ。この寺は、反骨の儒学者熊沢蕃山の墓があることでも知られている。
 真室川町では、秀綱を町発展の恩人として顕彰している。また、同町正源寺は、秀綱父子を丁重に弔い、境内奥の二人の墓はいつも清浄に保たれ、香華の絶えることがない。
 さて、例の仏像、真室川にあるからには、名門の武人、鮭延秀綱が持ってきたものにちがいない……地元の人々がそう考えるのも、かれに対する敬愛の念の表れだろう。
■■片桐繁雄著
2009/09/01 09:10:Copyright (C) 最上義光歴史館
【坂紀伊守光秀/さかきいのかみあきひで】 〜最上家臣団のエリート官僚〜 

 戦国武将は、おおむね戦における手柄や活躍、武勇を誇示する逸話などによって名を知られ、評価もされがちだ。たしかに、武勇こそが戦国の世を生き抜く武士の本分ではある。
 しかしながら、大名をささえる家臣団として見たとき、戦上手ばかりでは決してバランスのとれた組織とはいえない。
 坂紀伊守光秀(あきひで)。
 慶長6年、志村伊豆守光安が酒田城主として栄転した後の長谷堂城主。1万3千石。最上家では十指に入る重臣でありながら、当時の記録にも後代の物語にも、華やかな戦歴はなく、逸話も残されていない。
 長谷堂合戦に際しては、後詰め部隊(援軍)の中に彼の名が見えている。当時は成沢城を預かっていたとする記録もあるが、不確かだ。彼の足跡をみると、武人というよりもむしろ政治外交の面にすぐれていたようだ。
 関ケ原戦後、最上氏と秋田氏が戦陣参加の時期をめぐって議論になったことがあった。
このとき、主君義光が徳川家康といっしょに忍(おし)へ鷹狩りに出ていたので、最上側の代表者となって秋田実季と渡り合ったのが、他ならぬ光秀であった。
 この論争のことは、秋田家の家臣が聞いた話を思い出して書き留めたもので、最上家没落後のことであるから、どうしても最上家には不利な書きぶりとなっている。そのため、坂光秀が実季から一々やり込められてしまうという内容となっている。にもかかわらず、光秀の弁舌はなかなか鋭いところを突いているように思われる。
 慶長8年3月15日、光秀は主君義光の使者となって、京都の公家山科言緒を訪問した。
 山科家は、皇室・廷臣らの公的場における衣冠装束を世話する家柄である。訪問の趣旨は、将軍家康の御前において言緒が「御取合」をしたことに対する義光からのお祝いの手紙と銀子三枚の贈り物を届けることであった。
 「使坂紀伊守也、則対顔了、食相伴了」(使者は坂紀伊守であった。そこで対面をし、食事をともにした)。
 出羽で育ったと思われる坂光秀が、礼儀作法にうるさい京都貴族の邸に参上して、きちんと用を済ませることができたのは、それなりの教養をそなえた人物だったからであろう。
 二日後の3月17日、山科言緒はこう日記に書いた。
 「最上出羽守へ一昨日のお土産に礼状を出した。坂紀伊守へも書状を遣した」
 このころ、義光は京都あるいは伏見の邸に滞在しており、光秀はその側近としてさまざまな公務にたずさわっていたことが、この断片的な記事からうかがわれるのである。
 関が原の戦いの後に、新たな最上領となった庄内地方の検地に尽力し、慶長十六年(1611)義光が寄進した慈恩寺領2千880石の検地も、光秀が責任者となって実施した。
 義光が亡くなった翌年、慶長20年(1615)正月13日、徳川家康が岡崎で鷹狩を楽しんでいたところへ、主君家親の名代として光秀が陣中見舞い行った。
 最上家からの献上品は、白鳥二、黒馬一疋、それに「いったい、どういう代物?」と、よく話題になる「最上蓼漬」一桶。光秀自身も、「子篭鮭十尺」を土産として持っていった。74歳の家康は喜んで光秀に面会し、最上家親の働きについても合わせて礼を述べたという。
 長谷堂には、自らが開基となり、その菩提寺とした曹洞宗清源寺がある。この寺に彼は田畑とともに百姓十軒を寄進して護持を図った。寺に秘蔵される「すすき図屏風」は、桃山風のりっぱなもの(山形市指定文化財)。彼自身を描いた画像は、桃山武将の同時代に描かれた肖像画としては県内唯一の貴重なもの(県指定文化財)。その表情には、温厚で知的な趣がただよう。
 彼の奥方が使用したという朱漆塗の膳椀もある。京都に上った時にでも、妻のために買い求めたのであろうか。
 元和2年(1616)4月26日逝去。年令は不明。はしなくも、徳川家康の没年に当たる。戒名「清源寺殿祀山英典公大居士」。
 ちなみに翌年3月には主君家親が亡くなり、それ以後、最上家は屋台骨がゆらぎはじめるが、光秀はそれを見ることなく亡くなったわけだ。
 光秀の妻は、志村伊豆守光安の娘だといわれ、夫亡き後は、山形城内三の丸八日町口近くに広大な屋敷をもらっている。彼女が亡くなったのは正保元年(1644)10月19日。戒名「宝正院殿実相良信大姉」。28年の寡婦としての暮らしがあったことになる。
 最上家改易の後、跡を継いだ坂光重は、上杉家に親しい人がいて、その配慮で白鷹町荒砥に落ち着き、四十間四方の屋敷を拝領してここに居住した。
 坂氏の系譜は、白鷹町と米沢市に連綿として続いている。
■■片桐繁雄著 
2009/09/01 09:05:Copyright (C) 最上義光歴史館
【志村伊豆守光安/しむらいずのかみあきやす】 〜酒田繁栄の土台をきずいた〜

 形に影の添うごとく、最上義光の側にあって出羽の統一と繁栄に尽力した家臣として、志村伊豆守光安は特筆すべき人物であろう。『奥羽永慶軍記』では、義光の柱石として、氏家尾張守守棟とともに志村九郎兵衛をあげている。後の伊豆守光安である。

 「ソノ心剛ニシテ武威ノ名顕ワレ、然モ口才人ヲクジキ、イカナル強敵トイヘドモ彼ニ逢ヒテハスナハチ降リヌ。彼等ハ皆君臣ノ礼アツクシテ、国治マリ、栄耀家門ニ及ボシ給フ」

と、まさに絶賛の対象となった人物である。
 出自は明らかでないが、成沢・谷柏・柏倉など山形周辺の郷村名を名字とする最上家臣が少なからず存在するところから、彼も漆山地区志村(山形市北部)の出であろうかと推察される。年齢も不祥。活躍の時期と没年から推して、主君義光に近い年齢だったかと思われる。
 天正5年(1577)ごろ、谷地の領主白鳥十郎長久が、義光を殺して出羽を自分の領地にしようと、中央の権力者であった織田信長のところに使者を派遣し、
「わが家こそ斯波兼頼以来、代々出羽国の守護職を務めた家柄」と、鷹と馬を献上する。
 信長は遠い出羽のことなど知らなかったから、その言い分を受け入れたという。
 伝え聞いた最上側は、放っておけぬとばかり、こちらも信長へ接触する。この時に使者となったのが、志村九郎兵衛光安だった。光安は、献上品として青鷹一居、駿馬一頭、名刀工「月山」の鍛えた鑓二十本(十本とも)ともども、最上家の系図をたずさえて上京し、信長に謁する。信長は光安に面会して、白鳥の言い分を偽りと断定、「最上出羽守殿」として返書を与えたという。
 この話は江戸時代の文献にあるだけで信憑性はとぼしいが、光安が最上家にとっていかに重要な存在だったかを物語るとはいえるだろう。
 その後、白鳥を討伐することになるが、ここでも氏家と志村の策謀と活躍が語られる。
 天正12年(1584)、白鳥十郎は義光によって誅殺される。続いて寒河江氏、天童の里見氏も、義光の制圧するところになるが、どの戦いでも志村伊豆が大きな働きをした。ついで、最上郡方面に兵を進め、鮭延越前守秀綱と戦うが、ここでも「秀綱を殺すな」という義光の意を体して、光安はその城外脱出を見逃している。
 光安が最も注目される働きをしたのは、慶長5年9月のいわゆる長谷堂合戦であろう。寄せくる上杉の大軍を向こうにまわし、長谷堂城に篭もって持久戦に持ち込み、山形の本城と町を戦火から守りぬいたのである。この戦いは、畑谷落城9月13日の翌日から始まっているが、光安は援軍として派遣された鮭延秀綱らとともに、しばしば上杉軍を翻弄した。
 9月末に、関ケ原の戦いで東軍・徳川家康側圧勝となった結末が報らされると、直江兼続のひきいる上杉勢は撤退する。この追撃戦の激烈さは、両軍あわせて2千を超える戦死者を出したことでも想像できるだろう。ちなみに、関ケ原の戦死者は、6、7千だったとされており、長谷堂合戦は、全国的に見ても、実は関ケ原につぐ大合戦だったのである。
 山形最上方の城塞のほとんどが落城あるいは空け逃げだったのに、たいした損害も出さずに長谷堂城を守り通した功績は、抜群のものだった。
 直江退去の10月1日、ここで慶長出羽合戦は事実上決着している。
 このとき、撤退した直江兼続は、大きな失態を演じた。庄内から最上に攻め入って、谷地城を占拠してここに篭もり、総大将兼続からの山形城総攻撃の命令を今か今かと待ってていた下治右衛門吉忠のところに、撤退の連絡をしなかったのである。
 吉忠とその率いる兵たちは、兼続から置きざりにされて孤立してしまったのだ。
 そこを最上の大軍が包囲する。援軍を期待できない情況でも上杉方は篭城して交戦しようとするが、義光は「次右衛門は武勇の誉れも名高き者、特に庄内のことに詳しい人物であるから、なんとかして降参させて味方にしたい」と、光安に交渉を命じる。
 夜に入って光安は、独り谷地城に入る。
 「関ケ原では西軍が大敗し、上杉の大将直江殿は会津に帰られた。貴殿一人が義を守り、数多い兵士とともに戦い死にたりとて、何の益かあるべき。義光公も貴殿を惜しみなされて、拙者を遣わされたのである。降参なされば必ず礼をもって厚く遇する」と、理を尽くして降伏をすすめた。下一族はその熱誠にうたれ、また直江が何の連絡もなく撤退したことへの反感もあって、ついに軍門にくだった。「志村という武将は、敵に対して絶対偽りを語らぬ」という相手方の高い評価も作用したらしい。
 「口才人ヲクジキ」という『永慶軍記』の記述どおりであった。
 下一族は、その後庄内尾浦城(鶴岡市大山)を落とし、翌年4月には酒田城攻略にも大きな働きを見せる。
 慶長6年(1601)、戦功を賞されて、志村光安は庄内の最上川北3万石酒田城主に大抜擢される。この石高は、最上家臣としては最上一族の本荘満茂の4万5千石に次いで第2位である。広大な平野があり、最上川口には古くからの港がある。その重要な所を、志村光安は任されたのである。下吉忠は、田川郡1万2千石大山城主となり、名乗りも下対馬守康久と称することとなる。降将への処遇として類少ない手厚い処遇といえるだろう。
 酒田の志村、大山の下。この二人が、庄内地域に数々の事績を残すこととなる。
 光安は、戦火で荒廃した酒田の町づくりに努める。町の指導者として重きをなした三十六人衆と協議し、経済活動を重視した都市計画だったとされる。強い西風、それによる災害への対策、商人職人の居住地、寺町の配置を工夫し、さらに港の機能を充実して、「羽州第一の港町」にふさわしいものとした。
 城も当然復旧した。土塁のなごりは、東高校の敷地に残っている。城内に祀られていた山王宮を移建して、酒田町の鎮守とした。今の日枝神社である。長谷堂城主時代に菩提寺だった曹洞宗清源寺から峰岩呑鷲和尚を招き、新たに青原寺を建立した。
 酒田繁栄の土台は、志村光安によって固められたといってよいだろう。
 慶長8年、義光は新たな領地となった庄内の二つの重要拠点、酒田東禅寺を「亀ケ崎」、大宝寺を「鶴ケ岡」と目出度い名に改めた。庄内の末永い発展を願ったのである。
 最上家では、慶長17年までに庄内の検地を完了したが、並行して古来の神社仏閣の復興にも力を入れた。これにも、志村伊豆守が大きくかかわっている。
 慶長10年、鶴岡市の金峯神社本社、13年、同釈迦堂、羽黒山五重塔などの大規模な建造事業を差配したのが、光安だった。下対馬守もいっしょに協力したことが、残る棟札から知られる。
 光安の人柄がよく表れた手紙がある。年次未詳、10月3日付。家普請をしている家来四人にあてたもので、
 「壁の下地は念入りに、どうせなら台所も造れ。風雨のひどい時分で大変だろうが、しっかりやれ。大工衆にもご苦労と、申しつたえてくれ」という内容である。
 具体的な状況が今ひとつはっきりしないが、工事にたずさわる大工衆へも、思いやりを見せていることは読み取れる。
 慶長14年かと推定される「用度帳」断片に、二月二十日「(銀)拾匁は上方へ点取りに代金として」、二月三十日「四十三匁は、しょふたく(里村昌琢)へ御音信」と記された部分があるそうである(川崎浩良「山形の歴史」345p)。「点取り」とは、批評を受けること、「御音信」とは、ここでは「おみやげ」ぐらいの意味であろうか。最上一統の気風として、光安もまた、連歌をたしなんでいたらしいのである。
 天童市若松観音堂に、武人画家として高名な郷目貞繁筆の「板絵著色神馬図」(重要文化財)がある。永禄6年(1563)寄進のものだが、その余白下部に「志村九郎・・」という落書が見える。天童攻めを終えた天正12年(1584)後のいつの日か、参詣した光安が、なにげなく筆をとってわが名を書き付けたのであろう。
 慶長16年(1611)8月7日没。主君に先立つこと3年である。年令不明。その後を九郎兵衛光惟がついだが、慶長19年6月1日、鶴ケ岡城下において一栗兵部に襲殺された。その係累と思われる人物が安藤対馬守へ預けられ旨の注記が『最上義光分限帳』に見えているが、詳しいことはわからない。
 妻は元和年間には健在だったと見え、『山形城下絵図』三の丸南東部に「志村伊豆守後室」の屋敷があった。僚友であった坂紀伊守光秀の後室も近くに住んでいた。最上家重臣の妻たち、夫に先立たれた二人の女性の間に、どんな交流があっただろうか。
 酒田青原寺の裏庭に立つ古風な二基の五輪等が、志村伊豆守夫妻の墓である。
 彼が領した飽海郡遊佐町、庄内平野の北はずれ、鳥海山の裾野に落伏(おちぶし)の小さな集落がある。集落の東台地には曹洞禅の古刹永泉寺(ようせんじ)がある。伽藍の間を行くと、奥まった木立のなかに、一基の石造九重塔が建っている。風化した塔の四面には、「奥大日本出羽州□□□君侯前豆州太守為天室良清公大禅定門 士卒等謹就于永泉精舎建立石塔一尊以供養…」の刻まれているというが、実物からはなかなか読み取り難い。
 彼を慕う家臣たちが建立したもので、山形県文化財に指定されている。
■■片桐繁雄著 
2009/09/01 09:00:Copyright (C) 最上義光歴史館
大河ドラマ「天地人」の放送記念イベントとして、全国まちづくりシンポジウム2009「天地人のこころを現代に活かす〜歴史を活かしたまちづくり〜」が開催されます。
大河ドラマ「天地人」の脚本を担当している小松江里子さんと、NHKチーフプロデューサーの内藤愼介さんによる「天地人」対談のほか、「天地人」ゆかりの3市の市長によるパネルディスカッションが開催されます。

開催日:平成21年9月27日(日)

時 間:開場 午後0時30分 開演 午後1時  終了予定 午後3時30分
     第1部 「天地人」対談
        「大河ドラマ『天地人』と地域の活性化」
          特別ゲスト:小松江里子氏(大河ドラマ「天地人」脚本家)
                 内藤愼介氏(大河ドラマ「天地人」制作統括)

     第2部 パネルディスカッション
        「天地人を活かしたまちづくり〜次の一手〜」
          コーディネータ:堀内史子氏(旅館招湯苑・女将)
          パネラー:菅家一郎氏(会津若松市長)
                井口一郎氏(南魚沼市長)
                安部三十郎氏(米沢市長)

会 場:伝国の杜 置賜文化ホール(米沢市丸の内1−2−1)

入場料:無料(入場整理券が必要です)

定 員:500名

主 催:全国まちづくりシンポジウム実行委員会
共 催:大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会、米沢市歴史団体連絡協議会
後 援:米沢市教育委員会


入場整理券の配布方法について
米沢市役所・伝国の杜・置賜総合文化センターにて整理券を配布しております。
 お問合せ:米沢市天地人推進室 電話0238-22-5111 内線2809

...もっと詳しく
2009/08/31 15:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
平成21年度 宮坂考古館特別展!

直江兼続を支えた、天下御免の傾寄者
前田慶次展開催!

◇花の慶次リトグラフ展同時開催!

◇企画展示品
 道中日記、堂森秋月図、上田士籍(上杉文書)
 (上記3点は、9/19(土)〜10/18(日)まで
  実物を展示致します。
  その他の期間につきましては
  写真パネルの展示となりますのでご了承ください。)
 甲冑、槍、面ほか
(展示内容は変更の場合もあります。)

開催期間 平成21年9月1日(火)〜11月3日(火)
展示会場 宮坂考古館
開 館 午前10時〜午後5時(4月〜9月)
    午前10時〜午後4時(10月〜3月)
休館日 月曜日(祝祭日の場合は翌日)
入館料 大人300円 大高生200円 小中生100円
    (団体割引あり)
住所 〒992−0026
   米沢市東1−2−24
電話0238−23−8530

...もっと詳しく
2009/08/30 16:09:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
出羽の虎将最上義光と上杉の智将直江兼続との激戦が行なわれた「慶長出羽合戦」。その戦いの地・畑谷城址では城主・江口五兵衛光清が自刃して果てました。大河ドラマ「天地人」を記念して「畑谷城交流祭」が開催されます。

□日時:平成21年9月13日(日)
     10:30〜20:00
□会場:畑谷城址入口(ごへえ宿)周辺

 ●江口五兵衛光清公の法要 10:30〜
 ●親子ウォークラリー   10:30〜12:00
   ※参加申し込みが必要(申込締切は9/11(金)まで)

◎<第一部イベント>畑谷城交流アトラクション
 ●郷土芸能披露   13:30〜
 ●畑谷城史跡めぐり 15:00〜17:00
   ※参加申し込みが必要(申込締切は9/11(金)まで)

◎<第二部イベント>畑谷城攻防戦・戦没者鎮魂イベント
 ●畑谷城ミニコンサート 17:00〜
 ●灯ろう流し      18:30〜
 ●閉会         20:00


■無料シャトルバス運行
  山辺駅 ⇔ 山辺町役場 ⇔ 会場(畑谷ごへえ宿)

▼問合せ・申し込み:山辺町観光協会
          TEL023−667−1106

...もっと詳しく
2009/08/29 11:30:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
天下分け目の関ヶ原合戦と時を同じくして、慶長出羽合戦と云われた「長谷堂合戦」が行なわれました。出羽の虎将・最上義光と上杉の智将・直江兼続との激戦が繰り広げられた戦いです。
大河ドラマ「天地人」放送を記念して、戦いの場となった長谷堂の地で「天地人祭り」が開催されます。

□期間:平成21年9月19日(土)〜22日(火)
□会場:長谷堂城跡公園・本沢公民館
□駐車場:会場及び会場周辺には駐車場がありませんので、
車で来場される場合は、臨時駐車場(西部工業団地内東北コーデンの裏)をご利用ください。
     臨時駐車場及び山形駅西口から、天地人祭り会場までシャトルバスを運行いたします。


◎長谷堂城跡公園会場
 ●物産販売  9/19(土)〜21(月) 10:00〜16:00
 ●イベント
    ・9/19(土)
       オープニングイベント、芋煮振る舞いなど
    ・9/20(日)
       城山宝探し(長谷堂城跡を散策してお宝をゲット!)
        11:00〜15:00(10:30〜14:30に受付、随時スタート)
       新そばまつり
        11:00〜15:00(笹盆ざる 1枚300円)
    ・9/21(月)
       天地人ゆかりの地ハイキング(事前申し込み)
        9:00〜14:00 (参加費300円)
        対象:約5時間のハイキング及び軽登山可能な方20名(抽選)
        申し込み:8月31日(必着)まで。
はがきに住所、氏名、年齢、電話番号、「ハイキング」と記入し山形市観光物産課へ。
           
◎本沢公民館会場
 ●天地人パネル展示・観光コーナー 9/19(土)〜22(火)10:00〜16:00
 ●イベント
    ・9/20(日)・22(火)
       最上義光公の木目込み兜作り教室(事前申し込み)
        9:00〜14:00 (定員20名)
        費用:4000円(材料込)
        申し込み:8月31日(必着)まで。
はがきに住所、氏名、電話番号、受講希望日、「木目込み」と記入し山形市観光物産課へ。


■無料シャトルバス運行
 9/19(土)・20(日)・21(月)
  車で来場される場合は、臨時駐車場(西部工業団地内東北コーデンの裏)をご利用ください。
  臨時駐車場及び山形駅西口から、天地人祭り会場までシャトルバスを運行いたします。

  ●臨時駐車場(9:30〜15:00まで約20分毎運行)⇔長谷堂城跡駐車場(9:40〜17:00まで約20分毎運行)
  ●山形駅西口(9:30〜15:00まで約1時間毎運行)⇔長谷堂城跡駐車場(10:00〜16:30まで約1時間毎運行)


▼問合せ:山形市観光物産課
     山形市旅篭町2丁目3−25
     TEL 023−641−1212

...もっと詳しく
2009/08/29 10:30:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
第19回鷹山公シンポジウム
〔主催:鷹山公と先人顕彰会〕
テーマ
 直江兼続の史跡紹介〔米沢・山形最終編〕
 −迫力ある映像と楽しい語り−
解説 米沢市文化財保護審議会委員
   鷹山公と先人顕彰会常任理事
   石栗 正人

期日 平成21年9月20日(日)
   午後1時30分開場
   午後2時開演

場所 伝国の杜 置賜文化ホール
入場無料

第1部「朝日軍道」 
   日本史上最大の山岳道「朝日軍道」
   開拓にまつわる話と、畑谷城並びに
   長谷堂城の戦いについて語ります。

第2部「殖産振興と学問振興」
   殖産興業の振興、学問文学のすすめ、愛情溢れる
   領民政策、人生終焉の跡をたどります。

駐車場について
  当日、「天地人博」開催中のため
  伝国の杜及び上杉城史苑駐車場は
  大変混雑することが予想されます。
  他に、臨時駐車場、無料シャトルバスが
  用意されておりますので、そちらをご利用
  いただきたいと存じます。

...もっと詳しく
2009/08/25 08:40:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
ナビゲータ山口良一さんが、やまがたの魅力を紹介している情報番組「やまがた発!旅の見聞録」で、「天地人ゆかりの地を訪ねて」と題して県内ゆかりの地を紹介されます。
第一回は山口良一さんが米沢市で直江兼続ゆかりの地を巡り、天地人博や林泉寺などを地元の人と触れ合いながらご紹介します。

■やまがた発!旅の見聞録
 <テレビ埼玉・千葉テレビ・テレビ神奈川・山形放送(YBC)>

■8月22日(土)
 午前9時25分〜9時40分(山形放送の日時)
 「天地人ゆかりの地を訪ねて〜米沢市〜」

■8月29日(土)
 午前9時25分〜9時40分(山形放送の日時)
 「天地人ゆかりの地を訪ねて〜後編〜」

▼放送後に動画が見られます
 旅の見聞録

2009/08/21 19:26:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
大河ドラマ「天地人」の放送記念イベントとして、大河ドラマ「天地人」シンポジウムを開催いたします。
NHK大河ドラマ「天地人」の時代考証をご担当されている小和田哲男氏の講演と、小和田氏をコーディネーターにお迎えし、奥羽の関ヶ原とも呼ばれる「慶長出羽合戦」についてのパネルディスカッションを開催します。

開催日:平成21年9月13日(日)

時 間:開場 午後0時30分 開演 午後1時30分  終了予定 午後4時30分
     第1部 小和田哲男氏基調講演
        「裏側から読みとく戦国武将 〜ドラマと史実のうそほんと〜」
     第2部 パネルディスカッション
        「もう一つの関ヶ原 慶長出羽合戦とは何だったのか」
          コーディネータ:小和田哲男氏
          パネラー:伊藤清郎氏(山形大学地域教育文化学部教授)
                遠藤 英 氏(九里学園高等学校教諭)

会 場:山形テルサ ホール(山形市双葉町1−2−3)

入場料:無料(入場整理券が必要です)

定 員:500名

主 催:大河ドラマ「天地人」山形県推進協議会
共 催:大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会、NHK山形放送局
後 援:大河ドラマ「天地人」広域観光連携協議会


入場整理券の配布方法について
山形県観光振興課、各総合支庁観光振興室、やまがた観光情報センター、NHK山形放送局にて整理券を配布しております。
上記のほか、FAX、はがきでも受け付けいたします。【氏名・住所・郵便番号・電話番号・整理券の枚数】を明示してお申し込みください。後日整理券をお送りいたします。

※たいへんご好評をいただき、規定の枚数に達したため、入場整理券の配布を終了させていただきました。どうもありがとうございました。

お申し込み・お問合せ
 大河ドラマ「天地人」山形県推進協議会(事務局:山形県観光振興課)
  郵便番号:990−8570 山形市松波2−8−1
   電話:023(630)2373  FAX:023(630)2097

...もっと詳しく
2009/08/21 09:20:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
永正21年(1524)〜慶長14年(1609)
 綾姫。上杉景勝の生母で、上杉謙信の姉でもある。父は越後守護代長尾為景、母は虎御前。
 坂戸城主長尾政景に嫁ぎ二男二女をもうけた。長男義景は10歳で早世、二男顕景は後の景勝、長女は上条城主・上条政繁に嫁ぎ、二女は上杉景虎(北条氏政の七男で謙信の養子)に嫁いだ。
 夫政景の死後、才気煥発な少年樋口与六(後の兼続)を見出し、喜平次(景勝)の小姓として推挙。その後謙信の招きで、景勝とともに春日山城へと移り、景勝は謙信の養子となった。
 仙洞院は、「御館の乱」で景勝と景虎(二女の夫)が争うことになり辛い立場に置かれながら、動乱の時代を景勝とともに歩んだ。
 その後、景勝の移封に伴い会津そして米沢城へ移る。慶長14年(1609)2月15日、米沢城二の丸で死去。享年85。墓は米沢市林泉寺にある。

 大河ドラマ「天地人」では、仙桃院、二女は華姫となっている。

2009/08/20 23:10:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
清水光氏(しみずあきうじ):1582〜1614
  最上義光の三男。のち義親(よしちか)。最上氏の一族であった清水義氏の養子となり、清水家を継ぎ清水城主となった。慶長出羽合戦では、長谷堂城を救援して上杉軍と戦った。その後の庄内攻略戦では、叔父の楯岡光直とともに総大将を務めた。若い時に豊臣氏の人質となっていたため、豊臣秀頼との繋がりがあり、大坂の役に際して内通を疑われた。兄の最上家親に清水城を攻められ、嫡子・義継ともども自刃した。
   関連史跡:清水城址(大蔵村) 


清水義氏(しみずよしうじ):1547〜1586
  最上氏一族の清水氏6代目当主。清水城主。1565年に父・義高が大宝寺義増に敗れ、討死したため跡を継いだ。その後は最上義光と連携して大宝寺氏とたびたび争う。男子が無かったため、義光の三男・光氏を養子に迎えた。のちに娘の清水姫は義光の継室となった。


山野辺光茂(やまのべあきしげ):1588〜1664
  最上義光の四男。のち義忠(よしただ)。慶長出羽合戦後に父・義光の命により山野辺城主となり、山野辺家の名跡を継いだ。山野辺の城下町整備や治水事業を行なうなど、優れた行政手腕を発揮して領民に慕われた。兄・家親が急死し、その子家信が藩主を継いだが、家信は若年で国政を執るには力不足で、光茂を当主に推す声が強くなった。このため家臣団がまとまらず、最上家改易の原因となった。改易により光茂も池田家に預けられた。後に水戸藩の家老となり、徳川光圀の教育係を務めた。
   関連史跡:山野辺城址(山辺町)


上山光広(かみのやまあきひろ):1594〜1627?
  最上義光の五男。のち義直(よしなお)。1616年に2万1千石にて上山城主となり、上山姓を名乗った。最上家改易により黒田家に預けられ、4,5年後に自害したと云われる。
   関連史跡:上山城(上山市)


大山光隆(おおやまあきたか):1602?〜1623
  最上義光の六男。1615年に2万7千石にて庄内大山城主となり、大山姓を名乗った。最上家改易により酒井家に預けられ、翌年広島にて自害した。
   関連史跡:大山(尾浦)城址(鶴岡市)


長瀞義保(ながとろよしやす):?〜1591?
  最上義守の次男。兄・義光が天童氏を攻め滅ぼすと、その命により天童氏を盟主として義光に対抗した最上八楯の一員である長瀞氏を継いだ。
   関連史跡:長瀞城址(東根市)


長瀞光忠(ながとろあきただ):?〜?
  義保の跡を継いで長瀞城主となる。1596年湯沢城に拠る楯岡満茂が小野寺義道の攻撃を受けた際、小国光基とともに救援に赴いて撃退した。


白岩光広(しらいわあきひろ):1589〜1672
  長瀞義保の子。白岩義広の養子となり、白岩家を継いで白岩城主となった。1615年松根城を築城して城主となり、松根氏を称した。最上家親が急死した件を、楯岡光直による毒殺であると幕府に訴え出た。幕府は調査したが証拠が無く、光広を立花家へ配流する処分を下した。
   関連史跡:白岩城址(寒河江市)


楯岡光直(たておかあきなお):?〜1629?
  最上義守の三男。楯岡城主。楯岡満茂が湯沢城(湯沢市)に移り、湯沢氏を称するようになったため、その跡を継いで楯岡氏を名乗った。慶長出羽合戦では、長谷堂城を救援して上杉軍と戦った。その後の庄内攻略戦では、甥の清水光氏とともに総大将を務めた。最上家信が藩主となると、最上義光の四男・山野辺光茂の擁立に動いた。このため、最上家中は二分して混乱し改易された。改易後は細川家に預けられた。
   関連史跡:楯岡城址(村山市)


楯岡満茂(たておかみちしげ):1556?〜1639?
  楯岡城主。1586年横手城主の小野寺義道が侵攻してきた際、有屋峠で最上義康とともに戦い、苦戦の末にこれを撃退した。1595年逆に仙北地方に侵攻し、湯沢城(湯沢市)を攻め落とした。そのまま城主となり、湯沢氏を称した。
  慶長出羽合戦のときは、小野寺氏に対する守備を担当した。のちに由利郡に移り、本荘城を築城、本荘氏を称して、最上家中の最高の4万5千石を領した。
   関連史跡:本荘城(由利本荘市)


楯岡満広(たておかみちひろ):?〜?
  満茂の弟。関ヶ原合戦後、兄に従って由利郡に移る。矢島城(由利本荘市)3千石を与えられた。最上家改易により兄弟ともに酒井家に預けられた。


氏家定直(うじいえさだなお):?〜1570?
  最上家の宿老。天文の大乱時に、伊達に味方した主君・最上義守の名代として出陣した。義守とその嫡男・義光が争った際には、病身をおして調停に入り、義光への家督相続を実現させた。


氏家守棟(うじいえもりむね):?〜1591?
  定直の子。知略に優れ、最上義光の懐刀と呼ばれた。最上義守・義光親子の争いに介入する伊達輝宗との和睦交渉を担当。謀略をもって天童氏や上山氏を攻略したほか、鮭延城攻めや観音寺城攻めなど各方面で活躍した。


成沢道忠(なりさわみちただ):?〜?
  成沢城主。氏家守棟の従弟。最上義光と上山満兼・伊達輝宗連合軍が戦った柏木山合戦では、山形城南方の要となる成沢城を守備した。
   関連史跡:成沢城址(山形市)


氏家光氏(うじいえあきうじ):1565?〜?
  成沢道忠の子。氏家守棟の子が十五里ヶ原の戦いで戦死したため、守棟の養子となり氏家家を継いだ。最上義光の三女・竹姫を娶り、重臣として活躍した。慶長出羽合戦では、長谷堂城救援のため出陣した。


延沢満延(のべさわみつのぶ):1544〜1591
  大力剛勇の武将。延沢城主。最上八楯の一員。はじめ天童氏に味方し、大いに最上義光を苦しめた。義光の長女を満延の子に嫁がせるという条件で、義光方に寝返った。このため天童氏は敗北。義光と力比べをしたときに、あまりの強さに桜の木にしがみついた義光を、その桜の木ごと引き抜いたという逸話をもつ。
   関連史跡:延沢城址(尾花沢市)


延沢光昌(のべさわあきまさ):?〜?
  満延の子。最上義光の長女・松尾姫を娶った。父の死後に家督を継ぎ、慶長出羽合戦では、長谷堂城救援のため出陣、続いて上杉領であった庄内地方を攻略した。その後、1614年清水義親討伐に参加、最上家改易後は加藤家に預けられた。


志村光安(しむらあきやす):?〜1609
  最上義光の重臣。「いかなる強敵も彼の前には降った」と云われる最上家の知将。慶長出羽合戦の際には、長谷堂城を守備した。直江兼続率いる上杉軍2万に対し、篭城戦を展開。ついに守りきり上杉軍を撤退に追い込んだ。戦後、庄内侵攻戦に加わり、東禅寺(酒田)城主となった。
   関連史跡:亀ヶ崎城址(酒田城址)・永泉寺の供養塔(遊佐町)


志村光清(しむらあききよ):?〜1614
  光安の子。父の死後に家督を継ぎ、亀ヶ崎城主となる。最上義光が死去した後、最上家親の家督相続に反対した一栗高春に、鶴岡城内で襲われ斬殺された。
   関連史跡:亀ヶ崎城址(酒田市)


鮭延秀綱(さけのべひでつな):1562〜1646
  佐々木貞綱の子。鮭延城主。横手城主小野寺氏に仕えていたが、最上義光に攻められ降伏。その後は最上家家臣として活躍した。慶長出羽合戦では、副将として長谷堂城の守備にあたった。その最中、上杉軍に夜襲をかけて、直江兼続本陣を脅かすほどの戦果うぃ挙げ、兼続に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめた。
   関連史跡:鮭延城址(真室川町)


庭月広綱(にわつきひろつな):?〜1650
  佐々木氏(鮭延氏)の一族。鮭延秀綱が最上義光に攻められた際、同じく攻撃を受け降伏した。
   関連史跡:庭月観音(鮭川町)


谷柏直家(やがしわなおいえ):1551〜1610
  最上義光の小姓。片桐蔵人。谷柏館主。慶長出羽合戦では、飯田播磨守らとともに畑谷城救援に向う。途中、畑谷城が落城したことを知り、追われて逃げてきた領民達を保護した。上杉軍の追撃を防ぐために殿郡として戦っていた飯田が討ち取られたことを知ると、引き返して飯田の首を奪い返した。長谷堂城に隣接する谷柏館も上杉軍の攻撃を受けたが、よき防戦して守りきった。
   関連史跡:谷柏館跡(山形市)


飯田播磨守(いいだはりまのかみ):?〜1600
  実名不詳。天童八楯のひとつで、村山郡北部(村山市本飯田)を本拠地としていた。天正年間に村山郡南部に移封となり、飯田館を築いた。慶長出羽合戦では、畑谷城の救援に向った。途中、畑谷城が落城したことを知ったが引き返さず、追われて逃げてくる領民の救出にあたった。避難の時間を稼ぐために残って上杉軍と交戦し討死した。
   関連史跡:飯田館跡(山形市飯田)・たらたら清水(最後の地/山形市)


江口光清(えぐちあききよ):1544?〜1600
  畑谷城主。慶長出羽合戦の際、最上義光から山形城に退却するよう命令されたが、城を棄てるのは武士の名折れとしてこれを拒否し、直江兼続率いる上杉軍2万との徹底抗戦に出た。約3百の兵で奮戦したものの、畑谷城は落城し、全員討死した。連歌の才があり、義光の連歌会に何度も同席している。
   関連史跡:畑谷城址(山辺町)・長松寺(供養碑/山辺町)


加藤清次(かとうきよつぐ):?〜1600
  悪戸楯主。伊達政宗の母・保春院の警護役を務めた。親友の江口光清が畑谷城で討死したことに憤激し、長谷堂合戦に参陣したが、長谷堂城の北方で戦死。
   関連史跡:掃部の碑(供養碑/山形市)


坂 光秀(さかあきひで):?〜1616
  成沢城主。慶長出羽合戦では、援軍として長谷堂城に駆けつけた。戦後、東禅寺(酒田)城主となった志村光安に代わって、長谷堂城主となった。
   関連史跡:清源寺・坂光秀の肖像画(山形市)


堀 喜吽(ほりきうん):?〜1600
  最上義光の御伽衆。筑紫喜吽とも。筑前で生まれ、兵法家として諸国を巡り、今判官と称した。連歌にも長じており、義光とともに京での連歌会に出席している。慶長出羽合戦の際、撤退する上杉軍に対し、自ら先頭に立って追撃する義光を諌めたが、逆に臆病者と罵倒されたため、単騎で突撃した。上杉軍の鉄砲隊に撃ち抜かれ、義光の馬前で戦死、義光自身も兜に銃弾を受けた。


里見民部(さとみまんぶ):?〜1614
  実名不詳。最上義光の誘いに乗り、上山城主・上山満兼と誘いを拒んだ兄・内蔵助を斬殺した。父の義近(越後守)が代わって上山城主となる。慶長出羽合戦では、上杉軍の別働隊4千を約5百の兵で奇襲し、撃退した。上杉側に城を明け渡す約束をしていたが、義近が軍奉行として山形城に入った(人質に取られた)ため、逆に奮戦したとも云われている。最上義康の廃嫡事件に関わり、上山城を退去。加賀前田家などへの士官を義光に妨害され、各地を流浪した末に尾浦城主・下吉忠に預けられた。将来に禍根を残すとして、義光が遺言し、義近、民部、民部の子の権兵衛(光正)など主従23名が切腹させられた。
   関連史跡:上山城址(上山市)・天澤寺の里見主従墓地(鶴岡市)


草刈正辰(くさかりまさたつ):?〜1600
  志摩守を称す。慶長出羽合戦の際に、上山城へ援軍として派遣された。山中に伏兵して上杉軍を待ち伏せし、隊列が延びたところを奇襲、大将・本村親盛を討ち取り、上杉軍を壊滅状態に追い込んだ(物見山の戦い)。勢いに乗じて、上杉側の拠点・中山城攻略のため攻め込んだが、上杉鉄砲隊の反撃を受け、戦死した(広河原の戦い)。
   関連史跡:首塚(両軍の戦死者を祀る/上山市)・広河原古戦場跡(上山市)
2009/08/20 14:20:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
天文16年(1547)〜天正15年(1587)
 新発田城主・新発田尾張守長敦の弟。新発田家は兄長敦が家督を継いだため、五十公野家を相続し、五十公野源太と名乗るが後に治長と改名。
 謙信の死後勃発した「御館の乱」では景勝に味方し、戦功をあげ武名を轟かせた。
 天正7年(1597)兄長敦が病死すると、生家の新発田家を相続。名を重家と改名。
 「御館の乱」後の論功行賞で、恩賞を不服として景勝を見限り、信長に通じて挙兵。信長の支援を受け、新潟・沼垂などを占領し戦線を拡大していった。
 しかし、天正10年(1582)信長が本能寺で自刃すると、秀吉と家康の抗争に乗じて勢力伸張を画策した重家は、両者の停戦で孤立したところを景勝に攻められ、新発田城は落城。天正15年(1587)自害。享年41。
2009/08/18 16:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
天文15年(1546)〜天正10年(1582)
 武田信玄の四男として誕生。母は側室諏訪御料人。上杉景勝の正室となった菊姫の兄でもある。
 母方の諏訪氏の名跡を継ぐが、兄の武田義信の死により、武田氏の後継者として武田勝頼となり、元亀4年(1573)父信玄の死により家督を相続する。
 信玄は病床で「孫の信勝が元服するまで後を継ぎ、甲・信・上・駿を束ねよ」と勝頼に遺して逝去した。勝頼は遺命を守るため諸国と戦うが、長篠の戦いで織田・徳川軍に惨敗。
 勝頼は北条氏政の妹と結婚し北条氏と同盟を強化するが、後に北条氏と対立。天正7年(1579)上杉景勝に妹菊姫を娶らせ、上杉氏と同盟を結ぶが、天正10年(1582)織田・徳川軍の侵攻を受け自害。享年37。勝頼の代で武田家は滅亡。
2009/08/18 15:30:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
天地人放送記念!
よねざわ上杉戦国絵巻夜の陣が9月26日(土)に開催されます!

そこで、この夜の陣の有料桟敷席(お土産、飲食券付き観覧席)
を8月17日(月)の午前9時より予約申込受付開始いたします。
完売いたしました。

「よねざわ上杉戦国絵巻夜の陣」有料桟敷席、
9月17日午前9時より販売開始いたしましたが
おかげさまで1日のうちに予約席完売いたしました。
前売りご購入いただいたお客様誠にありがとうございます。

桟敷席ご希望の方は、9月26日(土)
当日14時より販売する当日席をご購入いただきたいと存じます。
当日券は150席販売予定でございます。

当日券が購入できなくても
合戦は松川河川敷で行なわれますので
広い会場になっております。

客席は堤防斜面を利用した桟敷席と一般席とに分けられます。
桟敷席以外は自由観覧ですので一般の方はその他の場所 
何処でも無料で観覧できます

今回桟敷席を購入できなかったお客様も
ぜひご来場いただきお楽しみください。

夜の陣(夜の川中島合戦) 桟敷席 販売要項
予約開始  平成21年8月17日(月) 午前9:00〜  
      定員になり次第終了致します。

予約人数  電話予約        先着300名 完売いたしました。
      インターネット予約   先着250名 完売いたしました。
      当日販売         先着150名
      ※当日券は午後2時より合戦会場にて販売

料金    1500円 (消費税込・お土産、飲食券付き)
      ※前売、当日、同料金
  
申込方法  電話での申し込み、
      またはインターネット予約
      申込フォームから受付致します。

インターネット予約完売いたしました。
電話申込完売いたしました。

お問合せ
米沢観光物産協会 TEL0238-21-6226


お支払方法(前売り券): 郵便振込。振込確認後、
            9月10日(木)にチケットを発送します。
           (振込手数料はお客様ご負担となります)
           ・チケット発送時に、市内の観光パンフ、
            まつりパンフレットも同封いたします。


有料桟敷席は席取りをすることなく会場に入れますので、
市内観光や市内で同時に開催されているイベントに参加した後、
合戦会場へゆっくり向かうことが出来ます。

有料桟敷席の場所は、会場のほぼ中央に位置しており、
会場内全てを見渡すことが出来ます。

絶好のロケーションで、戦国絵巻の幻想と興奮を
間近で味わってみませんか!

※詳細は公式ホームページhttp://www.uesugi-festa.com/


実施主体 米沢観光物産協会青年部
2009/08/17 09:00:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
「天地人コレクション」コーナーは8月15日(金)より「家康と景勝・兼続」をテーマに展開しております。景勝・兼続の人生に大きく影響を与えた人物の一人、徳川家康と景勝・兼続との関係について9月11日(金)までの1か月間紹介していきます。次回のテーマ「慶長5年の兼続〜最上義光と」(9月12日〔土〕〜10月9日〔金〕)と合わせて2か月間、関ヶ原合戦に関する史料を展示していきます。

上杉景勝は織田信長の同盟者としての徳川家康と対立関係になります。本能寺の変後は信濃支配や秀吉との関係において対立。豊臣政権下でのライバル関係をへて関ヶ原合戦での衝突に至ります。その後家康が天下人となると、景勝は一大名として臣下となります。家康と景勝は様々な面で密接した関係にあり、兼続もそこに関っていたのです。今回は謙信時代も含めて、家康と景勝・兼続について紹介していきます。

今回の見どころ 

〜景勝が家康との戦いに臨む際に身に付けたとされる甲冑。「天地人シアター」にも登場〜
「浅葱糸威黒皺韋包板物二枚胴具足」(宮坂考古館蔵)
〜関ヶ原合戦の様子を描いた絵巻物〜
「関ヶ原合戦図絵巻 下巻」(真田宝物館蔵)

ぜひおこしください。

2009/08/16 17:19:Copyright (C) 伝国の杜 情報BLOG
神田紫エコ講談「もったいない善兵衛」
米沢に見参!
ご当地編、初書き下ろし!

開演日時:平成21年9月26日(土) 
     開演14:00(開場13:00)
会場:伝国の杜 置賜文化ホール

チケット:前売り/3,500円 
     当日/3,800円 【全席自由】

チケット販売:音楽事務所ジャパンユニオン
       03-3476-4422
       伝国の杜、大沼デパート、米沢楽器店、
       音楽アズム館米沢店、米沢商工会議所

主催お問い合わせ:音楽事務所ジャパンユニオン
         03-3476-4422

今からさかのぼること、約200年ほど前の江戸時代。
小間物店「吉屋」の丁稚、善兵衛は店の無駄を見つけては
「もったいない!」と指摘する働き者。
いつしか周囲の人たちから「もったいない善兵衛さん」と
呼ばれるようになりました。

善兵衛はお客様にも真心を尽くすため「吉屋」は益々大繁盛。

神田紫が米沢を舞台とし、ご先祖様から連綿と引き継がれている、
人・物・自然を大切にする心を伝えます。

ゲスト出演!
ソウル&ビートユニット 天地人
(大間ジロー・黒澤博幸)
2009/08/14 10:13:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
前のページへ 次のページへ
Copyright (C) 山形おきたま観光協議会 All Rights Reserved. 禁無断転載・複写