:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

戦国観光やまがた情報局
【江口五兵衛光清/えぐちごひょうえあききょ】 〜文武にすぐれた勇者〜

 「この城がほしいなら、戦って取るがよい。上杉の習いはいざしらず、最上の武士は最後の一人になろうとも、城を明け渡すことはないのだ。」
 慶長5年(1600)九月、最上領の最前線である畑谷城は、上杉二万余の大軍によって包囲された。城を守る最上の兵は、わずか3百数十人。城主は江口五兵衛光清である。
 上杉方の大将、直江山城守兼続は軍使を城中に送って、「無駄な戦いはやめて降伏せよ。かならず名誉ある処遇をする」と伝えたが、その使者に対して光清が敢然と言い返したのが、ここに紹介した言葉である(『奥羽永慶軍記』による)。
 上杉家の公史『景勝公御年譜』でも、江口五兵衛については絶賛を惜しまない。

 「城主は江口五兵衛道連(ママ)というものである。かねてから評判の忠信無二の義士であり、父子ともに立てこもった。信条ひとしき者は結束するというとおり、従う勇士はいずれも一騎当千の者ばかり、百余人ママが篭城した。直江山城守は諸将と相談して、なんとかして五兵衛父子を味方にしようと計略をめぐらしたが、江口は義士であり全く聞き入れなかった」

 義光もまた、上杉軍の襲来を前にして、
 「畑谷城のような山中の小城で戦ったとて、とうてい持ちこたえることはできぬ。急いで山形に帰り生死をともにせよ」

と再三撤退を命じたが、光清は、
 
 「常々この城をあずかっているのは、このような時のためでございます。いま危うい時に城を捨てたとあっては武士の名折れ。もとより一命を捨てる覚悟であるからには、ここで華々しく討ち死にし、忠義の心を後世に残す所存でございます」

と、いっこうに従おうとしなかった。
 義光は見捨てることはできぬと、飯田播磨守、谷柏相模守、小国日向守らの援軍を派遣したが、その甲斐もなく、畑谷の孤城は9月13日に落城、全員城を枕に討ち死にを遂げた。玉砕であった。時に光清55歳。ともに討ち死にした一族は、次男小吉23歳、甥松田久作(一書に忠作)40歳。彼らの奮戦ぶりは江戸時代に書かれた軍記物語に詳しいが、もちろん、想像をたくましくした部分もあるだろう。
 援軍としておもむいた飯田相模守も、乱戦のなかで戦死した。その首を取り返そうと、引き返して戦った谷柏相模守の友情も、多くの軍記物語の語るところだ。
 兼続は、9月15日付け、僚友秋山伊賀守あての手紙で、

 「去る十三日、最上領畑谷城を乗り崩し、撫で斬りを命じて、城主江口五兵衛父子含めて、首を五百余り討ち取った。簗沢の城も空け逃げ、在々(村々)に放火し、昨十四日には最上の居城に向かい陣を構えている……」

と書いた。「撫で斬り」とは、刃にあたる者皆殺し、の意。壮絶、悲惨な戦いであった。
 慶長出羽合戦の「悲劇の城」。それが江口五兵衛の畑谷城だった。
 ところで、この光清はただ勇敢・信義の武人というだけではない。古典文芸に通じ、すぐれた感性をもった人物だった。そのことは、残された連歌作品や手紙から明らかに見て取れる。
 連歌についていえば、文禄から慶長初年にかけて、彼が連なった連歌は、現在確認されるだけで14巻、句数は76句である。
 その最初、文禄2年(1593)2月12日の連歌では、5句が選入された。

   秋の雲まよふあとより晴れ渡り  禅昭
   つばさ離れず雁わたる空     光清

 秋空に浮かぶちぎれ雲が行方さだめず流れ去り、しだいに晴れていく。これが山名禅昭の句。これにつけた光清の句は、そのあとの晴れ渡った空を、雁の列が渡っていくという景である。「つばさ離れず」が仲良く助け合って旅をする雁の姿を描いて、いかにも温かい。これに、景敏が付けて、視点を色づきはじめた田圃へと移した。

   はるかなる田づらも色になりそめて 景敏

 景敏は連歌の大家として、義光はじめ最上一族と深い交流があった。慶長4年10月以後に改名して里村昌琢を名乗り、後水尾上皇から古今伝授をうけた。後に江戸幕府の連歌所の宗匠として重きをなした人物である。寛永13年(1636)2月に63歳で没した。
 江口光清は、このような一流文人たちと一座して、奥深い文芸の世界に心をあそばせることのできる武人だった。単なる武骨な田舎ざむらいではなかったのである。
 手紙では、光清が僚友加藤掃部左衛門にあてた一通が、山形市村木沢の旧家、加藤家に秘蔵されている。
 掃部左衛門が村木沢の一部「悪戸」というところに館を構え、堀を掘りめぐらしたことを「むつかし」いこと、つまり「結構でない」と言い、悪戸に住まいする衆は、村木沢衆と上手に付き合わなければ立ち行かぬ、その点にじゅうぶん気配りをしてほしいと、懇切な忠告を与えた手紙である。「四月二日」の日付はあるが、年次はわかっていない。推定では慶長2年7月以後、戦死するまでの3年余の間だろうと思われる。
 文武両道にすぐれた勇者、名誉ある死をとげた江口光清のことは、畑谷落城の悲話とともに長く人々に語り継がれている。
 戒名は清浄院殿江月秋公大居士。山辺町畑谷の、古城跡を眼前に見上げる長松寺の境内に、彼を弔う古い家型塔婆がある。墓地の一画には彼を讃える漢詩を刻んだ石碑がたち、1999年の秋四百年忌を修して建立された五輪供養塔がある。
 人柄といい、戦いぶりといい、彼のことは末長く語り継がれることだろう。
■■片桐繁雄著
2009/09/11 14:08:Copyright (C) 最上義光歴史館
越後・会津・置賜 天地人うまいもの市開催!

日時 9月18日(金)〜27日(日)午前10時〜午後4時
場所 伝国の杜前広場

大河ドラマ天地人放送を記念し、ゆかりの地である
越後、会津、置賜の旬の食と物産を一同に販売いたします!

米沢牛串、米沢らーめんほか 各地の特産品、美味しいものが
たくさんございますのでぜひ足をお運びください!
美味しいものラインナップ!
・米沢らーめん:米沢麺業組合
・米沢牛カレーパン、牛パン、カツサンド:上杉城史苑
・米沢らーめん牛やきそば:田舎や
・米沢牛串、駅弁:米沢牛のれん会
・おでん、つけもの、米沢鯉:やまがた食品振興会
・米沢芋煮と鮭、うこぎのミニ丼セット:米沢観光物産協会女性会
・牛串、玉こんにゃく、やきそば:べにはな
・槐木工品:幸林工芸
・野菜市:ひかりフーズ
・米沢牛まんじゅう:エヌティエス
・お漬物、米:高一
・かねたんまんじゅう、独楽:つたや物産
・おにぎり、だんご:富士屋商店
・直江、上杉、かねたんグッズ:富士印刷
・会津豆菓子:おく屋
・会津絵ロウソク:山形屋本店
・線香花火:新潟市
・長岡のぎんなんようかん:長岡市
・石巻焼そば:喜栄
・新米:サンファームしらたか
・牛串、コロッケ:飯豊町商店街
・イワナの塩焼き:小国町観光協会
・米沢牛コロッケ、牛すじ煮込み、ダリヤ:川西町観光協会
・バルーンアート
・伝統野菜のPR販売:山形県農業振興課
・新潟の笹団子、お菓子


同時開催!
9月26日、27日には 「兼続どん丼まつり」開催!
午前10時〜午後3時 会場 伝国の杜前広場

米沢牛丼、会津ソースカツ丼をはじめ
芋煮のほか各店自慢の丼が集結!
1,000円チケットを購入し、お好きな丼または芋煮 2つ引換えできます。
組合せ自由
※米沢牛ステーキ丼のみ1,000円チケットで1つ

米沢牛丼

会津ソースカツ丼

兼続丼(うこぎそぼろと玉子と牛肉、豚肉、リンゴのそぼろ三色丼)

越後 鮭いくら丼


そのほか
美味しい丼が勢ぞろい!
米沢牛ステーキ丼!
愛の足軽角煮丼
米沢牛すじ丼
松茸ご飯と牛ハンバーグ丼
米沢牛しぐれ煮丼
とろとろ牛すじカレー丼
愛の本中華丼
らーめんサラダ
かねたん丼

米沢芋煮、会津芋煮、南魚沼きのこのけんちん汁

ぜひお召し上がりください!

さらに!
チケット購入者全員に豪華景品が当たる抽選会などもございます!
温泉ペア宿泊券など、空クジなしの大抽選会!

ぜひ美味しい丼食べ比べしてください!

主催 米沢観光物産協会


2009/09/10 00:26:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会

山本寺景長(さんぽんじかげなが):1550〜1582
  一門衆。不動山城主山本寺定長の弟。天正6年の御館の乱で、定長は上杉景虎に味方したため景勝軍に敗れた。弟景長は上杉景勝に味方し活躍した。
  天正8年(1580)景長は兄定長のあと、山本寺家を継ぎ不動山城主となった。
  天正10年(1582)織田信長の攻撃を受けて魚津城は落城し、景長は竹俣慶綱、吉江宗信、吉江信景、安部政吉らとともに自刃した。


直江信綱(なおえのぶつな):?〜1581
  譜代・旗本衆。上野国総社長尾顕景の子。与板城主直江景綱の娘お船の方の婿となる。上杉景勝の奉行職。
  天正9年(1581)春日山城中で、御館の乱の論功行賞のもつれから、毛利秀広が山崎秀仙を斬殺。秀仙と一緒にいた信綱はとっさの出来事に驚き、秀広に斬りかかったが、逆に斬殺されてしまった。


泉沢久秀(いずみさわひさひで):?〜1615
  上田衆。上杉景勝の直臣。慶長3年(1598)景勝の会津移封に伴い、荒砥城1万1千石の城代となった。
  慶長6年(1601)米沢移封により2千8百石を知行した。元和元年(1615)死去。嗣子が無く泉沢家は断絶。


甘粕景継(あまかすかげつぐ):?〜1611
  上杉景勝の景の一字を賜わり、名を備後守景継と改める。
  文禄2年(1593)庄内酒田城主となった。慶長3年(1598)景勝の会津移封に伴い、2万石の白石城主となる。慶長16年(1611)死去。墓は米沢市林泉寺にある。


鉄 景信(くろがねかげのぶ):?〜1597
  もと上田坂戸城主長尾政景の家臣。政景死後、上田衆を掌握して領内を治め、景勝が謙信の養子となると側近として春日山城へ移り、謙信に従属、戦功を挙げた。
謙信死後は景勝の直臣となり、上田衆を率いて五十騎組の精鋭を作り上げた。


河田長親(かわだながちか):1545〜1581
  上杉謙信の重臣。永禄12年魚津城主となり越中守将を統括した。天正9年(1581)4月8日、魚津城で死去。


吉江宗信(よしえむねのぶ):1505〜1582
  譜代衆。謙信、景勝二代に仕える上杉家重臣。蒲原郡吉江城主。景勝時代には老齢となり留守城在番となる。
  天正9年(1581)河田長親病死により越中魚津城在番となるが、翌天正10年(1582)、信長軍に包囲され越中魚津城で自刃した。


吉江景資(よしえかげすけ):1527〜1582
  譜代、旗本衆。吉江城主で謙信の旗本として春日山城の留守を預かった。
  天正6年(1578)の御館の乱では上杉景勝方として軍功をたてる。
  天正9年(1581)から越中魚津城守備に付くが、翌10年、信長の攻撃を受け、父宗信と共に自刃した。


菅名綱輔(すがなつなすけ):?〜1582
  越後国衆。菅名但馬守。上杉謙信・景勝に仕える。御館の乱では、景虎方の拠点となった加茂城を攻め落とした。
  のち新発田重家の乱でも奮戦したが、放生橋の戦いで討死した。


本庄繁長(ほんじょうしげなが):1539〜1613
  揚北衆。元服と同時に家督を相続し本庄城主となる。
永禄11年(1568)信玄の調略に応じた繁長は上杉氏から独立を目論むが、謙信の猛攻を受け、嫡子千代丸(後の顕長)を人質に降伏。
  御館の乱、新発田攻め、最上攻めで活躍するも恩賞はなかった。
  慶長3年には1万1千石の福島城主に任ぜられる。家康との和睦交渉をまかされ、上杉家は改易を免れた。
  慶長18年(1613)死去。享年75.嫡男顕長が先立って死去しているため、家督は次男義勝が充長と改名し相続した。


中条景泰(ちゅうじょうかげやす):1558〜1582
  吉江景資の次子。謙信より一字を賜わり景泰と名乗る。天正2年中条家を相続し鳥坂城主となった。天正10年越中魚津城で自刃。享年25。


水原親憲(すいばらちかのり):1546〜1616
  大関阿波守親信の子、弥七郎。謙信・景勝に仕え水原家を相続。慶長3年、5千5百石で亀ヶ城主(猪苗代城)となった。
  最上攻めでは兼続の本隊に属し畑谷城、長谷堂城を包囲。上杉軍の撤退に際し殿軍を務め活躍した。
  慶長6年には会津三奉行に任ぜられる。慶長19年の大坂冬の陣にも鉄砲隊を率いて参陣。元和2年(1616)死去。享年71。


竹俣利綱(たけのまたとしつな):?〜1614
  揚北衆。竹俣城主竹俣慶綱の嗣子がなかったため、長尾景人が竹俣城主を相続し、利綱と改名した。
  会津移封に伴い守山城主となり、米沢城に移り慶長18年死去。


市川房綱(いちかわふさつな)?〜1657
  竹俣利綱の遺領を相続した房綱は、慶長19年の大坂冬の陣と元和元年大坂夏の陣に出陣。寛永9年(1632)江戸家老になった。寛永12年には米沢藩の奉行も務め2千石を知行した。明暦3年(1657)死去。


下条忠親(げじょうただちか):?〜1617
  河田長親の次男。慶長3年景勝の会津移封に従って二本松城主となる。慶長6年米沢移封に同行。慶長13年鮎貝城主となり慶長19年の大坂冬の陣に参陣。元和3年(1617)死去。


新発田長敦(しばたながあつ):1538〜1580
  新発田綱貞の嫡男、源次郎。新発田城主。新発田重家は弟。謙信・景勝に仕える。
  御館の乱では景勝を支持し、揚北衆の取りまとめと景虎与党の鎮圧に活躍した。天正8年(1580)病死。


色部顕長(いろべあきなが):?〜1587
  色部勝長の嫡男、弥三郎。平林城主。天正4年家督を弟長真(長実)に譲り隠居。天正15年死去。


色部光長(いろべみつなが):?
  色部長真(長実)が死去すると、幼少の光長が家督を相続。直江兼続の妹(樋口兼豊の二女)を妻に迎える。慶長3年1万石の金山城主となる。慶長6年米沢城下に移り3千3百石を知行。大坂冬の陣にも参戦。


甘糟長重(あまかすながしげ):?〜1604
  謙信・景勝に仕える。景勝の命で三条城主となり、天正14年新発田攻めに参陣。景勝に従い慶長3年会津、慶長6年米沢へ移る。慶長9年死去。
  墓は米沢市栄松寺にある。


千坂景親(ちさかかげちか)1536〜1606
  千坂氏は上杉家直臣で、文禄4年伏見普請総奉行を務め、慶長3年会津移封で5千5百石を知行。慶長8年江戸家老を務め、慶長11年死去。


斉藤朝信(さいとうとものぶ):?〜1591
  赤田城主。謙信・景勝に仕える。天正6年御館の乱で軍功をたてた。天正9年(1581)越中魚津城に入ったが、翌10年には信濃海津城に移った。天正19年死去。


志駄義秀(しだよしひで):1560〜1632
  義秀は直江兼続家臣団の与板衆として活躍。慶長3年会津移封に従い酒田城主となった。慶長6年には荒砥城主となり、1千石を知行した。元和8年(1622)米沢城で奉行職となる。寛永9年(1632)死去。墓は米沢市善光寺にある。享年73。


本村親盛(ほむらちかもり):?〜1600
  最上義光攻めの第二弾として上山城を攻めたが、途中、物見山山麓において最上方の奇襲を受け、大敗を喫した。自身も深田にはまって苦戦し、討死した。
     関連史跡:大将塚(埋葬地/上山市)


横田旨俊(よこたむねとし)?〜?
  旧蘆名家臣。主家没落後、越後にきて上杉家に仕えた。会津移封にあたって、対最上の最前線となる中山城主となる。慶長出羽合戦の際は、第二陣として上山城攻略に向かうが、本村隊の敗北を受けて退却した。戦後も中山城主として対最上の防衛に任にあたった。
     関連史跡:中山城址(上山市)


倉賀野綱元(くらかのつなもと):?〜?
  小滝城主。慶長出羽合戦では、別働隊約8百を率いて進軍し、狸森楯(上山市)を攻略、長谷堂城を取り囲む本隊と合流した。


安部綱吉(あべつなよし):1569〜1646
  菅原内膳の子、右馬助。父は越後安部荘を領していたが、本庄繁長と戦い討死した。そのため各地を渡り歩き、出羽国北条郷の宮内に落ち着いたという。
  慶長出羽合戦では、倉賀野綱元の配下として参陣し、長谷堂城の戦いで武功を挙げた。その後、北条郷の代官となり、宮内の町割りや新田開発、治水事業に尽力した。また金山奉行として金山の経営も任された。
     関連史跡:熊野大社・安部右馬助の顕彰碑(南陽市)、綱正寺(墓/南陽市)


溝口勝路(みぞぐちかつはる):?〜1600
  左馬助。慶長出羽合戦では軍奉行を務めた。撤退に際しては水原親憲とともに殿軍として鉄砲隊を指揮、親憲は富神山東麓、左馬助は柏倉中林山に布陣し、追撃に出た最上軍と激戦を展開した。勝路はこの戦いで重傷を負い、夜営した長岡楯にて息を引き取った。
     関連史跡:長岡楯跡(山形市)


鉄 泰忠(くろがねやすただ):1564〜1635
  島倉泰明の子。鉄景信の養子となる。孫左衛門、上野介。会津神指城築城の総奉行を努めた。慶長出羽合戦では、第一陣として参加。大坂冬の陣では軍奉行として武功を挙げ、徳川秀忠かた感状を受けた。江戸城の石垣普請や堀普請の総監も務めた。
     関連史跡:神指城址(会津若松市)


下 吉忠(しもよしただ):?〜1614
  父・秀忠は北条氏の家臣で、小田原征伐の際に戦死。その後、吉忠は上杉家に仕えて頭角を現し、出羽庄内の尾浦城主となった。慶長出羽合戦では、別働隊を率いて庄内から最上領に侵攻したが、直江兼続率いる上杉軍本隊の退却を知らされず、谷地城に孤立し、最上義光に降った。その後、最上軍の庄内攻略戦に先陣として参加、引き続き尾浦城主に任じられた。
     関連史跡:尾浦城址(鶴岡市)


伊東豊後守(いとうぶんごのかみ):?〜1600
  九州日向国の領主だった伊東家の一族である。島津家と協力関係にあったため、1587(天正15)年、豊臣秀吉による九州平定によって所領を失ったが、その後蒲生氏郷に仕えて中津川の岩倉館に入った。氏郷の死後は上杉家に仕え、豊後守・日向守親子が18名の家臣を率いて最上の陣に参戦するも、豊後を含む18名が八ヶ沼の戦いで戦死。家臣の山川儀助と日向守の二人だけが帰還できた。


2009/09/08 23:20:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
「よねざわ上杉戦国絵巻夜の陣」予告チラシ第2弾完成!
詳細情報を掲載しております![

PDFファイルにてダウンロードできます。
第2弾チラシ裏面PDFファイル

第1弾チラシ裏面PDFファイル

第2弾チラシ裏面には
◇シャトルバス情報
 合戦会場、置賜総合支庁(臨時駐車場)
 札の辻(上杉神社近く)の3箇所をシャトルバスで運行!

食の陣!
「牛牛まつり」開催!
牛串、芋煮、とろべこ汁などの米沢牛にこだわった
美味しいものをはじめ
生ビール、上杉直江関連グッズの楽しいテント村!
お得な前売りチケットも発売中!

ステージイベントでは
よさこい、米沢牛ステーキの振る舞い!
三味線ライブ!

夜の陣
オープニングセレモニー
あき竹城さんご挨拶!

松が岬公園周辺イベント
9月25日(金)天地人公演 宝船ツアー
       よねざわ上杉戦国絵巻夜の陣前夜祭
       愛と調和と情熱のソウル&ビートユニット
      「天地人」によるコンサート

9月26日(土) 兼続どん丼まつり
       松岬神社秋季大祭
       女流講談師 神田紫 エコ講談

9月27日(日) 兼続どん丼まつり
       棒杭市2009
       直江兼続公墓前祭
       大河ドラマ天地人記念
       全国まちづくりシンポジウム 
       ゆるキャラまつり!      

...もっと詳しく
2009/09/03 22:50:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会


米沢市上杉博物館の「天地人博2009」。記念すべき30万人目のお客様は新潟県新潟市よりお越のお客様でした。
かねたん・かげっちさま・おせんちゃんとともに記念撮影をしていただきました。

30万人という予想以上の多くのお客様にいらしていただき、うれしさは勿論、驚きも強く感じております。展覧会の会期も後半に入りましたが、引き続きお客様に喜んでいただけるよう職員一同がんばります。

2009/09/02 17:17:Copyright (C) 伝国の杜 情報BLOG
天下分け目の関ヶ原の戦いと時を同じくしておきた「慶長出羽合戦」。上杉の智将・直江兼続と山形城主・最上義光との壮絶な戦いが繰り広げられた足跡を辿るルートバスが運行されます。

◎おいしい山形 旬・感バス【慶長出羽合戦】ルートバス
 9月5(土)〜11月23(月)の土・日・祝日運行

●運行行程 (1日2回運行)※観光ボランティアガイドがご案内します。
  JR山形駅東口バス乗り場(9:15、13:40)
    ↓
  畑谷城址徒歩散策(9:50〜10:40、14:20〜15:10)
    ↓
  長谷堂城址徒歩散策(11:10〜12:10、15:40〜16:40)
    ↓
  JR山形駅東口バス乗り場(12:40、17:10)

●運行日
   9月/ 5(土)6(日)12(土)13(日)19(土)20(日)21(月)22(火)23(水)26(土)27(日)
  10月/ 3(土)4(日)10(土)11(日)12(月)17(土)18(日)24(土)25(日)31(土)
  11月/ 1(日)3(火)7(土)8(日)14(土)15(日)21(土)22(日)23(月)
●料金:1日券(午前・午後共通利用可)1700円(小学生850円、未就学児無料)
●予約なしで気軽に乗車。当日限り乗り降り自由

▼問合せ:山交バス株式会社観光課
     TEL023−647−5173

...もっと詳しく
2009/09/02 10:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
大河ドラマ「天地人」の放送を記念して、上杉・最上ゆかりの地である5市町(山形市・米沢市・上山市・山辺町・白鷹町)がコラボレーションしたイベントがこの秋開催されます。
大河ドラマでもいよいよ天下分け目の関ヶ原の戦いへと展開し、山形県ゆかりの地もこれから登場していきます。
「5市町コラボイベント・秋の陣」で一足先にいざ出陣!!

□最上・上杉ゆかりの地「5市町コラボイベント・秋の陣」
□会期:9月13日(日)〜27日(日)

◎9/13(日)
  ●畑谷城交流祭(山辺町) 
     時間:10:30〜20:00
     会場:畑谷城跡付近
     親子ウォークラリー、交流アトラクション、畑谷城史跡巡りなど
  ●大河ドラマ「天地人」シンポジウム
     時間:13:30〜16:30
     会場:山形テルサ・ホール
     入場無料・事前申込(先着500名)
     小和田哲男氏基調講演、パネルディスカッションなど

◎9/18(金)〜27(日)
  ●越後・会津・置賜「天地人うまいもの市」
     会場:伝国の杜広場

◎9/19(土)
  ●長谷堂「天地人」祭り(山形市)
     オープニングイベント、芋煮振る舞い、天地人パネル展示など
  ●かみのやま温泉全国かかし祭(上山市)〜27(日)まで
     上山市市民公園にてたくさんのかかしが登場
  ●上山秋まつり(上山市)
     市内巡行
  ●第33回白鷹鮎まつり(白鷹町)
     10:00〜17:00 道の駅白鷹ヤナ公園

◎9/20(日)
  ●長谷堂「天地人」祭り(山形市)
     木目込み人形(最上義光兜)講座(事前申込)10:00〜14:00
     芋煮振る舞い、天地人パネル展示など
  ●かみのやま温泉全国かかし祭(上山市)〜27(日)まで
     上山市市民公園にてたくさんのかかしが登場
  ●上山秋まつり(上山市)
     市内巡行
  ●御輿渡御行列・ふるさと秋祭り「踊りの山車」(上山市)
  ●第33回白鷹鮎まつり(白鷹町)
     10:00〜17:00 道の駅白鷹ヤナ公園
  ●しらたか工芸体験まつり(白鷹町)
     深山地区伝統工芸の村
  ●白鷹町食の文化街道 うんまえもの茶屋

◎9/21(月)
  ●長谷堂「天地人」祭り(山形市)
     天地人ゆかりの地ハイキング(事前申込)9:00〜14:00
     芋煮振る舞い、天地人パネル展示など
  ●かみのやま温泉全国かかし祭(上山市)〜27(日)まで
     上山市市民公園にてたくさんのかかしが登場
  ●上山秋まつり(上山市)
     市内巡行
  ●第33回白鷹鮎まつり(白鷹町)
     10:00〜17:00 道の駅白鷹ヤナ公園
  ●しらたか工芸体験まつり(白鷹町)
     深山地区伝統工芸の村
  ●白鷹町食の文化街道 うんまえもの茶屋

◎9/22(火)
  ●長谷堂「天地人」祭り(山形市)
     木目込み人形(最上義光兜)講座(事前申込)10:00〜14:00
     天地人パネル展示など
  ●かみのやま温泉全国かかし祭(上山市)〜27(日)まで
     上山市市民公園にてたくさんのかかしが登場
  ●第33回白鷹鮎まつり(白鷹町)
     10:00〜17:00 道の駅白鷹ヤナ公園
  ●白鷹町食の文化街道 うんまえもの茶屋

◎9/23(水)
  ●かみのやま温泉全国かかし祭(上山市)〜27(日)まで
     上山市市民公園にてたくさんのかかしが登場
  ●第33回白鷹鮎まつり(白鷹町)
     10:00〜17:00 道の駅白鷹ヤナ公園

◎9/25(金)
  ●「天地人」公演宝船ツアー2009(米沢市)
      18:30〜 伝国の杜置賜文化ホール
  
◎9/26(土)
  ●兼続どん丼まつり(米沢市)
      11:30〜 伝国の杜広場
  ●よねざわ食の陣〜牛牛まつり〜
      11:30〜 松川河川敷
  ●神田紫エコ講談「もったいない善兵衛」
      14:00〜 伝国の杜置賜文化ホール
  ●よねざわ上杉戦国絵巻「夜の陣」
      川中島合戦を夜バージョンで再現
      18:00〜 松川河川敷

◎9/27(日)
  ●兼続どん丼まつり(米沢市)
      11:30〜 伝国の杜広場
  ●無人販売「棒杭市2009」
      10:00〜 伝国の杜広場
  ●大河ドラマ「天地人」記念 全国まちづくりシンポジウム
      13:00〜 伝国の杜置賜文化ホール

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2009/09/01 23:30:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
長谷堂合戦図屏風について ― 軍記と屏風 ― 

 近世に入ると合戦図は、時間の経過を追って場面が展開してゆく絵巻から、戦場の地形や展開する部隊を描くのに適した大画面、すなわち、屏風へと形式が変わってゆく。中には関ヶ原合戦図屏風(大阪歴史博物館)や、大阪夏の陣図屏風(大阪城天守閣)のように合戦後さほど間をおかずに描かれた図もあるが、多くは時がたってから回顧的な視点によって描かれたものばかりである。回顧的といってもそこには明確な制作の目的があった。目的は二つある。一つは家祖の軍功を図化して世間に明らかにすることである。軍功の誇示は合戦の美化につながる。もう一つは、敵味方が入り乱れて戦うために実情がわかりにくい合戦の状況を可能な限り調べて記録しようとする姿勢である。それが文章で表現されれば「軍記」となり、絵画化されれば「合戦図」となる。
 文章はより事実に近く、絵画はより遠いと思われがちだが、どちらにしても脚色は避けられない。その点で両者は同等、同格であり、事実よりも意図を読み取るように心がけたい。長谷堂合戦図は基本的に最上軍の戦勝場面のみが描かれ、落城した畑谷城は描かれておらず、援軍として参陣した伊達勢はまったく無視されている。登場する武士の数は少なく、制作依頼者は軍勢の配置には関心がなかったことがわかる。同様に地形も無視されている。紀州本や米沢本「川中島合戦図」のように軍師の指導によって制作された合戦図とは性格が異なる。
 本図は秋田の戸部一憨斎正直が元禄十一年(1698)正月に著わした『奥羽永慶軍記』に基づくとされるが、画中に記された人名を子細に検討すると同記の内容とはかなり違っている。中には軍書や記録に名前を見いだすことができない者も多く含まれており、オリジナル性が強い。かつては絵解き用の台本があったのかもしれない。また、人名が直か書きであることを考慮するならば、書き込まれた時期は制作当初と考えてよいだろう。
 向かって右隻の中心場面は前哨戦の一つで、『奥羽永慶軍記』では「鮭登茂綱会津勢を襲う」とされる段である。同記には鮭延方の軍勢として多くの武士が登場するが、画中の人名で共通するのは「鳥海勘兵衛尉・鮭延典膳頭健綱・沓沢金兵衛・新田十助・鮭延左衛門尉十五歳・鈴木藤蔵十七歳」などごく一部に限られ、しかも、同記には登場せず、かつ、出典を明らかにできない「片野對島守・田中兵部・馬淵伊織・柴田備中守・河田三右衛門尉」などの名がつけ加えられている。このうち「鮭延左衛門尉・河田三衛門尉」の二人の名は別筆である。一方、上杉勢では大関常陸介や小幡播磨守のほかに、「石坂・樋口」の名が記されている。上杉系の『越境記』を母体にした『最上合戦記』などには「石坂勘右衛門討ち死に」とある。また、「樋口」は言うまでもなく直江兼続の生家の苗字である。
 こうした戦闘場面とは別に右上隅の建物群の前に「成沢道忠」の名のみを記した部隊が描かれている。この挿話は『奥羽軍談』(佐久間昇氏の解説によれば宝暦初年に上林職広が増補)にしか見えない。同書に畑谷落城の知らせを聞いた最上義光が三之丸の飯塚口に成沢道忠らを警固に出した、とあるのに一致する。とすると、背後の建物群は三之丸の武家屋敷ということになる。だが、小山に囲まれている様子からは平城の山形城とは考えにくく、山城の長谷堂城とするのがふさわしい。予定を変更して成沢道忠を登場させたための矛盾だろうか。肝心の城主「志村伊豆守」の一隊はというと建物の下方、画面の端にあって、城との関連性が希薄である。左上隅の上杉勢本隊には「直江山城守兼続・色部修理亮・春日左衛門尉・高梨」の名があるが、『奥羽永慶軍記』に登場しない「色部修理亮」は保科家臣の向井新兵衛吉重が寛文二年に脱稿し、廷宝元年に浄書した『会津四家合考』などに見え、「高梨」については、延宝八年の自序をもつ『近代軍記』(黒川真道編『上杉三代軍記集成』所収)には第五陣に「高梨兵部」とある。
 向かって左隻は、上段に合戦全体の中心となる最上義光勢と直江兼続勢の主力部隊による戦闘が描かれている。『奥羽永慶軍記』巻三十二には最上義光をはじめとして多数の一族、郎党や仙台からの加勢が列挙されているが、図と共通するのは嫡子「最上義安(ママ)公」と「筑紫喜叶(ママ)斎」および、「川隈讃岐守(『奥羽永慶軍記』では川熊安芸守)・山邊右衛門大夫光茂(同じく山部右衛門尉)」だけである。なお、右方に見える「揚松権太夫」は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の延宝〜正徳年間に「上松権太夫」の名を見いだすことができるうえに、後ろを振り返る顔の向きからみて、敵陣に取り残された上杉方であろう。
 下段の左半は上段に続く光景で、関ヶ原の合戦で西軍が敗れたとの情報を得た上杉勢が軍を返すのを最上勢が追撃する揚面である。荷駄は別として上杉勢の殿軍が戦う姿勢を見せている点に注目したい。上杉方には「綱嶋勝左衛門・斎藤千右衛門・小倉将監・南條八郎」などの名が記されているが、いずれも『奥羽永慶軍記』には出てこない。『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』によれば、綱嶋勝三郎という者が慶長十九年の大坂出陣に加わっていることや、小倉将監宗信が直江兼続より少扶持を賜り、南条八右衛門が慶長十三年に米沢に帰参したことがわかるので、家中の何らかの情報に基づいているのだろう。
 問題は右半の、前哨戦の一つである上山合戦の場面である。ここにも出典不明の人名が認められるが、諸書では中心となるのは坂弥兵衛が穂村造酒丞を、金原七蔵が上泉主水正を討ち取る場面である。しかし、図では「金原七蔵」が「押野造酒丞」を、「坂上紀伊守」が「本多造酒丞」を討つように描かれている。この組み合わせは他に例をみない。通説に反して上泉主水正を「押野造酒丞」に変えるにはそうとうな裏づけが必要と思われるが、討ち手や死に場所に諸説あることに配慮したのかもしれない。より強調したいことは、上山合戦に坂上紀伊守を登場させるのは上杉系の『近代軍記』のみ、という点である。とりわけ『奥羽永慶軍記』では「本多造酒介」を討った者は「遠藤小一郎」となっており、図が同記に基づかないことは明らかである。
 こうした人名の不一致は本図と『奥羽永慶軍記』との関連性を疑わせる。もともと『奥羽永慶軍記』は写本が少なく、広く流布していなかったので参照した可能性は乏しい。そうであるならば、本図の描き手を著者である戸部一憨(閑)斎とする伝称もあらためて見直す必要がある。伝称の根拠は、本図を入れる箱の側面に「戸部一閑之画屏風一雙入 明治貮拾五年辰八月吉日記 湯沢町斎藤氏」、蓋裏に「戸部一閑之画最上合戦之図一雙入」とある墨書による。また、これとは別筆で蓋の前面に「斎藤五左衛門」とある。斎藤家の当主は代々五左衛門と称していたが、遅くとも安政二年までに「左太夫」と名乗りを変えている。もし、図と箱が一体のものであるならば、屏風は江戸時代末には現在の所蔵者のもとにあったことになるが、筆者の伝称がそこまでさかのぼるかは不明である。
 戸部一憨斎が絵を描いたことは戸部家に「戸部弌憨」の印章をそなえた水墨画の「船子夾山図」が伝わり、地元の湯沢市や横手市に涅槃図が三幅現存することから事実である。ただし、いずれも仏画、禅機図といった宗教画に画題が限定されていることに注意したい。なお、やはり戸部家に伝わり、一憨斎筆とされる源平合戦を描いた屏風は彼より早い時期の職業絵師の手になるもので、同人の作品ではない。「長谷堂合戦図」の筆致には町絵師らしい手慣れたところがあり、一憨斎の余技になるとは考えられない。その単純化された樹木や山野の表現には板本挿図、人物には初期の役者絵からの影響が認められる。一般に町絵師の作品は制作年代の判定が難しいが、上限は宝永四年(1707)十二月に亡くなった一憨斎の晩年に重なる可能性がある。だが、彼が亡くなる直前の同年四月に描いた湯沢市・善龍寺の涅槃図の老筆ぶりと比べると「長谷堂合戦図」の筆致は若々しく、同じ人物の手になる可能性はない。一方、下限は十八世紀中頃といったところだろう。
 実は、本図が長谷堂合戦を描いた図であることが判明したのは、湯沢市の文化財としてその存在が世に知られるようになってからで、比較的近年のことである。それまでは湯沢の小野寺氏と最上勢が戦った「有屋峠合戦図」と称されていた。いったん主題が忘れ去られていたという事実や人名に別筆が若干加わっている点は、制作主のもとを離れてからある程度の歳月と幾人かの手を経たことを物語っている。戸部一憨斎筆という伝称は本図が湯沢にもたらされた後から付け加えられたのだろう。
 本図は山形で制作されたに違いない。鮭延氏の活躍や喜吽斎の討ち死など、図の骨格は最上系の軍記に取材している。ただし、随所に独自の調査のあとが認められ、流布する軍書に基づかない、まったく独立した作品と言える。とくに上杉系の資料を積極的に取り入れている点は重要で、制作主はそれらを入手できる立場にあったらしい。どの軍記にもない、坂上紀伊守が敵将を組み伏せる場面が下段の中央に描かれている点に注目するならば、合戦後に長谷堂城主となった坂(坂上)紀伊守光秀ゆかりの者を制作主として考えるのも一案だろう。興味深いことに、坂氏一族には最上家改易後に上杉藩士となった者がいる。
(本文を草するにあたっては斉藤茂美氏、戸部尚武氏、善龍寺御住職の多大なご協力を得ました。皆様に感謝します。)

■執筆:宮島新一(山形大学教授/日本絵画史)「歴史館だより�16」より


【長谷堂合戦図屏風 斉藤茂美氏蔵】


【右隻】


【左隻】

※長谷堂合戦図屏風の詳細についてはこちらをご覧ください>>こちら
2009/09/01 10:30:Copyright (C) 最上義光歴史館
関ヶ原合戦と最上義光 ― 義光宛家康書状を読み解く ―

【はじめに】
 今年(西暦二〇〇〇年)は、関ヶ原の戦いからちょうど四〇〇年ということで、関ヶ原の戦いに対する関心の度が高くなっている感じがする。そこで、″東北版・関ヶ原″などといわれる長谷堂城の戦いにからめ、そのときの最上義光の動向を追いかけてみたい。
 周知のごとく、家康は、関ヶ原の戦いを前にして、諸大名に実にたくさんの書状を出しており、慶長五年(一六〇〇)に入って、戦い直前九月十四日までの分だけでも一六九通を数えている。書状の内容は、恩賞を約したものもあれば、上方での戦況を報じたものもあり、作戦上の指示を与えたもの、さらには東軍へ誘ったものなどまちまちであるが、これら政治工作、すなわち、根まわしが進められたことを意味する。
 そこで、ここでは、家康から最上義光に宛てられた書状を通して、義光が、家康の考える大きな関ヶ原戦略の中で、どう位置づけられるのかを見ていくことにしたい。なお、書状については読み下しにして引用した。原文は、中村孝也編『徳川家康文書の研究』中巻にあたっていただきたい。

【第一報 七月七日付】

 急度申し入れ候。仍って会津表出陣の儀、来る廿一日に相定まり候。その表の衆、同心有り、御参陣有るべく候。然者、最寄(前カ)申し候如く、北国表にて北国の人衆を相持ち、会津へ打ち入らるべく候。猶、津金修理亮・中川市右衛門申し達すべく候。恐々謹言
(慶長五年)七月七日   御諱御判(徳川家康)
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「古文書集」十)

 家康は、六月十八日、伏見城を発し、会津討伐に向かった。「五大老」の一員であるにもかかわらず、上杉景勝が会津に引っこんだまま、領内の軍事強化を進めていることを、「豊臣家に対する謀反」と判断したためである。もちろん、家康の腹の中には、畿内を留守にすることによって、石田三成の挙兵を誘うという思惑もあった。
 七月二日に江戸城に入った家康が、七日付で最上義光に出した書状がこれである。ちなみに、会津攻めにあたって家康が定めた部署はつぎの通りである。
 
 白河口   徳川家康・秀忠および東海・畿内の大名
 仙道口   佐竹義宣
 伊達・信夫口 伊達政宗
 米沢口(最上ロ)最上義光と仙北(最上川以北)の諸大名 
 津川ロ(越後ロ)前田利長・堀秀治・同直寄・村上義明・溝口秀勝

 七日付書状に、「猶」としてみえる津金修理亮と中川市右衛門の二人は、家康の家臣で、このとき、使者となって山形に赴いている。もっとも、この二人は、単なる使者ではなく、家康から最上家に送りこまれた軍監のような立場だったのではないかと思われる。というのは、同じ七月七日付で家康がこの二人に宛てた覚書が「書上古文書」にあり、そこに、会津へ攻め入るときには義光を先手とすること、戦いになったときには兵糧を義光から借りることなどが指示されているからである。
 そして、家康は、予定通り、七月二十一日に江戸城を出陣し、会津攻めに向かった。ところが、二十二日、二十三日と軍を進める内に、三成挙兵が次第にたしかな情報として入ってくるようになり、二十三日、下総の古河に着いたところで、進軍中止を指令した。それを物語るのがつぎの義光宛第二報である。

【第二報 七月二十三日付】
                   
 急度申し入れ候、治部少輔(石田三成)・刑部少輔(大谷吉継)才覚を以って、方々に触状を廻らすに付て、雑説申し候条、御働の儀、先途御無用せしめ候。此方よりせ重ねて様子申し入るべく候。大坂の儀は、仕置等手堅く申し付け、此方は一所に付、三奉行の書状披見の為これを進せ候。恐々謹言
(慶長五年)七月廿三日   家康御判
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「譜牒餘録後編」四)

 この文書は、家康が会津討伐中止を指令した一番早いものである。このあと、二十四日に家康は下野小山(おやま)まで進み、二十五日、有名な「小山評定」を開き、そこで、反転して畿内にもどり、石田三成を討つ作戦を決めている。そして、家康自身、二十六日に小山の陣を引き払い、八月五日に江戸城にもどるわけであるが、その間、諸大名に精力的に書状を出している。つぎの第三報もその一つである。

【第三報 七月二十九日付】

 急度申し入れ候。仍って上方奉行衆一同の者、鉾楯の由申し来るに付て、会津の閣、先ず上落せしめ候。併、中納言(秀忠)差し置き候条、彼表働の儀を相談尤に候。猶、後音の時を期すべく候。恐々謹言
(慶長五年)七月廿九日   御諱御判(徳川家康)
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「古文書集」十)

 ここで注目されるのは、会津のことはひとまずさしおいて、まず上方にもどり、三成を討つことにしたことを義光に伝えていることと、「秀忠を押さえとして残したので、今後のことは相談するように」といっている点である。
 つまり、七月二十九日の時点では、家康は秀忠を残すつもりでいたことがわかる。事実、秀忠軍が下野宇都宮を陣払いしたのは八月二十四日であった。そのあと、代わったのが結城秀康ということになる。
 江戸城にもどった家康は、何と二十六日間もの間、動こうとしなかった。その間、東軍先鋒として福島正則ら豊臣恩顧の大名たちが東海道を西に攻めのぼり、八月二十三日には岐阜城を攻略している。家康から義光への第四報はそのことにかかわるものである。

【第四報 八月二十七日付】

 急度申し入れ候。去る廿三日午の刻、岐阜の城乗崩し、中納言(織田秀信)兄弟一人も洩らさず撫切申す由注進候条、書状持たせ進せ候。政宗より参るべく候。我等父子も出陣申し候間、万事そこもと御行仰せ付けられ給うべく候。委細(今井)宗薫申すべく候間、具にする能わず候。恐々謹言  
(慶長五年)八月廿七日   家康御判
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「譜牒餘録後編」四)

 家康はこのように、東軍先鋒の戦いの模様を義光に報じており、翌日にも、第五報(八月二十八日付)で三成らが美濃に出てきたことを伝えている。

【おわりに】
 九月十五日の関ヶ原の戦いを前にした義光宛家康の最後の書状は九月七日付で、これが第六報ということになる。
 そこでは、三成らを大垣城に「追籠」たことを報じ、「其口、政宗と相談し、油断無き行等、分別尤に候」といっている。
 おそらく、この第六報が義光の手もとに届く前のことと思われるが、上杉景勝の老臣直江兼続が最上領へ侵入してきた。九月十三日には、山形城の支城である畑谷城が攻められ、城将の江口五兵衛父子が殺され、水原親恵率いる上杉軍はその勢いで長谷堂城を包囲しているのである。
 上杉軍の猛攻を支えながら、長谷堂城が破られた場合、本拠山形城も危なくなると判断した義光は、長子義康を政宗の本陣北目城に人質として送り、援軍の要請をしている。
 結局、政宗は自分の名代として伊達政景を援軍に送り、最上・伊達連合軍有利な状況となった。その長谷堂城の攻防戦の最中、具体的には九月三十日の朝といわれているが、関ヶ原での東軍勝利の報が最上陣営に届けられ、ついに、十月一日、長谷堂城攻囲の上杉軍が撤退したのである。

■執筆:小和田哲男/静岡大学教育学部教授・文学博士(2000年執筆当時)・静岡大学名誉教授 (2009年) 「歴史館だより�7」より
2009/09/01 09:53:Copyright (C) 最上義光歴史館
【鮭延越前守秀綱/さけのべえちぜんのかみひでつな】 〜重文の仏像にかかわり?〜

 不思議な仏像が一体、真室川町内町の薬師堂にある。
 奈良時代か白鳳期の作かと思われるブロンズの薬師如来像で、国指定重要文化財となり、今は特別に建てられたお堂のなかに安置されている。
 いったいなぜ、こんなにすぐれた仏像が山形県内にあるのか。すくなからず謎めいている。
 16世紀の終わりごろ……。
 この付近を領していたのは、鮭延(真室川)城主、佐々木典膳という武将であった。彼は、源平合戦のむかし宇治川の先陣で名を挙げた近江源氏の名門、佐々木高綱の子孫であるという誇りをもって、義光に従おうとしなかった。
 義光は大軍をさし向けて鮭延城を攻撃し落城させたが、武勇才知にすぐれた典膳を惜しんで、庄内に逃げ去るのを見逃してやったという。典膳はこの事実を後で知り、その温情を忘れず、後年最上義光に帰参したと軍記物語類にはある。
 義光はかれに1万千5百石という高禄を与え、鮭延越前守秀綱と名のらせた。その後の秀綱は、義光の側近として知謀才覚を発揮、なかでも慶長5年の上杉軍山形侵攻に際しては、長谷堂城への応援軍としてはなばなしい活躍ぶりを見せる。
 泰平の世になってからは、鮭延城(真室川町)を居城として、町づくりに尽力、現山形県最上郡北部の発展に大きな成果をあげた。
 嫡子、左衛門尉も父にまさる文武すぐれた人物だった。15歳で長谷堂合戦に出陣、その戦いぶりは「諸人ノ耳目ヲ驚カス、異国ハ知ラズ、本朝近代ノ弓矢ノ少年ニシテ是程ノ武功ハイマダ聞カザレバ…」と『奥羽永慶軍記』は絶賛している。だが、十八歳で亡くなった。以後、秀綱は妻をめとらなかったのであろう。血筋は絶えたという。
 義光没後の最上家は、家親の早世に端を発し、少年源五郎家信が家督を相続するに至って、重臣たちの離反がはじまる。
 「家信は器にあらず、山野辺光茂を主君と仰ぐべし」と主張した旗頭が秀綱であった。これに対して「若年といえども、源五郎家信こそ正統」と、一族の松根備前守光広らは主張した。最上の家臣団は、二つに分裂してしまったのである。
 抗争は幕府の審問に付される。「幼君を補佐して最上家を全うせよ」という幕府閣僚の助言を、鮭延秀綱をはじめとして、山野辺・楯岡らは受け入れなかった。その結果、元和8年8月、最上家は57万石を没収されて、近江・三河1万石へ改易となり、重臣たちはそれぞれ各地の大名に預けられた。
 秀綱はこの時、審問の中心となった土井大炊頭利勝(当時佐倉、のち古河城主)に預けられた。実は、駿河大納言忠長から仕官の誘いがあったとも、彦根井伊家からの招きがあったともいわれ、秀綱の人物力量は広く諸侯の知るところとなっていたのである。
 土井家では彼を優遇して、古河に移転した後も大堤庄5千石を与えた。秀綱はそのうち3千石を出羽から連れていった譜代の家来18人に分け与えた。これが話題となって、越前は知行すべてを家来に与え、自らは清貧に甘んじ、家来たちの施しを受けて晩年を送ったという話にもなった。
 物欲に恬淡たる武人の生き様というべきか。戦国時代の荒波をくぐって生き抜き、泰平の世になってからも固い信念をもって、人生を全うした出羽の英傑の一人といえるだろう。
 正保3年(1646)6月21日没。84歳。菩提寺は古河市鮭延寺。秀綱の屋敷跡に建立され、その名もゆかりの故地「鮭延」にちなんだものだ。この寺は、反骨の儒学者熊沢蕃山の墓があることでも知られている。
 真室川町では、秀綱を町発展の恩人として顕彰している。また、同町正源寺は、秀綱父子を丁重に弔い、境内奥の二人の墓はいつも清浄に保たれ、香華の絶えることがない。
 さて、例の仏像、真室川にあるからには、名門の武人、鮭延秀綱が持ってきたものにちがいない……地元の人々がそう考えるのも、かれに対する敬愛の念の表れだろう。
■■片桐繁雄著
2009/09/01 09:10:Copyright (C) 最上義光歴史館
【坂紀伊守光秀/さかきいのかみあきひで】 〜最上家臣団のエリート官僚〜 

 戦国武将は、おおむね戦における手柄や活躍、武勇を誇示する逸話などによって名を知られ、評価もされがちだ。たしかに、武勇こそが戦国の世を生き抜く武士の本分ではある。
 しかしながら、大名をささえる家臣団として見たとき、戦上手ばかりでは決してバランスのとれた組織とはいえない。
 坂紀伊守光秀(あきひで)。
 慶長6年、志村伊豆守光安が酒田城主として栄転した後の長谷堂城主。1万3千石。最上家では十指に入る重臣でありながら、当時の記録にも後代の物語にも、華やかな戦歴はなく、逸話も残されていない。
 長谷堂合戦に際しては、後詰め部隊(援軍)の中に彼の名が見えている。当時は成沢城を預かっていたとする記録もあるが、不確かだ。彼の足跡をみると、武人というよりもむしろ政治外交の面にすぐれていたようだ。
 関ケ原戦後、最上氏と秋田氏が戦陣参加の時期をめぐって議論になったことがあった。
このとき、主君義光が徳川家康といっしょに忍(おし)へ鷹狩りに出ていたので、最上側の代表者となって秋田実季と渡り合ったのが、他ならぬ光秀であった。
 この論争のことは、秋田家の家臣が聞いた話を思い出して書き留めたもので、最上家没落後のことであるから、どうしても最上家には不利な書きぶりとなっている。そのため、坂光秀が実季から一々やり込められてしまうという内容となっている。にもかかわらず、光秀の弁舌はなかなか鋭いところを突いているように思われる。
 慶長8年3月15日、光秀は主君義光の使者となって、京都の公家山科言緒を訪問した。
 山科家は、皇室・廷臣らの公的場における衣冠装束を世話する家柄である。訪問の趣旨は、将軍家康の御前において言緒が「御取合」をしたことに対する義光からのお祝いの手紙と銀子三枚の贈り物を届けることであった。
 「使坂紀伊守也、則対顔了、食相伴了」(使者は坂紀伊守であった。そこで対面をし、食事をともにした)。
 出羽で育ったと思われる坂光秀が、礼儀作法にうるさい京都貴族の邸に参上して、きちんと用を済ませることができたのは、それなりの教養をそなえた人物だったからであろう。
 二日後の3月17日、山科言緒はこう日記に書いた。
 「最上出羽守へ一昨日のお土産に礼状を出した。坂紀伊守へも書状を遣した」
 このころ、義光は京都あるいは伏見の邸に滞在しており、光秀はその側近としてさまざまな公務にたずさわっていたことが、この断片的な記事からうかがわれるのである。
 関が原の戦いの後に、新たな最上領となった庄内地方の検地に尽力し、慶長十六年(1611)義光が寄進した慈恩寺領2千880石の検地も、光秀が責任者となって実施した。
 義光が亡くなった翌年、慶長20年(1615)正月13日、徳川家康が岡崎で鷹狩を楽しんでいたところへ、主君家親の名代として光秀が陣中見舞い行った。
 最上家からの献上品は、白鳥二、黒馬一疋、それに「いったい、どういう代物?」と、よく話題になる「最上蓼漬」一桶。光秀自身も、「子篭鮭十尺」を土産として持っていった。74歳の家康は喜んで光秀に面会し、最上家親の働きについても合わせて礼を述べたという。
 長谷堂には、自らが開基となり、その菩提寺とした曹洞宗清源寺がある。この寺に彼は田畑とともに百姓十軒を寄進して護持を図った。寺に秘蔵される「すすき図屏風」は、桃山風のりっぱなもの(山形市指定文化財)。彼自身を描いた画像は、桃山武将の同時代に描かれた肖像画としては県内唯一の貴重なもの(県指定文化財)。その表情には、温厚で知的な趣がただよう。
 彼の奥方が使用したという朱漆塗の膳椀もある。京都に上った時にでも、妻のために買い求めたのであろうか。
 元和2年(1616)4月26日逝去。年令は不明。はしなくも、徳川家康の没年に当たる。戒名「清源寺殿祀山英典公大居士」。
 ちなみに翌年3月には主君家親が亡くなり、それ以後、最上家は屋台骨がゆらぎはじめるが、光秀はそれを見ることなく亡くなったわけだ。
 光秀の妻は、志村伊豆守光安の娘だといわれ、夫亡き後は、山形城内三の丸八日町口近くに広大な屋敷をもらっている。彼女が亡くなったのは正保元年(1644)10月19日。戒名「宝正院殿実相良信大姉」。28年の寡婦としての暮らしがあったことになる。
 最上家改易の後、跡を継いだ坂光重は、上杉家に親しい人がいて、その配慮で白鷹町荒砥に落ち着き、四十間四方の屋敷を拝領してここに居住した。
 坂氏の系譜は、白鷹町と米沢市に連綿として続いている。
■■片桐繁雄著 
2009/09/01 09:05:Copyright (C) 最上義光歴史館
【志村伊豆守光安/しむらいずのかみあきやす】 〜酒田繁栄の土台をきずいた〜

 形に影の添うごとく、最上義光の側にあって出羽の統一と繁栄に尽力した家臣として、志村伊豆守光安は特筆すべき人物であろう。『奥羽永慶軍記』では、義光の柱石として、氏家尾張守守棟とともに志村九郎兵衛をあげている。後の伊豆守光安である。

 「ソノ心剛ニシテ武威ノ名顕ワレ、然モ口才人ヲクジキ、イカナル強敵トイヘドモ彼ニ逢ヒテハスナハチ降リヌ。彼等ハ皆君臣ノ礼アツクシテ、国治マリ、栄耀家門ニ及ボシ給フ」

と、まさに絶賛の対象となった人物である。
 出自は明らかでないが、成沢・谷柏・柏倉など山形周辺の郷村名を名字とする最上家臣が少なからず存在するところから、彼も漆山地区志村(山形市北部)の出であろうかと推察される。年齢も不祥。活躍の時期と没年から推して、主君義光に近い年齢だったかと思われる。
 天正5年(1577)ごろ、谷地の領主白鳥十郎長久が、義光を殺して出羽を自分の領地にしようと、中央の権力者であった織田信長のところに使者を派遣し、
「わが家こそ斯波兼頼以来、代々出羽国の守護職を務めた家柄」と、鷹と馬を献上する。
 信長は遠い出羽のことなど知らなかったから、その言い分を受け入れたという。
 伝え聞いた最上側は、放っておけぬとばかり、こちらも信長へ接触する。この時に使者となったのが、志村九郎兵衛光安だった。光安は、献上品として青鷹一居、駿馬一頭、名刀工「月山」の鍛えた鑓二十本(十本とも)ともども、最上家の系図をたずさえて上京し、信長に謁する。信長は光安に面会して、白鳥の言い分を偽りと断定、「最上出羽守殿」として返書を与えたという。
 この話は江戸時代の文献にあるだけで信憑性はとぼしいが、光安が最上家にとっていかに重要な存在だったかを物語るとはいえるだろう。
 その後、白鳥を討伐することになるが、ここでも氏家と志村の策謀と活躍が語られる。
 天正12年(1584)、白鳥十郎は義光によって誅殺される。続いて寒河江氏、天童の里見氏も、義光の制圧するところになるが、どの戦いでも志村伊豆が大きな働きをした。ついで、最上郡方面に兵を進め、鮭延越前守秀綱と戦うが、ここでも「秀綱を殺すな」という義光の意を体して、光安はその城外脱出を見逃している。
 光安が最も注目される働きをしたのは、慶長5年9月のいわゆる長谷堂合戦であろう。寄せくる上杉の大軍を向こうにまわし、長谷堂城に篭もって持久戦に持ち込み、山形の本城と町を戦火から守りぬいたのである。この戦いは、畑谷落城9月13日の翌日から始まっているが、光安は援軍として派遣された鮭延秀綱らとともに、しばしば上杉軍を翻弄した。
 9月末に、関ケ原の戦いで東軍・徳川家康側圧勝となった結末が報らされると、直江兼続のひきいる上杉勢は撤退する。この追撃戦の激烈さは、両軍あわせて2千を超える戦死者を出したことでも想像できるだろう。ちなみに、関ケ原の戦死者は、6、7千だったとされており、長谷堂合戦は、全国的に見ても、実は関ケ原につぐ大合戦だったのである。
 山形最上方の城塞のほとんどが落城あるいは空け逃げだったのに、たいした損害も出さずに長谷堂城を守り通した功績は、抜群のものだった。
 直江退去の10月1日、ここで慶長出羽合戦は事実上決着している。
 このとき、撤退した直江兼続は、大きな失態を演じた。庄内から最上に攻め入って、谷地城を占拠してここに篭もり、総大将兼続からの山形城総攻撃の命令を今か今かと待ってていた下治右衛門吉忠のところに、撤退の連絡をしなかったのである。
 吉忠とその率いる兵たちは、兼続から置きざりにされて孤立してしまったのだ。
 そこを最上の大軍が包囲する。援軍を期待できない情況でも上杉方は篭城して交戦しようとするが、義光は「次右衛門は武勇の誉れも名高き者、特に庄内のことに詳しい人物であるから、なんとかして降参させて味方にしたい」と、光安に交渉を命じる。
 夜に入って光安は、独り谷地城に入る。
 「関ケ原では西軍が大敗し、上杉の大将直江殿は会津に帰られた。貴殿一人が義を守り、数多い兵士とともに戦い死にたりとて、何の益かあるべき。義光公も貴殿を惜しみなされて、拙者を遣わされたのである。降参なされば必ず礼をもって厚く遇する」と、理を尽くして降伏をすすめた。下一族はその熱誠にうたれ、また直江が何の連絡もなく撤退したことへの反感もあって、ついに軍門にくだった。「志村という武将は、敵に対して絶対偽りを語らぬ」という相手方の高い評価も作用したらしい。
 「口才人ヲクジキ」という『永慶軍記』の記述どおりであった。
 下一族は、その後庄内尾浦城(鶴岡市大山)を落とし、翌年4月には酒田城攻略にも大きな働きを見せる。
 慶長6年(1601)、戦功を賞されて、志村光安は庄内の最上川北3万石酒田城主に大抜擢される。この石高は、最上家臣としては最上一族の本荘満茂の4万5千石に次いで第2位である。広大な平野があり、最上川口には古くからの港がある。その重要な所を、志村光安は任されたのである。下吉忠は、田川郡1万2千石大山城主となり、名乗りも下対馬守康久と称することとなる。降将への処遇として類少ない手厚い処遇といえるだろう。
 酒田の志村、大山の下。この二人が、庄内地域に数々の事績を残すこととなる。
 光安は、戦火で荒廃した酒田の町づくりに努める。町の指導者として重きをなした三十六人衆と協議し、経済活動を重視した都市計画だったとされる。強い西風、それによる災害への対策、商人職人の居住地、寺町の配置を工夫し、さらに港の機能を充実して、「羽州第一の港町」にふさわしいものとした。
 城も当然復旧した。土塁のなごりは、東高校の敷地に残っている。城内に祀られていた山王宮を移建して、酒田町の鎮守とした。今の日枝神社である。長谷堂城主時代に菩提寺だった曹洞宗清源寺から峰岩呑鷲和尚を招き、新たに青原寺を建立した。
 酒田繁栄の土台は、志村光安によって固められたといってよいだろう。
 慶長8年、義光は新たな領地となった庄内の二つの重要拠点、酒田東禅寺を「亀ケ崎」、大宝寺を「鶴ケ岡」と目出度い名に改めた。庄内の末永い発展を願ったのである。
 最上家では、慶長17年までに庄内の検地を完了したが、並行して古来の神社仏閣の復興にも力を入れた。これにも、志村伊豆守が大きくかかわっている。
 慶長10年、鶴岡市の金峯神社本社、13年、同釈迦堂、羽黒山五重塔などの大規模な建造事業を差配したのが、光安だった。下対馬守もいっしょに協力したことが、残る棟札から知られる。
 光安の人柄がよく表れた手紙がある。年次未詳、10月3日付。家普請をしている家来四人にあてたもので、
 「壁の下地は念入りに、どうせなら台所も造れ。風雨のひどい時分で大変だろうが、しっかりやれ。大工衆にもご苦労と、申しつたえてくれ」という内容である。
 具体的な状況が今ひとつはっきりしないが、工事にたずさわる大工衆へも、思いやりを見せていることは読み取れる。
 慶長14年かと推定される「用度帳」断片に、二月二十日「(銀)拾匁は上方へ点取りに代金として」、二月三十日「四十三匁は、しょふたく(里村昌琢)へ御音信」と記された部分があるそうである(川崎浩良「山形の歴史」345p)。「点取り」とは、批評を受けること、「御音信」とは、ここでは「おみやげ」ぐらいの意味であろうか。最上一統の気風として、光安もまた、連歌をたしなんでいたらしいのである。
 天童市若松観音堂に、武人画家として高名な郷目貞繁筆の「板絵著色神馬図」(重要文化財)がある。永禄6年(1563)寄進のものだが、その余白下部に「志村九郎・・」という落書が見える。天童攻めを終えた天正12年(1584)後のいつの日か、参詣した光安が、なにげなく筆をとってわが名を書き付けたのであろう。
 慶長16年(1611)8月7日没。主君に先立つこと3年である。年令不明。その後を九郎兵衛光惟がついだが、慶長19年6月1日、鶴ケ岡城下において一栗兵部に襲殺された。その係累と思われる人物が安藤対馬守へ預けられ旨の注記が『最上義光分限帳』に見えているが、詳しいことはわからない。
 妻は元和年間には健在だったと見え、『山形城下絵図』三の丸南東部に「志村伊豆守後室」の屋敷があった。僚友であった坂紀伊守光秀の後室も近くに住んでいた。最上家重臣の妻たち、夫に先立たれた二人の女性の間に、どんな交流があっただろうか。
 酒田青原寺の裏庭に立つ古風な二基の五輪等が、志村伊豆守夫妻の墓である。
 彼が領した飽海郡遊佐町、庄内平野の北はずれ、鳥海山の裾野に落伏(おちぶし)の小さな集落がある。集落の東台地には曹洞禅の古刹永泉寺(ようせんじ)がある。伽藍の間を行くと、奥まった木立のなかに、一基の石造九重塔が建っている。風化した塔の四面には、「奥大日本出羽州□□□君侯前豆州太守為天室良清公大禅定門 士卒等謹就于永泉精舎建立石塔一尊以供養…」の刻まれているというが、実物からはなかなか読み取り難い。
 彼を慕う家臣たちが建立したもので、山形県文化財に指定されている。
■■片桐繁雄著 
2009/09/01 09:00:Copyright (C) 最上義光歴史館
大河ドラマ「天地人」の放送記念イベントとして、全国まちづくりシンポジウム2009「天地人のこころを現代に活かす〜歴史を活かしたまちづくり〜」が開催されます。
大河ドラマ「天地人」の脚本を担当している小松江里子さんと、NHKチーフプロデューサーの内藤愼介さんによる「天地人」対談のほか、「天地人」ゆかりの3市の市長によるパネルディスカッションが開催されます。

開催日:平成21年9月27日(日)

時 間:開場 午後0時30分 開演 午後1時  終了予定 午後3時30分
     第1部 「天地人」対談
        「大河ドラマ『天地人』と地域の活性化」
          特別ゲスト:小松江里子氏(大河ドラマ「天地人」脚本家)
                 内藤愼介氏(大河ドラマ「天地人」制作統括)

     第2部 パネルディスカッション
        「天地人を活かしたまちづくり〜次の一手〜」
          コーディネータ:堀内史子氏(旅館招湯苑・女将)
          パネラー:菅家一郎氏(会津若松市長)
                井口一郎氏(南魚沼市長)
                安部三十郎氏(米沢市長)

会 場:伝国の杜 置賜文化ホール(米沢市丸の内1−2−1)

入場料:無料(入場整理券が必要です)

定 員:500名

主 催:全国まちづくりシンポジウム実行委員会
共 催:大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会、米沢市歴史団体連絡協議会
後 援:米沢市教育委員会


入場整理券の配布方法について
米沢市役所・伝国の杜・置賜総合文化センターにて整理券を配布しております。
 お問合せ:米沢市天地人推進室 電話0238-22-5111 内線2809

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2009/08/31 15:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
平成21年度 宮坂考古館特別展!

直江兼続を支えた、天下御免の傾寄者
前田慶次展開催!

◇花の慶次リトグラフ展同時開催!

◇企画展示品
 道中日記、堂森秋月図、上田士籍(上杉文書)
 (上記3点は、9/19(土)〜10/18(日)まで
  実物を展示致します。
  その他の期間につきましては
  写真パネルの展示となりますのでご了承ください。)
 甲冑、槍、面ほか
(展示内容は変更の場合もあります。)

開催期間 平成21年9月1日(火)〜11月3日(火)
展示会場 宮坂考古館
開 館 午前10時〜午後5時(4月〜9月)
    午前10時〜午後4時(10月〜3月)
休館日 月曜日(祝祭日の場合は翌日)
入館料 大人300円 大高生200円 小中生100円
    (団体割引あり)
住所 〒992−0026
   米沢市東1−2−24
電話0238−23−8530

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2009/08/30 16:09:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
出羽の虎将最上義光と上杉の智将直江兼続との激戦が行なわれた「慶長出羽合戦」。その戦いの地・畑谷城址では城主・江口五兵衛光清が自刃して果てました。大河ドラマ「天地人」を記念して「畑谷城交流祭」が開催されます。

□日時:平成21年9月13日(日)
     10:30〜20:00
□会場:畑谷城址入口(ごへえ宿)周辺

 ●江口五兵衛光清公の法要 10:30〜
 ●親子ウォークラリー   10:30〜12:00
   ※参加申し込みが必要(申込締切は9/11(金)まで)

◎<第一部イベント>畑谷城交流アトラクション
 ●郷土芸能披露   13:30〜
 ●畑谷城史跡めぐり 15:00〜17:00
   ※参加申し込みが必要(申込締切は9/11(金)まで)

◎<第二部イベント>畑谷城攻防戦・戦没者鎮魂イベント
 ●畑谷城ミニコンサート 17:00〜
 ●灯ろう流し      18:30〜
 ●閉会         20:00


■無料シャトルバス運行
  山辺駅 ⇔ 山辺町役場 ⇔ 会場(畑谷ごへえ宿)

▼問合せ・申し込み:山辺町観光協会
          TEL023−667−1106

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2009/08/29 11:30:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
天下分け目の関ヶ原合戦と時を同じくして、慶長出羽合戦と云われた「長谷堂合戦」が行なわれました。出羽の虎将・最上義光と上杉の智将・直江兼続との激戦が繰り広げられた戦いです。
大河ドラマ「天地人」放送を記念して、戦いの場となった長谷堂の地で「天地人祭り」が開催されます。

□期間:平成21年9月19日(土)〜22日(火)
□会場:長谷堂城跡公園・本沢公民館
□駐車場:会場及び会場周辺には駐車場がありませんので、
車で来場される場合は、臨時駐車場(西部工業団地内東北コーデンの裏)をご利用ください。
     臨時駐車場及び山形駅西口から、天地人祭り会場までシャトルバスを運行いたします。


◎長谷堂城跡公園会場
 ●物産販売  9/19(土)〜21(月) 10:00〜16:00
 ●イベント
    ・9/19(土)
       オープニングイベント、芋煮振る舞いなど
    ・9/20(日)
       城山宝探し(長谷堂城跡を散策してお宝をゲット!)
        11:00〜15:00(10:30〜14:30に受付、随時スタート)
       新そばまつり
        11:00〜15:00(笹盆ざる 1枚300円)
    ・9/21(月)
       天地人ゆかりの地ハイキング(事前申し込み)
        9:00〜14:00 (参加費300円)
        対象:約5時間のハイキング及び軽登山可能な方20名(抽選)
        申し込み:8月31日(必着)まで。
はがきに住所、氏名、年齢、電話番号、「ハイキング」と記入し山形市観光物産課へ。
           
◎本沢公民館会場
 ●天地人パネル展示・観光コーナー 9/19(土)〜22(火)10:00〜16:00
 ●イベント
    ・9/20(日)・22(火)
       最上義光公の木目込み兜作り教室(事前申し込み)
        9:00〜14:00 (定員20名)
        費用:4000円(材料込)
        申し込み:8月31日(必着)まで。
はがきに住所、氏名、電話番号、受講希望日、「木目込み」と記入し山形市観光物産課へ。


■無料シャトルバス運行
 9/19(土)・20(日)・21(月)
  車で来場される場合は、臨時駐車場(西部工業団地内東北コーデンの裏)をご利用ください。
  臨時駐車場及び山形駅西口から、天地人祭り会場までシャトルバスを運行いたします。

  ●臨時駐車場(9:30〜15:00まで約20分毎運行)⇔長谷堂城跡駐車場(9:40〜17:00まで約20分毎運行)
  ●山形駅西口(9:30〜15:00まで約1時間毎運行)⇔長谷堂城跡駐車場(10:00〜16:30まで約1時間毎運行)


▼問合せ:山形市観光物産課
     山形市旅篭町2丁目3−25
     TEL 023−641−1212

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2009/08/29 10:30:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
第19回鷹山公シンポジウム
〔主催:鷹山公と先人顕彰会〕
テーマ
 直江兼続の史跡紹介〔米沢・山形最終編〕
 −迫力ある映像と楽しい語り−
解説 米沢市文化財保護審議会委員
   鷹山公と先人顕彰会常任理事
   石栗 正人

期日 平成21年9月20日(日)
   午後1時30分開場
   午後2時開演

場所 伝国の杜 置賜文化ホール
入場無料

第1部「朝日軍道」 
   日本史上最大の山岳道「朝日軍道」
   開拓にまつわる話と、畑谷城並びに
   長谷堂城の戦いについて語ります。

第2部「殖産振興と学問振興」
   殖産興業の振興、学問文学のすすめ、愛情溢れる
   領民政策、人生終焉の跡をたどります。

駐車場について
  当日、「天地人博」開催中のため
  伝国の杜及び上杉城史苑駐車場は
  大変混雑することが予想されます。
  他に、臨時駐車場、無料シャトルバスが
  用意されておりますので、そちらをご利用
  いただきたいと存じます。

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2009/08/25 08:40:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
ナビゲータ山口良一さんが、やまがたの魅力を紹介している情報番組「やまがた発!旅の見聞録」で、「天地人ゆかりの地を訪ねて」と題して県内ゆかりの地を紹介されます。
第一回は山口良一さんが米沢市で直江兼続ゆかりの地を巡り、天地人博や林泉寺などを地元の人と触れ合いながらご紹介します。

■やまがた発!旅の見聞録
 <テレビ埼玉・千葉テレビ・テレビ神奈川・山形放送(YBC)>

■8月22日(土)
 午前9時25分〜9時40分(山形放送の日時)
 「天地人ゆかりの地を訪ねて〜米沢市〜」

■8月29日(土)
 午前9時25分〜9時40分(山形放送の日時)
 「天地人ゆかりの地を訪ねて〜後編〜」

▼放送後に動画が見られます
 旅の見聞録

2009/08/21 19:26:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
大河ドラマ「天地人」の放送記念イベントとして、大河ドラマ「天地人」シンポジウムを開催いたします。
NHK大河ドラマ「天地人」の時代考証をご担当されている小和田哲男氏の講演と、小和田氏をコーディネーターにお迎えし、奥羽の関ヶ原とも呼ばれる「慶長出羽合戦」についてのパネルディスカッションを開催します。

開催日:平成21年9月13日(日)

時 間:開場 午後0時30分 開演 午後1時30分  終了予定 午後4時30分
     第1部 小和田哲男氏基調講演
        「裏側から読みとく戦国武将 〜ドラマと史実のうそほんと〜」
     第2部 パネルディスカッション
        「もう一つの関ヶ原 慶長出羽合戦とは何だったのか」
          コーディネータ:小和田哲男氏
          パネラー:伊藤清郎氏(山形大学地域教育文化学部教授)
                遠藤 英 氏(九里学園高等学校教諭)

会 場:山形テルサ ホール(山形市双葉町1−2−3)

入場料:無料(入場整理券が必要です)

定 員:500名

主 催:大河ドラマ「天地人」山形県推進協議会
共 催:大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会、NHK山形放送局
後 援:大河ドラマ「天地人」広域観光連携協議会


入場整理券の配布方法について
山形県観光振興課、各総合支庁観光振興室、やまがた観光情報センター、NHK山形放送局にて整理券を配布しております。
上記のほか、FAX、はがきでも受け付けいたします。【氏名・住所・郵便番号・電話番号・整理券の枚数】を明示してお申し込みください。後日整理券をお送りいたします。

※たいへんご好評をいただき、規定の枚数に達したため、入場整理券の配布を終了させていただきました。どうもありがとうございました。

お申し込み・お問合せ
 大河ドラマ「天地人」山形県推進協議会(事務局:山形県観光振興課)
  郵便番号:990−8570 山形市松波2−8−1
   電話:023(630)2373  FAX:023(630)2097

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2009/08/21 09:20:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
永正21年(1524)〜慶長14年(1609)
 綾姫。上杉景勝の生母で、上杉謙信の姉でもある。父は越後守護代長尾為景、母は虎御前。
 坂戸城主長尾政景に嫁ぎ二男二女をもうけた。長男義景は10歳で早世、二男顕景は後の景勝、長女は上条城主・上条政繁に嫁ぎ、二女は上杉景虎(北条氏政の七男で謙信の養子)に嫁いだ。
 夫政景の死後、才気煥発な少年樋口与六(後の兼続)を見出し、喜平次(景勝)の小姓として推挙。その後謙信の招きで、景勝とともに春日山城へと移り、景勝は謙信の養子となった。
 仙洞院は、「御館の乱」で景勝と景虎(二女の夫)が争うことになり辛い立場に置かれながら、動乱の時代を景勝とともに歩んだ。
 その後、景勝の移封に伴い会津そして米沢城へ移る。慶長14年(1609)2月15日、米沢城二の丸で死去。享年85。墓は米沢市林泉寺にある。

 大河ドラマ「天地人」では、仙桃院、二女は華姫となっている。

2009/08/20 23:10:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
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