戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

メンテナンスのお知らせ

平素より、当ホームページをご利用いただきまして 誠にありがとうございます。

ただいま、メンテナンスにより ホームページを閲覧できない状態になっております。
アクセスをいただいたお客さまには 大変ご迷惑おかけしていることを お詫び申し上げます。

なお、お急ぎの方は、電話にて お問い合わせいただきますようお願い申し上げます。

戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

〒992-0012
山形県米沢市金池7丁目1-50
TEL:0238-26-6046
FAX:0238-26-6047

:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

戦国観光やまがた情報局
 慶長3年(1598)、米沢城主であった直江兼続によって開削された「朝日軍道」。この道路は、当時しのぎを削っていた山形城主最上義光の所領(現在の村山・最上地区)を経由せずに米沢ともうひとつの所領である庄内とを最短ルートで結ぶために開削されました。最上義光との出羽合戦で利用されたと云われていますが、多くは謎に包まれています。
 
 今回の公開学習会では、渡辺茂蔵氏の論文「朝日軍道についての一考察(1978年)」などに学びながら、「大山尾浦慰山階道みち行改長」を解読し、次の事を学習します。
1)朝日軍道の復元ルート選定
2)60kmに及ぶルートの踏査報告
3)慶長5・6年の志駄義秀の通行検証
4)軍道をめぐる上杉と最上の抗争
5)江戸時代後期に大朝日岳登山がタブーだった理由

「朝日軍道」や直江兼続に興味のある方は是非ご参加ください。


■日時:平成21年11月15日(日) 午後1時〜3時
■会場:置賜生涯学習プラザ2階 大研修室(長井市九野本)
    TEL 0238−84−6900
■事例提供
   (1)朝日軍道と長井山岳会(長井山岳会 竹田憲作氏)
   (2)朝日軍道の痕跡調査登山について(岩根沢清川仙人会 山田栄二氏)
   (3)朝日軍道と志駄義秀(置賜史談会副会長 青木昭博氏)
■参加費:無料(資料準備のため下記へお申込みください)
■申込先:新野祐子さん宛(白鷹町横田尻)
     TEL0238−85−0393
■締切 :11月5日(木)まで
2009/10/13 22:30:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
本日より開幕しました『第97回南陽の菊まつり』の開園式が執り行われました。
昨日から台風の影響でお天気が心配でしたが、風はあるものの雨もひどくなく、式典の途中からは青空が見えてきました。「菊まつり」の先行きも明るいようです(^^)
テープカットでいよいよオープンです♪皆様のお越しをお待ちしています!
※会期は11月8日(日)まで。

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2009/10/09 15:23:Copyright (C) 南陽市観光協会
 米沢商工会議所主催「米沢観光文化検定」が今年で第4回を迎えます。今年は、米沢市制120周年の記念の年でもあり、大河ドラマ「天地人」放送記念としても注目されています。
 上杉の智将・直江兼続が大河ドラマの主人公となり、兼続の人物像や関連史跡など米沢観光への関心が高まってきました。この歴史ブームと「天地人」ブームに乗って市外・県外にも「米沢ファン」が増えることでしょう。
 今回行なわれる検定では、米沢市に関する歴史・観光・文化・時事などを中心に、直江兼続の生涯や大河ドラマ「天地人」の内容も盛り込まれるようです。
 この機会にあなたも『米沢ツウ』になってみませんか。


◎第4回米沢観光文化検定
■試験日時:平成21年12月6日(日)午前10時〜
■試験会場:九里学園高等学校(米沢市門東町1−1−72)
■受験料:1,000円
      ※受験申込後の返金は応じかねます。
■申込期間:10月5日(月)〜11月20日(金)まで
■申込手続:(1)窓口受付  
         米沢商工会議所窓口にて受付ます。
      (2)郵送受付  
         申込書・受講料・返信用切手80円を同封の上、「米沢商工会議所 米沢観光文化検定係」宛に郵送してください。折り返し受験票を送付致します。

▼出題内容・出題形式
  公式テキストブック『よねざわ まるごと事典』より米沢市に関する歴史・観光・文化・時事などの内容を、1問2点・計50問(満点100点)・四者択一式で出題。回答時間は45分。
▼合格基準
  7割以上の正答を以って合格とする。(70点・35問以上)
▼当日持参するもの
 (1)受験票
 (2)筆記用具(HBの黒鉛筆またはシャープペンシル、消しゴム)
 (3)身分証明書(運転免許証、パスポート、社員証、学生証など)
▼合格発表
  12月15日(火)午前10時
  米沢商工会議所ホームページおよび米沢商工会議所正面玄関口掲示板にて発表。

■お問合せ・お申込先
  米沢商工会議所総務企画部(米沢観光文化検定実行委員会事務局)
  〒992−0045 米沢市中央4−1−30
  TEL 0238−21−5111/0238−21−5116
  URL/http://www.ycci.or.jp

詳しくは米沢商工会議所ホームページをご覧ください。
2009/10/07 22:00:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
 「米沢ラジオDEウォーク」は、TBCラジオ・YBCラジオ同時生放送!! ラジオの生放送を聞きながら米沢市内を歩く番組イベントです。ゲストの宝井琴柳さんや、佐藤修TBCアナウンサー、松下香織YBCアナウンサーたちが現地米沢から、史跡を案内しつつ歴史文化の解説やウォークの様子などを生放送します。
 参加者はその様子を聞きながら設定されたコースを歩き、米沢の魅力を堪能することができます。

◎「米沢ラジオDEウォーク」
   〜ラジオ生放送を聞きながら米沢を歩こう!〜

■日時:平成21年10月11日(日) 
    12:00〜14:30(生放送)
■受付:10:30〜
■集合場所:伝国の杜・芝生広場
■参加費:無料(事前申し込み不要)
■持参するもの:イヤホン付き携帯ラジオ
■ゲスト解説者:遠藤英氏(九里高等学校教諭)

▼ウォークコース
 伝国の杜―上杉神社―上杉記念館(伯爵邸)―大町上通り(街道跡)―愛染明王―小嶋総本店前―旧米沢高等工業学校本館―春日山林泉寺―伝国の杜


詳しくは、TBC東北放送のホームページにてご確認ください。

...もっと詳しく
2009/10/07 15:30:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
 大河ドラマ「天地人」の放送もいよいよクライマックスを迎えます。上杉家の米沢移封によりドラマの舞台も米沢へと移って、ますます目が離せません。
 今回の放送を記念して、大河ドラマ「天地人」トークショー実行委員会と、NHK山形放送局との共催によりトークショーを開催いたします。
 トークショーでは、「福島正則」役を演じている石原良純さんと、NHK制作統括チーフプロデューサーの内藤愼介氏をお迎えし、戦国の世に生きる武将を演じた心境や、大河ドラマ「天地人」撮影の裏話など、ここでしか聞けないお話を語って頂きます。

■大河ドラマ「天地人」トークショー
■日時:平成21年10月20日(火)
    開場17:30 開演18:00
■場所:山形テルサ「テルサホール」
     山形市双葉町1−2−3
■入場料:無料
■定員:750名(全席指定)

◎お申込み方法
▼往復はがきに「住所」「氏名」「電話番号」を記入の上お申込みください。(電話・FAX・メールによる申込みは受付けておりません)
▼1通につきお一人様の申込みとなります。抽選のうえ、全席指定で入場券をお送り致します。
▼申込み締切日:10月13日(火)必着
▼申込み先住所
  〒990−8540
   山形市役所観光物産課「トークショー係」

▼お問い合わせ先:山形市観光物産課
         TEL023−641−1212 内線423・424
2009/10/07 14:30:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
              (C)2009 KOEI Co., Ltd. All rights reserved.

20年以上の歴史を誇る、歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」シリーズの最新作「信長の野望・天道」が絶賛発売中です。

山形・宮城・福島の3県では、当地にゆかりの深い戦国武将データをダウンロードして、ゲーム内に登場させられるタイアップ企画を実施中です。

山形からは、この3名が登場です。
 “直江兼続の父”樋口 兼豊 (ひぐち かねとよ)
 “最上義光の懐刀”谷柏 直家 (やがしわ なおいえ)
 “最上家臣、知謀の士”成沢 道忠 (なりさわ みちただ)

もちろん、ゲームには、
 上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、前田慶次…
 伊達政宗、片倉景綱、伊達成実、鬼庭綱元…
 最上義光、氏家守棟、志村光安、鮭延秀綱…

などなど、大勢の戦国武将が登場します。
ぜひぜひ、実際に遊んで確認してみてください。
「天地人」の時代のお勉強用としてもどうぞ!

 株式会社コーエー「信長の野望・天道」公式ホームページ

 「信長の野望・天道」タイアップ武将ページ

体験版も配信されていますので、お気軽にどうぞ!
 「信長の野望・天道」体験版ダウンロードページ
2009/10/02 11:30:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
大河ドラマ「天地人」放映協賛事業

法音寺宝物展
〜永遠との語らいを求めて〜
※米沢藩主上杉家御廟所をご参拝なされてから宝物展をご拝観ください。

会期 平成21年9月14日(月)から10月20日(火)
※当初予定は10日でしたが延長になります。

会場 法音寺 本堂

開場時間 午前9:00〜午後4:00
     ※予め申し込みがあった場合は午後5:00まで延長いたします。

拝観料 大人 200円
    大学生・高校生 150円
    中学生以下 無料
    ※15名以上は団体料金有り 大人150円 高校・大学生120円

主催 法音寺宝物展実行委員会

米沢藩主 
上杉家菩提寺 
八海山 法音寺
〒992-0055
米沢市御廟1丁目5−32
TEL0238−22−2095
FAX0238−22−2096
ホームページ
http://www.houon.org/
e-mail houonji@houon.org


後援 上杉家・米沢市・米沢市教育委員会
   大河ドラマ天地人山形県推進協議会
   大河ドラマ天地人米沢市推進協議会
   米沢商工会議所・(社)米沢観光物産協会・米沢温故会 
2009/09/28 18:25:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
首都圏で流している「天地人博2009」のテレビコマーシャルです。
その3「ゆかりの地編」です。
2009/09/21 15:50:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
首都圏で流している「天地人博2009」のテレビコマーシャルです。
その2「関連イベント編」です。
2009/09/21 15:40:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
首都圏で流している「天地人博2009」のテレビコマーシャルです。
その1「かねたん編」です。
2009/09/21 15:30:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
昨年よりも更にパワーアップして
「兼続どん丼まつり」開催いたします!
今年は天地人の年!
出展者の気合が感じられる魅力あるオリジナルメニューのご紹介!

兼続どん丼まつり
平成21年9月27日(土)28日(日)
場所:伝国の杜前広場
※同時開催 天地人うまいもの市(9/18〜27)
販売時間 10:00〜15:00
売り切れ御免!
※うまいもの市は16:00まで
 

チケット1枚1,000円
(引換券2枚、抽選券1枚付で1組)
1,000円で2つの丼、芋煮をゲット!
※米沢牛ステーキ丼は除きます。

メニュー表PDFファイル

お買い求めは会場内2ヶ所のチケット販売所。
温泉宿泊券や米沢牛が当たる大抽選会を実施!
※米沢牛ステーキ丼は1,000円(抽選1回)となっております。


注目!越後・会津・置賜味比べ!!
◇米沢牛丼 タスクフーズプロデュース
 米沢牛を使用した米沢が誇る牛丼。
 特製のタレと伝統の煮込み技術で作る逸品。
 地元の方にはもちろん、観光客の方にも
 米沢牛の美味しさを実感して頂くように
 美味しい米沢牛丼を提供します。


◇伝統会津ソースカツ丼
 老舗有名店「なかじま」が作る大人気の
 伝統会津ソースカツ丼。
 会津のごはんに、みずみずしい千切りキャベツと
 秘伝のソースで味付けした揚げたてジューシーな
 カツがのります。


◇米沢芋煮 
 山形の代表的郷土料理「芋煮」
 米沢では地元の牛肉、里芋、こんにゃく、ねぎなどを
 醤油で味付けする。隠し味で味噌、地酒をブレンド
 牛肉の旨みがしみこんだ美味しい芋煮です。


◇会津芋煮 
 豚肉、里芋、こんにゃく、ねぎなどを
 味噌仕立てで味付けする豚汁風芋煮です。
 会津地方でも昔から食されてきた芋煮鍋
 ぜひご賞味ください。

◇鮭いくら丼
 鮭フレークに、いくらをトッピングし
 越後の丼を表現した一品

◇南魚沼のきのこけんちん汁
 味どころふるやまプロデュース
 魚沼地方の郷土料理「きのこけんちん汁」
 秋の名残が嬉しい一品
 油で具材をサッと炒め、出汁をはり味を整えます。
 根菜、茸類の旨みを楽しめる一品です。

そして今回の注目丼!数量限定!売切御免!

◇豪華!米沢牛ステーキ丼 米沢牛黄木プロデュース
 本場米沢牛黄木が厳選した米沢牛を秘伝のタレをからめて
 焼き上げたステーキ。 お肉のこくと旨さをお楽しみください。

◇兼続丼 味どころふるやまプロデュース
 直江兼続の名前にも負けないように美味しい丼、
 そしてもう1杯食べていただけるようなシンプルな丼に仕上げました。
 兼続の家紋、三つ盛亀甲をイメージし、地元米沢の食材にもこだわり
 三色丼にしました。
 兼続の母のもみじの教えも丼に表現したく、天にもみじを色どりました。
 ぜひ食べてみてください!

◇愛の足軽角煮丼 秋葉糀味噌醸造プロデュース
 歴史のまち米沢を支えてきた足軽をテーマに、
 素材を吟味し、栄養のあるうこぎと角煮を食べやすく味噌風味に
 アレンジした栄養たっぷりの丼

◇米沢牛すじ丼 小野川 弁天食堂プロデュース
 米沢牛すじ煮込みと小野川の温泉卵、きざみネギを使用した
 米沢と小野川のコラボレーション丼。

◇松茸ご飯と牛ハンバーグ丼
 レストランヴェルデプロデュース
 松茸と牛を使用した贅沢な丼。
 ひとつの丼で和風、洋風2つの味が楽しめます。

◇米沢牛しぐれ煮丼
 エヌティエスプロデュース
 米沢市の特産物「米沢牛」を使用した当社特製の「時雨煮」
 を盛り付けた丼。
 「地域の活性化」や「兼続どん丼まつり」のPRに貢献したいと思います。

◇とろとろ牛すじカレー丼
 小野川おうちカフェぼぬーるプロデュース
 柔らかく煮込んだ牛すじをカレー風味でスパイシーに仕上げた丼です。
 お店で出している牛すじカレーをアレンジしてあります。
 ラジウム卵をトッピング
 
◇愛の本中華丼
 米沢麺業組合プロデュース
 らーめんスープでご飯を炊いて、メンマ、チャーシューを
 トッピングした米沢らーめんをイメージした丼です。
 ぜひご賞味ください!

◇らーめんサラダ 米沢麺業組合プロデュース
 らーめんに醤油、ごまなどで和風サラダをトッピング
 あっさり食べられる米沢の新名物!?

◇かねたん丼
 ぼんてんプロデュース
 米沢牛を使用したハンバーグ(合挽き肉)と米沢でとれた野菜を使用し、
 3日間煮込んだソースでロコモコ風に仕上げました。
 かわいいかねたんのような丼!?


ぜひお召し上がりください!
芋煮と丼、ドンドン食べて、大抽選会!

さらに、同時開催で 天地人うまいもの市好評開催中!
26日は、松川河川敷において
食の陣牛牛まつり
よねざわ上杉戦国絵巻夜の陣開催!

ぜひお越しください!

メニュー表PDFファイル
2009/09/20 23:05:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会

伊達宗遠(だてむねとお):1324〜1385
  伊達家8代当主。陸奥国伊達郡を拠点に南朝方の武将として周辺地域に攻め入り、1380年頃からは数年をかけ、長井領であった出羽国置賜郡を攻略した。1383年には米沢成島八幡神社拝殿を造営している。
     関連史跡:成島八幡神社(米沢市)


伊達政宗(儀山)(だてまさむね(ぎざん)):1353〜1405
  伊達家9代当主。父・宗遠とともに米沢の長井広房を攻め追放し、置賜郡を伊達家の拠点の一つとした。鎌倉公方と京都公方の対立の中で奮戦、奥羽での伊達家の地位を確立し、伊達家中興の祖と呼ばれる。後の17代当主政宗の名もこのことにあやかった。
     関連史跡:資福寺 政宗墓所(高畠町)


伊達稙宗(だてたねむね):1488〜1565
  伊達家14代当主。周辺勢力と婚姻・養嗣子関係を結んで勢力を拡大。それまで前例のない陸奥守護職に任じられた。三男・実元の越後守護上杉家への入嗣問題をきっかけに、家臣団への統制強化に不満を持った有力家臣らに担がれた嫡男・晴宗に幽閉され、南奥羽全域を巻き込む天文の大乱が起こった。


伊達晴宗(だてはるむね):1519〜1577
  伊達家15代当主。稙宗の嫡男。父と対立して天文の大乱を引き起こした。乱の終息後に家督を相続。本拠地を米沢に移した。代々大崎氏が継承してきた奥州探題職に就任した。父と同じく、婚姻外交を駆使して伊達家の勢力拡大を図った一方、有力家臣の権限を認めて、宿老の中野宗時を重用し、その専横を許した。
     関連史跡:米沢城址


伊達輝宗(だててるむね):1544〜1585
  伊達家16代当主。晴宗の次男。父との対立を経て家督を継ぐ。権勢を振るう宿老・中野宗時が謀叛を起こすが、これを討伐。その後は謀叛鎮圧に功績のあった遠藤基信を重用した。相馬家とたびたび争ったほか、義父の最上義守の要請を受けて最上義光とも争う。嫡男・政宗に家督を譲った翌年、二本松義継に拉致され、救援に来た伊達軍の銃撃に巻き込まれ死去。
     関連史跡:資福寺 輝宗墓所(高畠町)


伊達政宗(だてまさむね):1567〜1636
  伊達家17代当主。輝宗の嫡男。独眼竜の異称で知られる。18歳で父から家督を譲られると、瞬く間に周辺諸国を席巻。摺上原の戦いに勝利して会津の蘆名家を滅ぼし、南奥羽のほぼ全域を手中に収めた。
     関連史跡:伊達政宗公生誕の地の碑


大有康甫(だいゆうこうほ):1534〜1618
  伊達稙宗の十三男。一風軒と号す。東昌寺十四世住職。伊達家の外交僧として活躍。政宗の学問の師として虎哉宗乙を推挙した。
     関連史跡:東正寺(南陽市)


伊達小次郎(だてこじろう):1568?〜1590
  輝宗の次男。政道(まさみち)と名乗ったとも云われる。蘆名家への養子の話があったが、佐竹家から義広が養子に入ったため、伊達家と蘆名家との関係が悪化した。1590年政宗が毒を盛られた事件が起こった際に誅殺された。


小原定綱(おばらさだつな):1555〜1592
  伊達小次郎の傳役。小次郎誅殺後、その遺骸の埋葬場所を求めて各地を流浪。埋葬が叶ったのちに殉死した。


粟野秀用(あわのひでもち):?〜1595
  伊達小次郎の傳役。二色根城主(南陽市)。小次郎誅殺後に伊達家を出奔し、関白豊臣秀次に仕えた。伊予松前15万石の大名にまで取り立てられる。1595年秀次事件に連座して自害した。この件では、伊達政宗も関与を疑われ、釈明に追われることとなった。


小梁川親朝(こやながわちかとも):?〜?
  1514年伊達稙宗に従って最上氏を攻めた。長谷堂城(山形市)の戦いにて、最上義定らの軍勢を破り、奪い取った長谷堂城の守備を任された。翌年、伊達稙宗の妹が最上義定に嫁ぐことで和議が成立すると、長谷堂城から撤退した。
     関連史跡:長谷堂城址(山形市)


小梁川親宗(こやながわちかむね):?〜1546
  親朝の子。天文の大乱では晴宗方につき、高畑城主となる。中野宗時とともに上洛するなど重臣として活躍し、北条氏康にも謁見している。
     関連史跡:高畑城址(高畠町)


小梁川盛宗(こやながわもりむね):1523〜1595
  親宗の子。高畑城主。伊達晴宗の娘婿。知勇に優れ、最上家や大内定綱との戦いで活躍した。しかし元亀の変の祭に、討伐を受けた中野宗時らを高畑城下にて見過ごしたため、輝宗から叱責された。後に出家して泥播斎と号す。政宗に近侍して、様々な献策をした。
     関連史跡:高畑城址(高畠町)


小梁川宗重(こやながわむねしげ):1545〜1602
  盛宗の子。刑部。一家に列せられる。


小梁川宗朝(こやながわむねとも):1469〜1565
  親朝の弟。京で兵法・剣術を修行し、将軍足利義晴に召し出された。帰国して稙宗に仕え、天文の大乱では、西山城に幽閉されていた稙宗を救出した。乱の終息後も稙宗に近侍し、稙宗の死後、殉死した。


小梁川宗秀(こやながわむねひで):1510〜1570
  宗朝の子。中野宗時らが反乱を企てた元亀の変では、新田景綱とともに追討軍の先鋒を務めて小松城を攻めた。宗時らを敗走させる奮戦のすえ、討死した。
     関連史跡:小松城址(川西町)


桑折景長(こおりかげなが):?〜?
  伊達稙宗の三男・実元の越後守護上杉家への入嗣に反対し、中野宗時らとともに稙宗の嫡男・晴宗を擁立した。天文の大乱では晴宗の重臣として活躍。


桑折貞長(こおりさだなが):?〜1577
  景長の長男。伊達晴宗の奥州探題就任に尽力し、牧野久仲とともに奥州守護代に任じられた。中野宗時、牧野久仲父子が謀叛した元亀の変後に、久仲に替わって小松城主となる。
     関連史跡:小松城址、佛成寺(川西町)


桑折宗長(こおりむねなが):1532〜1601
  貞長の長男。相馬家との争いや人取橋の戦いで活躍。摺上原の戦いにも出陣した。隠居後は点了斎不曲と号す。評定衆として政宗を補佐した。


桑折政長(こおりまさなが):1556〜1593
  宗長の長男。摺上原の戦いに父とともに出陣した。文禄の役の祭は、伊達政宗に従って朝鮮に渡海したが、病を得て釜山浦にて病死した。妻は飯坂宗康の長女、伊達政宗の側室・猫御前の姉。


原田宗政(はらだむねまさ):?〜1582
  原田城主。桑折宗長の次男で、伊達家累代の宿老・原田家を継ぐ。1582年に戦死。


原田宗時(はらだむねとき):1565〜1593
  桑折宗長の三男。山嶺源市郎の子。原田家を継いだ伯父の宗政が、嗣子の無いまま戦死したため。その跡を継いだ。伊達家宿老として会津攻略、佐竹・岩城連合軍との戦いなどで活躍した。朝鮮出兵の際は、政宗に従って渡海したが、病を得て対馬にて死去。
     関連史跡:原田城址(川西町)


原田宗資(はらだむねすけ):1582〜1623
  桑折宗長の四男。原田宗時が病死したため、伊達政宗の命により原田家を継いだ。徳川家康が上杉景勝の討伐を決め、帰国を命じられた政宗が宿敵の相馬領を通過する際に、使者として赴き、無事に通過させることに成功した。伊達騒動の当事者のひとり、原田甲斐宗輔の父。


片倉景時(かたくらかげとき):?〜?
  小桜城主(長井市)。天文の大乱では晴宗方につく。稙宗方の鮎貝、大立目、最上氏の連合軍の南下を押し返し、置賜地方での晴宗方の勝利に貢献した智勇兼備の名将。
     関連史跡:小桜城址(長井市)


片倉景親(かたくらかげちか):?〜?
  景時の長男。意休斎と号す。父の跡を継いで小桜城主(長井市)となる。輝宗・政宗の二代に仕え、大内定綱への使者を務めている。弟の景重は米沢八幡神社の神職となった。
     関連史跡:小桜城址(長井市)


片倉景綱(かたくらかげつな):1557〜1615
  米沢八幡神社の神職・片倉景重の次男。遠藤基信の推挙により、伊達政宗の近侍となる。知の面から政宗を補佐し、参謀として活躍した。伊達成実、鬼庭綱元とともに「伊達の三傑」と称される。笛の名手としても知られる。


片倉喜多(かたくらきた):1539?〜1610
  鬼庭良直の娘。片倉景綱の異父姉。男子に恵まれなかった母は離縁され、から倉景重に再嫁した。その後に生まれたのが景綱である。鬼庭良直も再婚して男子をもうけているため、鬼庭綱元の異母姉でもある。のちに伊達政宗の乳母・養育係を務めた。


片倉重綱(かたくらしげつな):1585〜1659
  景綱の長男。のちに重長に改名。父に劣らぬ知勇兼備の武将として活躍した。大坂の陣では、病気の父に代わって出陣、後藤基次を討ち取るなどの武功を挙げた。「鬼の小十郎」の異名を持つ。


矢内重定(やないしげさだ):?〜?
  米沢城下・大町の検断職に任じられた。合戦の際は騎馬で従軍しとと云われる。娘が片倉景綱に嫁ぎ、嫡男の重綱を産む。伊達政宗が仙台に移った際にも仙台大町の検断職を務めた。


鬼庭良直(おににわよしなお):1513〜1585
  左月斎。川井城主(米沢市)。武勇に優れ、評定役を務めた。人取橋の戦いでは、伊達政宗から金色の采配を賜り、全軍を指揮した。老齢のため甲冑は着けず、黄綿帽子に水色陣羽織という出で立ちで奮戦するも、壮絶な討死を遂げた。


鬼庭綱元(おににわつなもと):1549〜1640
  良直の長男。1575年に家督を継ぎ、川井城主(米沢市)となる。行政手腕に優れ、38歳で奉行に抜擢された。朝鮮出兵の際は物資補給を担当して、伊達軍に餓死者を出さなかった。伊達家の内政を支え、片倉景綱、伊達成実とともに「伊達の三傑」と称せられる。


遠藤基信(えんどうもとのぶ):1532〜1585
  役行者金伝坊の子。はじめ中野宗時に仕えたが、宗時の謀叛の企てを知り、伊達輝宗に新田景綱とともに訴えでて、謀叛鎮圧に功績を挙げた。これにより輝宗の信頼を得て、伊達家の内政を取り仕切るようになった。織田信長や北条氏照らとの外交交渉を担当したほか、片倉景綱の才能を見抜き、伊達政宗の近侍に推挙した。輝宗が非業の死を遂げると、その葬儀後に殉死した。
     関連史跡:資福寺・伊達輝宗墓所(高畠町)


遠藤宗信(えんどうむねのぶ):1572〜1593
  基信の長男。父の死後家督を継ぐ。伊達家宿老。佐竹・蘆名連合軍との戦いで軍功をあげる。朝鮮出兵でも大功を挙げるが、帰国後出奔し、のちに諭されて帰参する。朝鮮で得た病が癒えず、京で病没した。


屋代景頼(やしろかげより):1563〜1608
  置賜郡屋代郷(高畠町)を本拠とした一族の出身。祖父の閑盛は伊達家の国老であったが、父の代で所領が没収された。兄は鹿股家を継いだため、景頼が屋代家を継いだ。政宗に近侍して奉行に任じられ、朝鮮出兵の際は岩出山城の留守居役を任された。次第に傲慢な振る舞いが多くなり、政宗に咎められて追放された。


後藤信康(ごとうのぶやす):1555〜1614
  湯目重弘の次男。後藤信家の養子となって後藤家の家督を継いだ。知勇兼備の武将と知られ、黄色の母衣を身にまとって戦ったため、「黄後藤」の異名を持つ。対蘆名戦では、桧原城(北塩原村)を守備した。その後も朝鮮出兵など、数々の戦いで武功を挙げた。


湯目景康(ゆのめかげやす):1564〜1638
  重康の子。人取橋の戦いや摺上原の戦いで活躍した。葛西・大崎一揆の鎮圧後に佐沼城主となる。伊達政宗が豊臣秀次の謀反に加担したとの疑いをかけられた際、津田原で秀吉に拝謁し、政宗の無実を訴えた。この功績により津田と改姓した。慶長出羽合戦の時は、最上家への援軍の副将として活躍した。


湯目重旧(ゆのめしげひさ):?〜1600
  奥羽の関ヶ原と呼ばれる慶長出羽合戦の際、伊達家から最上家へ援軍として派遣される。西軍敗北により撤退を開始した直江兼続率いる上杉軍への追撃戦で討死した。
     関連史跡:湯目の碑(山形市)


伊達政景(だてまさかげ):1549〜1607
  晴宗の三男。留守顕宗の養子となり、奥州の名家・留守氏を継いだ。朝鮮出兵にも従軍し、帰国の途中で伊達姓を拝領した。慶長出羽合戦では、最上家への援軍の大将として、約3000の軍勢を率いて出陣した。


鮎貝宗重(あゆかいむねしげ):1555〜1624
  鮎貝城主(白鷹町)。日傾斎と号す。長男の宗信が最上義光の計略に乗り謀反を図る。宗重は説得を試みるが、宗信は聞き入れなかったため、伊達政宗に訴え出て、鮎貝城を攻めさせた。宗信は最上領に落ち延び、家督は次男の宗益が継いだ。その後も政宗に近侍し、様々な評定に参加した。
     関連史跡:鮎貝城址(白鷹町)


新田景綱(にったかげつな):?〜?
  舘山城主(米沢市)。中野宗時の孫娘を妻にしていた長男の義直が宗時の謀反に加担していることを知り、義直を捕縛して、遠藤基信とともに伊達輝宗に訴え出た。小梁川宗秀とともに追討軍の先鋒を務め、宗時らの拠る小松城(川西町)を攻め落とした。家督は次男の義綱が継いだ。
     関連史跡:舘山城址(米沢市)


中野宗時(なかのむねとき):1501?〜1571?
  伊達家重臣。伊達稙宗の嫡男・晴宗を擁立して稙宗を幽閉させた。その後、稙宗方と晴宗方に分かれて争った天文の大乱では、晴宗の参謀として勝利に貢献した。その功績から晴宗に重用され、家臣団髄一の権勢を振るった。輝宗が伊達家の家督を継ぐと、謀反を企てたため討伐された。相馬領に落ち延びたが、そこも追われ、会津に向う途中で飢えと寒さから死去した。中野常陸。


中野親時(なかのちかとき):?〜?
  宗時の長男。伊達家の分国法である「塵芥集」の制定にあたって、父とともに家老評定人として連署している。


牧野宗興(まきのむねおき):?〜1542
  牧野家は伊達家の歴代宿老を務めた名家。伊達稙宗が大崎氏を攻めた際には第一陣の大将を務めた。天文の大乱では晴宗方に付くが、稙宗方の攻撃を受け息子の景仲とともに戦死。中野宗時の次男が家督を継いだ。


牧野久仲(まきのひさなか):1529?〜?
  中野宗時の次男。小松城主。伊達家累代の宿老・牧野家を継いだ。伊達晴宗の奥州探題就任に尽力し、桑折貞長とともに奥州守護代に任じられた。伊達輝宗の代に、父・宗時とともに謀反し小松城にて戦うが、敗れて相馬領に落ち延びた。


富塚仲綱(とみづかなかつな):?〜1542
  伊達家宿老。洲島城主(川西町)。天文の大乱では伊達稙宗方につき、戦いに敗れて討死。そのため富塚家は一時断絶した。


富塚宗綱(とみづかむねつな):1543〜1613
  仲綱の長男、幼少時に父が討死しお家断絶となるが、伊達晴宗に許され富塚家を再興した。伊達輝宗の代になって再び宿老に取立てられた。人取橋の戦いに従軍し活躍する。和漢連句にも長じていたという。


富塚信綱(とみづかのぶつな):?〜1627
  宗綱の長男。伊達家宿老。佐竹・蘆名連合軍との戦いで軍功を挙げる。朝鮮出兵や大坂の陣でも戦功を挙げた。最上家が改易された際、伊達政宗の命を受け、政宗の母・保春院を仙台に連れて帰った。


浜田宗景(はまだむねかげ):?〜?
  一本柳館主(高畠町)。伊達稙宗が大崎氏を攻めた際に第二陣の大将を務めた。天文の大乱では晴宗方について宿老となる。


浜田景隆(はまだかげたか):1554〜1591
  伊達家宿老。一本柳館主(高畠町)。大崎合戦では陣代として出陣、摺上原の戦いでは後備を務めるなど、各地の戦いで活躍した。大崎・葛西一揆の鎮圧戦で、宮崎城を攻略中に鉄砲で撃たれ戦死した。


土肥単備中守(どひたんびっちゅうのかみ):?〜?
  山上地区を本拠とした在地領主で、伊達氏家臣の戸板氏か。土肥(多)備中守も同一人物と思われる。


片倉修理亮(かたくらしゅりのすけ):?〜?
  片倉景広の長男。下長井庄の平山郷や朴沢郷等に所領を与えられ、天正2年の「着到帳」には馬上1、鑓6と記されている。長井市平山には現在でも周囲を堀と土塁で囲んだ片倉館跡があり、片倉修理亮の居館と伝わっている。伊達政宗の岩出山移封の際、修理亮の支族が当地に残り帰農したといわれている。


安久津修理助(あくつしゅりのすけ):?〜?
  安久津孫二郎の子か孫。安久津の名字は伊達郡大石郷の安(阿)久津に由来するもので、下長井地方や伊達地方に所領が与えられた。長井市時庭正法寺境内には現在でも土塁の一部が残り時庭館の跡とされ、安久津氏の居屋敷とみられている。歌丸氏も安久津氏の一族で下長井庄の時庭と歌丸一帯に所領が与えられていた。


大町家継(おおまちいえつぐ):?〜?
  大町氏は伊達氏の重臣で刈田郡大町郷(宮城県白石市)を本貫とし、大町七郎が九野本で所領を与えられていた。長井市九野本の正福寺に隣接し土塁が残っており大町氏との関りが想定されている。大町家継と大町七郎の関係は不明。


大津美作守(おおつみまさかのかみ):?〜?
  大津美作守藤原光本といい、宮沢在城の城主。大津氏は宮内に居住し、宮内熊野神社と深い関りを有する。嘉吉3年(1443)に熊野神社が火災に遭い、その際に太刀や獅子を奉納している。大津美作守の名称は繰り返し使用されている。


大津土佐守(おおつとさのかみ):?〜?
  宮沢城主で政宗の家臣である。宮沢城は伊達氏の領国境にある城館群の背後に築いた北部防衛線の要の位置にあり、国人領主である大津氏は重臣に準じる扱いを受けた。子の大津将監が天正二年最上攻めに参陣。大津土佐守の名称は繰り返し使用されているが、最後の大津土佐守(大津将監の孫)は天正19年政宗の移封に随伴し、栗原郡武隈村に移った。


大津郷次(おおつさとつぐ):?〜?
  大津土佐守の弟で、大津庄左衛門。天正19年蒲生家に仕え宮沢城三千石の知行を与えられたが、慶長三年上杉氏に仕えることができず熊野神社の神主になった。


粟野義広(あわのよしひろ):1185〜?
  粟野次郎藤原義広は、伊達家3代当主の伊達義広である。居城を伊達郡桑折郷の粟野大館に移した。『米府鹿之子』に、二色根館は「粟野次郎藤原義広が居城なり」と記すが、おそらく居城ではなく、義広が館を築かせた伝承と思われる。


粟野喜左衛門尉(あわのきざえもんのじょう):?〜?
  伊達(粟野)義広の子孫、粟野十郎左衛門尉宗次。二色根館の館主で、伊達の親族であったが家臣となった。中山城等、領国境の諸城館の後方支援をしながら米沢盆地北部東側を護っていた。


粟野喜右衛門尉(あわのきえもんのじょう)?〜1595
  粟野十郎左衛門尉宗次の子で粟野藤八郎。政宗の近侍であったが天正18年(1590)勘気を蒙って出奔し、羽柴秀吉に仕えた。名を粟野杢頭秀用(もくのかみひでもち)と改め、伊予十五万石の領主となって関白秀次の聚楽の城に近侍したが、文禄4年(1595)に秀次事件に関係し死罪となった。


増田摂津守藤原興隆(ますだせっつのかみふじわらのおきたか):1526〜1591
  梨郷上館に居城した増田氏三代目。増田氏は伊達稙宗、晴宗、輝宗、政宗に仕えた一族で伊達郡増田村と羽前の内に采地を賜った。妻の広田伊賀の娘は伊達政宗の乳母である。


増田宗繁(ますだむねしげ):?〜?
  興隆の子、増田将監宗繁、梨郷上館に居城した。摺上原の戦いで一日で首九級を得る活躍を見せ、文禄・慶長の役でも政宗に従った。豊臣秀吉に拝謁し、景光の刀を賜わった。


浜田伊豆守景隆(はまだいずのかみかげたか):1554〜1591
  出羽国屋代庄一本柳の武将。宗景の子。伊達政宗の信頼が厚く、摺上原合戦などに出陣。葛西大崎一揆で討死した。


浜田大和(伊豆)守宗景(はまだやまとのかみ・いずのかみむねかげ):?〜?
  出羽国屋代庄一本柳の武将。屋代庄を中心に勢力を張り、伊達氏の重臣・宿老として知られる。宿老の一人として、伊達稙宗の時代に整備された「塵芥集」に署名している。


鮎貝成宗(あゆかいなりむね):?〜1460
  初代鮎貝城主(白鷹町)。鮎貝氏は藤原安親を祖とし、横越城(同町)を拠点としたが、応永3年(1396)に成宗が鮎貝城を築き、鮎貝氏を名乗ったという。瑞岩寺を開き、相応院を祈願所とした。


鮎貝盛宗(あゆかいもりむね):?〜?
  4代目鮎貝城主(白鷹町)。天文の乱において伊達稙宗につくが、勝利した晴宗の安堵状によると領地の拡大が許された。


鮎貝宗信(あゆかいむねのぶ):?〜?
  6代目鮎貝城主(白鷹町)。父宗重と仲違いしたことが領主伊達政宗に伝わり、謀反人として鮎貝城を攻められた。その原因は諸説あり、最上義光との内応が知られている。近年の研究では、伊達家中でも最上位の家柄であり、独立性の強かった鮎貝氏を完全な支配下におくために父子の争いに政宗が乗り出したのだろうと述べられている。逃亡した宗信は、義光四男の山野辺義忠の家臣となり鮎貝十郎座衛門と名乗った。


高玉茂平(たかだましげひら/もへえ):?〜?
  高玉城(白鷹町)の城主。高玉氏を名乗り、兄の鮎貝宗重に城を任されるが、四代でついえた。高玉茂兵衛、高楡兵部大輔とも。


国分政信(こくぶんまさのぶ):?〜?
  伊達政宗時代の人物。国分氏は、もとは信濃国の領主だったが奥州へ移って伊達家に従い、刈田、伊達、最上、長井など、各地に領地を有した。萩生郷を本拠としたことから、政信の時代には交換や売買によって土地を萩生郷周辺に集め、伊達家の領内統治に重要な役割を担った。なお、政信は伊達政宗の岩出山移封に同行し萩生城を離れている。


中津川伯耆守(和泉)(なかつがわほうきのかみ(いずみ)):?〜?
  中津川氏は、福島県国見町石母田を本拠としながら、中津川郷一円を所領した領主である。中津川伯耆守は伊達稙宗、晴宗時代の当主で、石母田にある西館に居住していたが、上原館も名目上は中津川伯耆守の居館であった。天文の乱では稙宗に付いて次男・助兵衛と敵対した。乱後は伯耆守を助兵衛に譲り、自身は和泉に改名している。


中津川助兵衛(なかつがわすけのひょうえ):?〜?
  中津川伯耆守の次男である。父の上原館に居住したが、天文の乱の際には伊達晴宗方に付き、岩倉館に籠って兄・弥五郎と戦闘を行っている。乱後は、父から伯耆守の官名と上原館を譲り受けた。


中津川弥五郎(なかつがわやごろう):?〜?
  中津川伯耆守の長男で、別名を大膳という。父・伯耆守と共に行動し、天文の乱においても、弟・助兵衛と敵対し、助兵衛が守る岩倉館へ攻め込んだ。


中津川丹波守(なかつがわたんばのかみ):?〜?
  伊達輝宗、政宗時代の人物で、中津川弥五郎の子。会津、越後、田村、荘内への使者を務めたほか、会津との国境警備を行って敵を討ち取るなど文武両道で活躍した。政宗からは、中津川郷の金山における監督権を認められている。


五十嵐正栄(いがらしまさひで):?〜?
  伊達輝宗・政宗時代に活躍した人物である。先祖は越後の蒲原郡に住んでいたが、寛政年中(1460〜65)に正栄の祖父・栄正(左馬助)が椿郷へ移り、伊達尚宗に仕えた。正栄は片倉小十郎の副官を務め、小旗に片倉家の鐘の紋を使うことを許されている。輝宗が阿武隈川において畠山義継に殺害される場に同席しており、その後の政宗による二本松攻めにも従軍した。


五十嵐正仲(いがらしまさなか):?〜?
  伊達政宗時代の人物。政宗の岩出山移封に同行せず椿郷に残り、蒲生氏郷、上杉景勝に仕えた。上杉時代には中山城下に移り、最上の陣に参加。また大坂の陣へも出兵し、江戸時代には米沢へと移っている。国分政信が出た後の萩生城に入ったとされる赤座八右衛門(あかざはちえもん)は会津を領する蒲生氏郷の家臣で、伊達時代から椿郷に居住した五十嵐正仲の協力を得て、統治に努めた。


遠藤四郎左衛門(上野守)(えんどうしろうざえもん(こうずけのかみ)):?〜?
  遠藤氏は手ノ子郷周辺に広い土地を有した領主で、代々四郎左衛門を襲名した。手ノ子郷は越後方面への守備の要であり、領主である遠藤氏は、越後と置賜の交通の要である街道百二十里の監督を任じられていた。なお伊達家が他の大名に贈答する鷹は良質で「伊達の名鷹」と言われたが、この産地が遠藤氏の領内にあったことから、伊達政宗にも度々鷹が献上されている。このような鷹場の監督も遠藤氏の役割であったとみられる。


2009/09/20 22:30:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
いよいよ始まりました!
〜越後、会津、置賜 天地人うまいもの市!
9月18日(金)〜27日(日)までの10日間!

この上杉神社へ向かう参道、伝国の杜前広場では
天地人ゆかりの、越後、会津、置賜を代表する
物産品の数々を各地の観光協会、お店の方に
出展していただいております!

大変賑やかに、美味しいもの特産品を沢山取り揃え
お客様をお迎えしていたしております!

本日は
米沢観光物産協会小嶋会長のご挨拶でスタート!


そしてバルーンアートの白馬に載ったかねたんも出現!
甲冑武者も登場します。

かねたんもほぼ毎日お散歩に現れます!
かげっち、おせんちゃんも伝国の杜で
見られるかも?!

ぜひご来場ください!

美味しい芋煮と鮭、うこぎのミニご飯、お菓子の付いた
天地人セットも販売!


小野川温泉からお湯を運んで足湯も設置!
ぜひ温まってください!


大注目、かねたんおにぎり!
かねたんと愛が海苔に描かれてるんですよ!

富士屋商店の新商品です!ぜひ会場でお買い求めください!


米沢牛串、米沢らーめんほか 各地の特産品、美味しいものが
たくさんございますのでぜひ足をお運びください!
美味しいものラインナップ!
・米沢らーめん:米沢麺業組合
・米沢牛カレーパン、牛パン、カツサンド:上杉城史苑
・米沢らーめん牛やきそば:田舎や
・米沢牛串、駅弁:米沢牛のれん会
・おでん、つけもの、米沢鯉:やまがた食品振興会
・米沢芋煮と鮭、うこぎのミニ丼セット:米沢観光物産協会女性会
・牛串、玉こんにゃく、やきそば:べにはな
・槐木工品:幸林工芸
・野菜市:ひかりフーズ
・米沢牛まんじゅう:エヌティエス
・お漬物、米:高一
・かねたんまんじゅう、独楽:つたや物産
・おにぎり、だんご:富士屋商店
・直江、上杉、かねたんグッズ:富士印刷
・会津豆菓子:おく屋
・会津絵ロウソク:山形屋本店
・線香花火:新潟市
・長岡のぎんなんようかん:長岡市
・石巻焼そば:喜栄
・新米:サンファームしらたか
・牛串、コロッケ:飯豊町商店街
・イワナの塩焼き:小国町観光協会
・米沢牛コロッケ、牛すじ煮込み、ダリヤ:川西町観光協会
・バルーンアート
・伝統野菜のPR販売:山形県農業振興課
・新潟の笹団子、お菓子


最終日の9月26日(土)・27日(日)には
メインイベント!
同時開催、同会場にて兼続どん丼まつり開催です!

ぜひオリジナルの美味しい丼をご賞味ください!

2009/09/18 22:49:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
天下分け目の関ヶ原合戦と時を同じくして、東軍方の最上義光と西軍方の上杉軍・直江兼続が出羽・山形で激突した「慶長出羽合戦」。この戦いは畑谷城・長谷堂城を中心に激戦が繰り広げられ、上山でも壮絶な戦いが行なわれました。

大河ドラマ「天地人」でもいよいよ関ヶ原の場面が登場し、この慶長出羽合戦も取り上げられることでしょう。
「慶長出羽合戦」で戦った最上義光や直江兼続についての講演会や展示会等が開催されます。貴重な資料も展示されますので、是非ご来場ください。

◎上山城 秋の特別展「兼続と義光とかみのやま」

▼会期:9月19日(土)〜10月18日(日)
▼会場:上山城特別展示室
▼入館料:大人400円(団体350円)、高・大学生350円(団体300円)、小・中学生50円(団体40円)※毎週土曜日は小・中学生無料

■講演会
 (1)「慶長五年の直江兼続」
      日時:9/20(日) 午後2時〜
      会場:上山城特別展示室内
      講師:阿部哲人氏(米沢市上杉博物館学芸員)
 (2)「慶長出羽合戦と虎将・最上義光の業績」
      日時:10/4(日) 午後2時〜
      会場:上山城特別展示室内
      講師:揚妻昭一郎氏(最上義光歴史館学芸員)
  ※上山城入館料が必要(聴講は無料)

■史跡巡り
    「米沢藩上杉家ゆかりの史跡を訪ねる」
      日時:9/26(土)午前8時30分〜午後5時
      案内講師:加藤和徳氏(山形県文化財保護協会理事)
      定員:20名(申込み順)
      参加費:4,000円(保険料・バス代・昼食代・拝観料含む)


▼お問合せ
  (財)上山城管理公社
   上山市元城内3−7  TEL&FAX 023−673−3660

...もっと詳しく
2009/09/17 20:30:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
【長谷堂合戦前夜の義光書状をめぐって】

 地方史書ではしばしば、長谷堂合戦前夜、慶長5年(1600)8月18日に最上義光が直江兼続に送ったとされる書状が取り上げられる。『上杉家記』に収められている文書で、ここに全文を掲げる紙幅はないが、要旨は「上杉に敵対する意志はない。嫡子義康を人質に出す。義光みずから一万の兵を連れて上杉の味方になる」という申し入れである。
これを根拠として、歴史家は次のように義光の心情までを想像する。
「これは無条件降伏にも等しいもの……義光なりの時間稼ぎの策謀でもあったようである」(『山形県史』第二巻P48)
「(義光は)攻撃の停止を哀願した。……泣きごととはいえ、当時の義光としては、こういわざるをえない心境だったろう」(誉田慶恩著『奥羽の驍将』P163)
 だが、この文書には大きな疑問がある。
 まず、もしこれが事実なら、上杉側にとってはまたとない好都合なことであり、当然その実行を迫るはずである。武力をちらつかせて申し入れの実行を強要されたなら、義光としては応じるほかなかっただろう。だが、上杉の強要も義光の対応行動も、それを物語る史料は見えず、程無く上杉の最上進攻が始まるだけだ。
 次に、この書状が実在したのなら、当然合戦にかかわった上杉方諸将の間に知れ渡っていたはずである。だが、かれら同士の交わした消息のなかに、義光の怯惰ぶりや変節を嘲笑非難するような文面は全く見当たらず、これを話題としたものも見当たらない。
 さらに言うなら、このような文書が実際に存在したなら、関ヶ原合戦後の論功において、当然大問題となるはずである。しかし、このような事が問題とされた形跡はどこにもない。参考までに一例をあげれば、秋田実季による横手小野寺(西側)攻めの日時が、関ヶ原合戦決着の前か後かというような些細なことさえ、大問題となったのであり、仮にも奥羽諸大名の統率者として家康の信任を受けた義光が、直江にこのような書状を送ったとあれば、ことは最上義光の人間的価値にまで関わるものとして、冷厳な家康の忌避排斥するところとなっただろうことは明白だ。50余万石大大名への抜擢など、とうていありえまい。
 「上杉家文書」は中世近世史の貴重な証言の一大集積であるが、この手紙はここには見えない。後代の史料類聚の類にも採られていない。義光の卑怯さを歴然と物語る文書が真実に存在したのなら、江戸時代を通して考証家の話題となっただろうし、上杉家としても当然長く保存して然るべきものであろう。にもかかわらず、この書状現物の所在は明らかでない。江戸時代の編纂になる『上杉家記』に、全文があるのを見るだけだ。
 他方、このような書状はなかったことを、消極的ながら傍証する文献がある。長谷堂合戦を上杉側に立って書いた『越境記』なる軍記物語である。直江兼続をはじめとする上杉諸将の姓名、兵力、動静、活躍ぶりなどに力点を置いたもので、当然最上方をおとしめて書いているわけだが、この文献でも義光の哀願、申し入れのことには全く触れていない。実在したものならば、これを大きく取り上げて義光を罵倒するのに打ってつけの史料となるのに、全く取り上げていないのである。ということは、取りも直さず、その書状がなかったことを物語るものであろう。
 いつの頃か、誰かの知恵によって、慶長5年8月18日付「義光の弱音を物語る手紙」は創作されたと結論づけるしかあるまい。したがって、安易に史料として引用することは、避けなければならず、この信憑性薄弱な史料をもって歴史を語り義光を云々することは、当然のことながら当を得ないこととなるだろう。
 例はこれだけではない。「血染めの桜」然り、義光によるいわゆる「一族掃討」然り、「最上家親の死去」にまつわる荒唐無稽の巷説また然り。最上の栄光と没落の歴史事実を、我々は確実な史料批判に基づいて、構築し直さねばなるまい。

■執筆:片桐繁雄(元最上義光歴史館事務局長) 
2009/09/14 17:55:Copyright (C) 最上義光歴史館
大河ドラマ「天地人」放送 記念講演
武てい式保存会 企画
川中島合戦フォーラム〜義の継承 開催!

日時 平成21年9月22日火曜日
   受付 午後1時 開会 午後1時30分 終了 午後4時予定
会場 伝国の杜 大会議室
入場無料 入場整理券が必要です。
     米沢観光物産協会で配布しております。

講演�機\鄰翕膵臉錣鯏舛┐�
    太平の江戸時代
    川中島合戦はどう語り継がれたのか
    さまざまな資料をもとに解明する。
 講師:米沢市上杉博物館 阿部哲人氏

講演�供‐綽�氏の川中島合戦
    12年続いた川中島合戦
    戦いはどのように変わっていくのか
    古文書を読み解き新たな合戦像を考える
 講師:上越市公文書館準備室 福原圭一氏

イベント:上杉まつり川中島合戦、武てい式の
     パネル展示、上杉まつりのビデオ放映

駐車場について
会場に駐車場がございませんので
臨時駐車場
公共機関、又はシャトルバスをご利用ください。

お問合せ、チケットのお取り寄せ
事務局/武てい式保存会・(社)米沢観光物産協会
    米沢市金池5−2−25 米沢市役所5F
    電話0238−21−6226
    FAX0238−22−9608
協賛 大河ドラマ天地人山形県推進協議会
2009/09/13 14:34:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
【江口五兵衛光清/えぐちごひょうえあききょ】 〜文武にすぐれた勇者〜

 「この城がほしいなら、戦って取るがよい。上杉の習いはいざしらず、最上の武士は最後の一人になろうとも、城を明け渡すことはないのだ。」
 慶長5年(1600)九月、最上領の最前線である畑谷城は、上杉二万余の大軍によって包囲された。城を守る最上の兵は、わずか3百数十人。城主は江口五兵衛光清である。
 上杉方の大将、直江山城守兼続は軍使を城中に送って、「無駄な戦いはやめて降伏せよ。かならず名誉ある処遇をする」と伝えたが、その使者に対して光清が敢然と言い返したのが、ここに紹介した言葉である(『奥羽永慶軍記』による)。
 上杉家の公史『景勝公御年譜』でも、江口五兵衛については絶賛を惜しまない。

 「城主は江口五兵衛道連(ママ)というものである。かねてから評判の忠信無二の義士であり、父子ともに立てこもった。信条ひとしき者は結束するというとおり、従う勇士はいずれも一騎当千の者ばかり、百余人ママが篭城した。直江山城守は諸将と相談して、なんとかして五兵衛父子を味方にしようと計略をめぐらしたが、江口は義士であり全く聞き入れなかった」

 義光もまた、上杉軍の襲来を前にして、
 「畑谷城のような山中の小城で戦ったとて、とうてい持ちこたえることはできぬ。急いで山形に帰り生死をともにせよ」

と再三撤退を命じたが、光清は、
 
 「常々この城をあずかっているのは、このような時のためでございます。いま危うい時に城を捨てたとあっては武士の名折れ。もとより一命を捨てる覚悟であるからには、ここで華々しく討ち死にし、忠義の心を後世に残す所存でございます」

と、いっこうに従おうとしなかった。
 義光は見捨てることはできぬと、飯田播磨守、谷柏相模守、小国日向守らの援軍を派遣したが、その甲斐もなく、畑谷の孤城は9月13日に落城、全員城を枕に討ち死にを遂げた。玉砕であった。時に光清55歳。ともに討ち死にした一族は、次男小吉23歳、甥松田久作(一書に忠作)40歳。彼らの奮戦ぶりは江戸時代に書かれた軍記物語に詳しいが、もちろん、想像をたくましくした部分もあるだろう。
 援軍としておもむいた飯田相模守も、乱戦のなかで戦死した。その首を取り返そうと、引き返して戦った谷柏相模守の友情も、多くの軍記物語の語るところだ。
 兼続は、9月15日付け、僚友秋山伊賀守あての手紙で、

 「去る十三日、最上領畑谷城を乗り崩し、撫で斬りを命じて、城主江口五兵衛父子含めて、首を五百余り討ち取った。簗沢の城も空け逃げ、在々(村々)に放火し、昨十四日には最上の居城に向かい陣を構えている……」

と書いた。「撫で斬り」とは、刃にあたる者皆殺し、の意。壮絶、悲惨な戦いであった。
 慶長出羽合戦の「悲劇の城」。それが江口五兵衛の畑谷城だった。
 ところで、この光清はただ勇敢・信義の武人というだけではない。古典文芸に通じ、すぐれた感性をもった人物だった。そのことは、残された連歌作品や手紙から明らかに見て取れる。
 連歌についていえば、文禄から慶長初年にかけて、彼が連なった連歌は、現在確認されるだけで14巻、句数は76句である。
 その最初、文禄2年(1593)2月12日の連歌では、5句が選入された。

   秋の雲まよふあとより晴れ渡り  禅昭
   つばさ離れず雁わたる空     光清

 秋空に浮かぶちぎれ雲が行方さだめず流れ去り、しだいに晴れていく。これが山名禅昭の句。これにつけた光清の句は、そのあとの晴れ渡った空を、雁の列が渡っていくという景である。「つばさ離れず」が仲良く助け合って旅をする雁の姿を描いて、いかにも温かい。これに、景敏が付けて、視点を色づきはじめた田圃へと移した。

   はるかなる田づらも色になりそめて 景敏

 景敏は連歌の大家として、義光はじめ最上一族と深い交流があった。慶長4年10月以後に改名して里村昌琢を名乗り、後水尾上皇から古今伝授をうけた。後に江戸幕府の連歌所の宗匠として重きをなした人物である。寛永13年(1636)2月に63歳で没した。
 江口光清は、このような一流文人たちと一座して、奥深い文芸の世界に心をあそばせることのできる武人だった。単なる武骨な田舎ざむらいではなかったのである。
 手紙では、光清が僚友加藤掃部左衛門にあてた一通が、山形市村木沢の旧家、加藤家に秘蔵されている。
 掃部左衛門が村木沢の一部「悪戸」というところに館を構え、堀を掘りめぐらしたことを「むつかし」いこと、つまり「結構でない」と言い、悪戸に住まいする衆は、村木沢衆と上手に付き合わなければ立ち行かぬ、その点にじゅうぶん気配りをしてほしいと、懇切な忠告を与えた手紙である。「四月二日」の日付はあるが、年次はわかっていない。推定では慶長2年7月以後、戦死するまでの3年余の間だろうと思われる。
 文武両道にすぐれた勇者、名誉ある死をとげた江口光清のことは、畑谷落城の悲話とともに長く人々に語り継がれている。
 戒名は清浄院殿江月秋公大居士。山辺町畑谷の、古城跡を眼前に見上げる長松寺の境内に、彼を弔う古い家型塔婆がある。墓地の一画には彼を讃える漢詩を刻んだ石碑がたち、1999年の秋四百年忌を修して建立された五輪供養塔がある。
 人柄といい、戦いぶりといい、彼のことは末長く語り継がれることだろう。
■■片桐繁雄著
2009/09/11 14:08:Copyright (C) 最上義光歴史館
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・線香花火:新潟市
・長岡のぎんなんようかん:長岡市
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兼続丼(うこぎそぼろと玉子と牛肉、豚肉、リンゴのそぼろ三色丼)

越後 鮭いくら丼


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主催 米沢観光物産協会


2009/09/10 00:26:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会

山本寺景長(さんぽんじかげなが):1550〜1582
  一門衆。不動山城主山本寺定長の弟。天正6年の御館の乱で、定長は上杉景虎に味方したため景勝軍に敗れた。弟景長は上杉景勝に味方し活躍した。
  天正8年(1580)景長は兄定長のあと、山本寺家を継ぎ不動山城主となった。
  天正10年(1582)織田信長の攻撃を受けて魚津城は落城し、景長は竹俣慶綱、吉江宗信、吉江信景、安部政吉らとともに自刃した。


直江信綱(なおえのぶつな):?〜1581
  譜代・旗本衆。上野国総社長尾顕景の子。与板城主直江景綱の娘お船の方の婿となる。上杉景勝の奉行職。
  天正9年(1581)春日山城中で、御館の乱の論功行賞のもつれから、毛利秀広が山崎秀仙を斬殺。秀仙と一緒にいた信綱はとっさの出来事に驚き、秀広に斬りかかったが、逆に斬殺されてしまった。


泉沢久秀(いずみさわひさひで):?〜1615
  上田衆。上杉景勝の直臣。慶長3年(1598)景勝の会津移封に伴い、荒砥城1万1千石の城代となった。
  慶長6年(1601)米沢移封により2千8百石を知行した。元和元年(1615)死去。嗣子が無く泉沢家は断絶。


甘粕景継(あまかすかげつぐ):?〜1611
  上杉景勝の景の一字を賜わり、名を備後守景継と改める。
  文禄2年(1593)庄内酒田城主となった。慶長3年(1598)景勝の会津移封に伴い、2万石の白石城主となる。慶長16年(1611)死去。墓は米沢市林泉寺にある。


鉄 景信(くろがねかげのぶ):?〜1597
  もと上田坂戸城主長尾政景の家臣。政景死後、上田衆を掌握して領内を治め、景勝が謙信の養子となると側近として春日山城へ移り、謙信に従属、戦功を挙げた。
謙信死後は景勝の直臣となり、上田衆を率いて五十騎組の精鋭を作り上げた。


河田長親(かわだながちか):1545〜1581
  上杉謙信の重臣。永禄12年魚津城主となり越中守将を統括した。天正9年(1581)4月8日、魚津城で死去。


吉江宗信(よしえむねのぶ):1505〜1582
  譜代衆。謙信、景勝二代に仕える上杉家重臣。蒲原郡吉江城主。景勝時代には老齢となり留守城在番となる。
  天正9年(1581)河田長親病死により越中魚津城在番となるが、翌天正10年(1582)、信長軍に包囲され越中魚津城で自刃した。


吉江景資(よしえかげすけ):1527〜1582
  譜代、旗本衆。吉江城主で謙信の旗本として春日山城の留守を預かった。
  天正6年(1578)の御館の乱では上杉景勝方として軍功をたてる。
  天正9年(1581)から越中魚津城守備に付くが、翌10年、信長の攻撃を受け、父宗信と共に自刃した。


菅名綱輔(すがなつなすけ):?〜1582
  越後国衆。菅名但馬守。上杉謙信・景勝に仕える。御館の乱では、景虎方の拠点となった加茂城を攻め落とした。
  のち新発田重家の乱でも奮戦したが、放生橋の戦いで討死した。


本庄繁長(ほんじょうしげなが):1539〜1613
  揚北衆。元服と同時に家督を相続し本庄城主となる。
永禄11年(1568)信玄の調略に応じた繁長は上杉氏から独立を目論むが、謙信の猛攻を受け、嫡子千代丸(後の顕長)を人質に降伏。
  御館の乱、新発田攻め、最上攻めで活躍するも恩賞はなかった。
  慶長3年には1万1千石の福島城主に任ぜられる。家康との和睦交渉をまかされ、上杉家は改易を免れた。
  慶長18年(1613)死去。享年75.嫡男顕長が先立って死去しているため、家督は次男義勝が充長と改名し相続した。


中条景泰(ちゅうじょうかげやす):1558〜1582
  吉江景資の次子。謙信より一字を賜わり景泰と名乗る。天正2年中条家を相続し鳥坂城主となった。天正10年越中魚津城で自刃。享年25。


水原親憲(すいばらちかのり):1546〜1616
  大関阿波守親信の子、弥七郎。謙信・景勝に仕え水原家を相続。慶長3年、5千5百石で亀ヶ城主(猪苗代城)となった。
  最上攻めでは兼続の本隊に属し畑谷城、長谷堂城を包囲。上杉軍の撤退に際し殿軍を務め活躍した。
  慶長6年には会津三奉行に任ぜられる。慶長19年の大坂冬の陣にも鉄砲隊を率いて参陣。元和2年(1616)死去。享年71。


竹俣利綱(たけのまたとしつな):?〜1614
  揚北衆。竹俣城主竹俣慶綱の嗣子がなかったため、長尾景人が竹俣城主を相続し、利綱と改名した。
  会津移封に伴い守山城主となり、米沢城に移り慶長18年死去。


市川房綱(いちかわふさつな)?〜1657
  竹俣利綱の遺領を相続した房綱は、慶長19年の大坂冬の陣と元和元年大坂夏の陣に出陣。寛永9年(1632)江戸家老になった。寛永12年には米沢藩の奉行も務め2千石を知行した。明暦3年(1657)死去。


下条忠親(げじょうただちか):?〜1617
  河田長親の次男。慶長3年景勝の会津移封に従って二本松城主となる。慶長6年米沢移封に同行。慶長13年鮎貝城主となり慶長19年の大坂冬の陣に参陣。元和3年(1617)死去。


新発田長敦(しばたながあつ):1538〜1580
  新発田綱貞の嫡男、源次郎。新発田城主。新発田重家は弟。謙信・景勝に仕える。
  御館の乱では景勝を支持し、揚北衆の取りまとめと景虎与党の鎮圧に活躍した。天正8年(1580)病死。


色部顕長(いろべあきなが):?〜1587
  色部勝長の嫡男、弥三郎。平林城主。天正4年家督を弟長真(長実)に譲り隠居。天正15年死去。


色部光長(いろべみつなが):?
  色部長真(長実)が死去すると、幼少の光長が家督を相続。直江兼続の妹(樋口兼豊の二女)を妻に迎える。慶長3年1万石の金山城主となる。慶長6年米沢城下に移り3千3百石を知行。大坂冬の陣にも参戦。


甘糟長重(あまかすながしげ):?〜1604
  謙信・景勝に仕える。景勝の命で三条城主となり、天正14年新発田攻めに参陣。景勝に従い慶長3年会津、慶長6年米沢へ移る。慶長9年死去。
  墓は米沢市栄松寺にある。


千坂景親(ちさかかげちか)1536〜1606
  千坂氏は上杉家直臣で、文禄4年伏見普請総奉行を務め、慶長3年会津移封で5千5百石を知行。慶長8年江戸家老を務め、慶長11年死去。


斉藤朝信(さいとうとものぶ):?〜1591
  赤田城主。謙信・景勝に仕える。天正6年御館の乱で軍功をたてた。天正9年(1581)越中魚津城に入ったが、翌10年には信濃海津城に移った。天正19年死去。


志駄義秀(しだよしひで):1560〜1632
  義秀は直江兼続家臣団の与板衆として活躍。慶長3年会津移封に従い酒田城主となった。慶長6年には荒砥城主となり、1千石を知行した。元和8年(1622)米沢城で奉行職となる。寛永9年(1632)死去。墓は米沢市善光寺にある。享年73。


本村親盛(ほむらちかもり):?〜1600
  最上義光攻めの第二弾として上山城を攻めたが、途中、物見山山麓において最上方の奇襲を受け、大敗を喫した。自身も深田にはまって苦戦し、討死した。
     関連史跡:大将塚(埋葬地/上山市)


横田旨俊(よこたむねとし)?〜?
  旧蘆名家臣。主家没落後、越後にきて上杉家に仕えた。会津移封にあたって、対最上の最前線となる中山城主となる。慶長出羽合戦の際は、第二陣として上山城攻略に向かうが、本村隊の敗北を受けて退却した。戦後も中山城主として対最上の防衛に任にあたった。
     関連史跡:中山城址(上山市)


倉賀野綱元(くらかのつなもと):?〜?
  小滝城主。慶長出羽合戦では、別働隊約8百を率いて進軍し、狸森楯(上山市)を攻略、長谷堂城を取り囲む本隊と合流した。


安部綱吉(あべつなよし):1569〜1646
  菅原内膳の子、右馬助。父は越後安部荘を領していたが、本庄繁長と戦い討死した。そのため各地を渡り歩き、出羽国北条郷の宮内に落ち着いたという。
  慶長出羽合戦では、倉賀野綱元の配下として参陣し、長谷堂城の戦いで武功を挙げた。その後、北条郷の代官となり、宮内の町割りや新田開発、治水事業に尽力した。また金山奉行として金山の経営も任された。
     関連史跡:熊野大社・安部右馬助の顕彰碑(南陽市)、綱正寺(墓/南陽市)


溝口勝路(みぞぐちかつはる):?〜1600
  左馬助。慶長出羽合戦では軍奉行を務めた。撤退に際しては水原親憲とともに殿軍として鉄砲隊を指揮、親憲は富神山東麓、左馬助は柏倉中林山に布陣し、追撃に出た最上軍と激戦を展開した。勝路はこの戦いで重傷を負い、夜営した長岡楯にて息を引き取った。
     関連史跡:長岡楯跡(山形市)


鉄 泰忠(くろがねやすただ):1564〜1635
  島倉泰明の子。鉄景信の養子となる。孫左衛門、上野介。会津神指城築城の総奉行を努めた。慶長出羽合戦では、第一陣として参加。大坂冬の陣では軍奉行として武功を挙げ、徳川秀忠かた感状を受けた。江戸城の石垣普請や堀普請の総監も務めた。
     関連史跡:神指城址(会津若松市)


下 吉忠(しもよしただ):?〜1614
  父・秀忠は北条氏の家臣で、小田原征伐の際に戦死。その後、吉忠は上杉家に仕えて頭角を現し、出羽庄内の尾浦城主となった。慶長出羽合戦では、別働隊を率いて庄内から最上領に侵攻したが、直江兼続率いる上杉軍本隊の退却を知らされず、谷地城に孤立し、最上義光に降った。その後、最上軍の庄内攻略戦に先陣として参加、引き続き尾浦城主に任じられた。
     関連史跡:尾浦城址(鶴岡市)


伊東豊後守(いとうぶんごのかみ):?〜1600
  九州日向国の領主だった伊東家の一族である。島津家と協力関係にあったため、1587(天正15)年、豊臣秀吉による九州平定によって所領を失ったが、その後蒲生氏郷に仕えて中津川の岩倉館に入った。氏郷の死後は上杉家に仕え、豊後守・日向守親子が18名の家臣を率いて最上の陣に参戦するも、豊後を含む18名が八ヶ沼の戦いで戦死。家臣の山川儀助と日向守の二人だけが帰還できた。


2009/09/08 23:20:Copyright (C) 戦国観光やまがた情報局
「よねざわ上杉戦国絵巻夜の陣」予告チラシ第2弾完成!
詳細情報を掲載しております![

PDFファイルにてダウンロードできます。
第2弾チラシ裏面PDFファイル

第1弾チラシ裏面PDFファイル

第2弾チラシ裏面には
◇シャトルバス情報
 合戦会場、置賜総合支庁(臨時駐車場)
 札の辻(上杉神社近く)の3箇所をシャトルバスで運行!

食の陣!
「牛牛まつり」開催!
牛串、芋煮、とろべこ汁などの米沢牛にこだわった
美味しいものをはじめ
生ビール、上杉直江関連グッズの楽しいテント村!
お得な前売りチケットも発売中!

ステージイベントでは
よさこい、米沢牛ステーキの振る舞い!
三味線ライブ!

夜の陣
オープニングセレモニー
あき竹城さんご挨拶!

松が岬公園周辺イベント
9月25日(金)天地人公演 宝船ツアー
       よねざわ上杉戦国絵巻夜の陣前夜祭
       愛と調和と情熱のソウル&ビートユニット
      「天地人」によるコンサート

9月26日(土) 兼続どん丼まつり
       松岬神社秋季大祭
       女流講談師 神田紫 エコ講談

9月27日(日) 兼続どん丼まつり
       棒杭市2009
       直江兼続公墓前祭
       大河ドラマ天地人記念
       全国まちづくりシンポジウム 
       ゆるキャラまつり!      

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2009/09/03 22:50:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
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