戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

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メンテナンスのお知らせ

平素より、当ホームページをご利用いただきまして 誠にありがとうございます。

ただいま、メンテナンスにより ホームページを閲覧できない状態になっております。
アクセスをいただいたお客さまには 大変ご迷惑おかけしていることを お詫び申し上げます。

なお、お急ぎの方は、電話にて お問い合わせいただきますようお願い申し上げます。

戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

〒992-0012
山形県米沢市金池7丁目1-50
TEL:0238-26-6046
FAX:0238-26-6047

:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

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戦国観光やまがた情報局
キタル4月1日にHPをリニューアルします。ブログじゃなくて
天地人・上杉の智将 直江兼続(http://www.yonezawa-naoe.com/)
が米沢ゆかりの戦国武将HPに!!このサイトをみれば、すべてが分かる!?
って、ハードル上げすぎかなf^_^; でもそんなサイトにしたいんです。
当然『戦国の杜』の情報もてんこ盛りでお伝えします。
怒られそうだな〜関係している方々に・・・。
でもそうしたいんです。この場で皆さんにお伝えしますね☆

気になる方は、コチラから『天地人・上杉の智将/直江兼続』
2010/03/28 14:52:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
3月14日に吉祥寺で行われた『吉祥寺かぶきまつり』にいらした慶次と松風が、
米沢『戦国の杜』に参戦していただくことになりました。簡単に言えば展示ですか・・・f^_^;

常設にて皆様のお越しをお待ちしております。
たまに、気まぐれなのでお出かけする日もあるようです。そのときは、スケジュールHPにアップします。
記念撮影オッケーなんで、バシバシお願いします。

参戦楽しみッス(^_-)-☆

2010/03/28 14:31:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
「米沢上杉まつり」まで、あと1ヶ月ほどとなりました☆
毎回おまつりの前には、JR米沢駅(1番線ホーム)・福島駅(東西自由通路)・伝国の杜(正面入口前)に協力していただき、
おまつり告知PR看板を設置しています。
なんと今回は上杉まつりに加え、「戦国の杜 武士(もののふ)の時代」も一緒にPRしちゃいます♪

皆さん、ディスプレイを見かけたらじ〜っくり見物してください(^^)

コチラ福島駅です。見切れちゃってゴメンナサイ。

2010/03/28 10:12:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
「後日アップします。」と約束していた「名古屋おもてなし武将隊」と撮影した『かねたん』『おせんちゃん』の写真です☆

「ハイ チーズッ!」と言うことさえ、とっても緊張しました。

同じく緊張して、後ろに隠れてた『おせんちゃん』。。。
頑張って顔を出しました♪
『かねたん』は緊張せず、余裕?の笑顔です!!

良い思い出になりました。
「名古屋おもてなし武将隊」の皆さん、ありがとうございます(^^)


...もっと詳しく
2010/03/26 12:42:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
先日、『戦国の杜』のためのマーケティング講座が行われました。
春のGWに、米沢へ300万人来たとしたら、どのようなコトを行ったのか?
なんて、題材で行われました。ニュアンス間違ってたらごめんなさいf^_^;
和気あいあいと時間が過ぎましたが、秀逸な提案が多く(^_^)☆ヤバいっす。
ホントに、人と話すのって楽しいって思える講座でした。
また、テーマを変え『戦国の杜』講座開催しますので、皆さんの参加をお待ちしております。
昨日ブログ休んでm(__)mでした。いやいや。
2010/03/25 12:54:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
3月20日・21日と名古屋に行ってきました。
今回は『かねたん』と『おせんちゃん』の付き人として、イベント参加です☆

「ゆるキャラ大集合」に参加するため、他のゆるキャラ達と一緒に整列して?ステージに参戦してきました。
 お客さんに『かねたん』達のイラスト入りハガキを配ろうとしたところ・・・「キャーッ」とすごい歓声が!!!
たくさんの方に手を伸ばしてハガキを受け取っていただき、感激でした。

今回は何と!かの有名な『せんとくん』も一緒に「ゆるキャラ大集合」に出演。サービス精神旺盛なとっても優しい子でした。テレビで見ていた彼に会えてテンションが上がりっぱなし。。。

そしてもちろん、「名古屋おもてなし武将隊」のステージもありました☆
『かねたん』と『おせんちゃん』は、織田信長さまとスリーショットで写真を撮ってもらっちゃいました。後日アップしますね。

私も・・・と思いましたが、あまりのかっこよさに緊張して声をかけられずf^_^;

次に会える機会があったら是非!!今回のイベントには来ていませんでしたが、前田慶次さまもかなり素敵な方なんだって☆『おせんちゃん』とガールズトークで盛り上がりました♪

そしてそして「名古屋おもてなし武将隊」のブログに「かねたん」が載りましたよ〜!!
嬉しいですね(^^)

『おもてなし武将隊ブログ』コチラです。

2010/03/23 21:26:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
明日は、このホームページでもお世話になっているステップアップさんに御協力を頂き、戦国の杜について熱く語り合います。
この『戦国の杜』は、観光客の方々に楽しんでもらうだけじゃなく、当然市民の方々にも楽しんでもらう場であり、なおかつ色んなとこと連携を図り中心市街地を賑やかにするって目標もあるんです。ハードル高すぎですf^_^;
でも、やるんです。やるからには、楽しいものにしたいです(^^ゞ
皆さんとお話しする機会をたくさん設けていきたいと思いますので、その節はよろしくお願いします。

【戦国の杜マーケティング大作戦】
 3月23日です。訂正です(-_-)
2010/03/22 18:54:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
上杉神社の目と鼻の先に松岬神社(まつがさきじんじゃ)があります。
こちらは、米沢を造り支えた米沢藩初代藩主 上杉景勝、そして景勝を支え米沢の基盤をつくった直江兼続、中興の祖 上杉鷹山、鷹山の師 細井平州、鷹山の下で活躍した竹俣当綱・莅戸善政の6人が祀られております。
上杉神社にお寄りの際は、ぜひ松岬神社にも参拝ください。
ホントをいうと、松岬神社から参拝を(*^^)v
名古屋の旅まつり盛況でした。情報アップしますので少々お待ちを。
2010/03/21 23:10:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
米沢って言ったらココでしょ。上杉神社!米沢城の城跡です。
上杉謙信公が祀られております。
知ってますか、米沢の小中学校の体育館には上杉謙信公と上杉鷹山公の肖像画が掲げられてるって。なかなか無いでしょ学校に・・・。
今度、画像アップしますね。初代米沢藩主の景勝公の影が薄く思えるのは、自分だけでしょうか(^_^;)
2010/03/21 00:40:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
明日から3月20・21日と二日間名古屋の久屋大通公園久屋広場にて行われ、米沢から我らが『かねたん』と『おせんちゃん』が出張します。
ステージイベントあります。詳細コチラ↓
20日
14:30〜 ミニステージ
16:50〜 ゆるキャラ大集合
21日
 9:50〜 ゆるキャラ大集合
11:00〜 ミニステージ
15:00〜 ミニステージ

戦国楽市楽座でも、お見かけした『名古屋おもてなし武将隊』も出演!
緊急雇用対策ってホント?楽しいので必見です。

名古屋おもてなし武将隊ブログ







2010/03/19 20:27:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
昨日の夜の分を取り返すべく再アップです。
最近パチンコ屋さんに導入されたそうです。『花の慶次 愛』が!!
有名な直江兼続の愛の前立てが、ガンガン可動するそうです。
アタリに近い時だけの様ですが・・・。
舞台も、佐渡攻め等らしくグングンと米沢の舞台に近づいてますね。
お試しいただきたいのですが、財布と相談しましょうね。それと、18歳未満は絶対ダメね!

2010/03/19 12:34:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
いやー昨日は、夜ブログアップできませんでした。
ネタもないんですが、疲れが・・・。
今日の画像は、吉祥寺かぶき祭の等身大の前田慶次&松風です。
いや〜筋肉隆々のいいお尻してますな〜。
慶次のマントに『大ふへん者』ってあったら、もっと良いのに!
もしかしたら、米沢でお目にかかれるかも・・乞うご期待!!
2010/03/19 12:25:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
【野辺沢能登守満延/のべさわのとのかみみつのぶ】 〜最上家随一の豪傑〜
   
 数多い最上家臣のなかで「豪傑」として名をあげるなら、トップはやはりこの人物ということになろうか。
 山形両所宮の鐘を1人ではずし、鶴子(尾花沢市)までもっていったという伝説がある。また、剛力ぶりを試そうとした主君義光が、逆に彼から追われて逃げ、桜の古木にしがみついた。満延がそれを引き離そうとしたら、木が根こそぎ抜けてしまったというお話もある。
 中山町長崎円同寺の釣り鐘(長谷堂清源寺蔵。県指定文化財)をかぶって運んだという伝説も、現物があるだけにおもしろい。かぶっても目が見えるように鐘乳を1個もぎ取ったという穴が、その鐘にはあいている。さらに、この人物は只人ではない、天人が生んだ子供なのだなどという話まで作られた。それだけ、彼の豪力は広く知られていたのだろう。
 もともとは、尾花沢市野辺沢(現尾花沢市延沢)に城を構えていた豪族で、本姓は「日野」だったらしい。14世紀に東根を支配した平長義につながるとする説もある。
 元亀元年(1570)以後の数年間、天童氏を中心とした北部の豪族グループは、出羽南部を統一しようとする最上家に、結束して抵抗していた。
 山形の軍勢が攻め立てても、舞鶴山の要害にたてこもった同盟軍は、頑強に抵抗をつづけた。さすがの山形勢も、ともすると追い立てられがちだった。
 それというのも、軍略にすぐれ、そのうえ、5尺の鉄棒を振り回して縦横無尽に戦う豪傑満延がいるからだ、なんとかせねばと義光は、譜代の重臣氏家守棟の意見を聞く。氏家はここで「野辺沢の息子と最上の姫君を結婚させて、親類になったらいかが」と進言した。
 当時、政略結婚は、大名同士、豪族同士が戦争を避ける方策として、重要な役割をになっていた。当事者はもちろん、一般民衆も、これで戦いがなくてすむのだから、望むところだった。
 義光は、満延の嫡子又五郎に長女松尾姫を与え、息子同然に扱うことを約束する。
 満延は、義光が自分を高く評価して、息子に娘をくれるとは「弓矢取る身の誉れ」と、ひじょうに喜んだ。こうして野辺沢は同盟から離脱する。
 この婚約がいつなされたのか、正確なことはわからない。かりに天童氏が逃亡した天正12年(1584)だとすると、又五郎は3歳、松尾姫は7歳だったことになる。これは、2人の没年と年令からさかのぼっての推定である。
 幼い者同士の婚約で、野辺沢が山形側につくと、同盟はたちまち崩壊してしまう。
 支えを失い、孤立した天童頼久(頼澄)は、最上勢の攻撃の前にあえなく城を捨てて奥州国分氏をたよって逃亡してしまう。満延は、義光側近の重臣となって、野辺沢2万石を与えられる。
 天正18年、義光は軍勢をつれて上京する。そのときは満延が先駆けをつとめた。翌年の正月に、義光は従四位に叙され侍従に任じられた。全国諸侯と同様、豊臣政権の一翼に編入されたわけだ。京都での勤めを終えて帰国する矢先に、満延は病に倒れる。
 『延沢軍記』などによると、意識は正常だったが、運動機能が思うに任せぬ病状のようで、あるいは脳梗塞に冒されたのではないかと思われる。口から出る言葉も、とぎれとぎれだった。
 「ご家来に加えていただいてから、殿のご恩は数えきれない程でございます。このたびのご上洛にも先駆けを仰せ付けられ、まことに名誉なことでございました。それなのに、ご帰国というときに、このような病にかかり、お供できないのは不忠のいたり、まして私の病気ゆえに出発を延期してくださったご恩は、とうてい忘れることができません。どうぞ一日も早く国元へお帰りなって、まつりごとをなさってください。もし、これが永遠のお別れとなりましたならば、くれぐれも又五郎のことをよろしくお頼み申し上げます」
 満延の言葉に、義光も涙ながらにこう言い聞かせた。
 「病気のそなたを置いて帰国するのは本意ではないが、そなたも言うとおり国元の政治も大事だし、秀吉公へも帰国の届けを出したこととて、そう延引もできないのだ。又五郎のことは決して粗略にはせぬ。くれぐれも大切に養生してくれ」
 そう語り聞かせて、在京中の費用と療養費を過分に与えて、後ろ髪引かれる思いで帰国の途についたのだった。
 3月14日、彼は京都で客死する。遺骸は知恩院に葬られた。報せを聞いた義光は、ことのほか悲しんで落涙したという。主従として、人間として、あたたかい心のつながりのあったことが実感される。
 娘婿となった又五郎を、義光がたいそう可愛がったことは、義光が九州名護屋から在山形の家臣伊良子信濃あて、文禄2年(1593)5月18日の手紙からうかがわれる。
 「野辺沢家内、おのおの堅固のよし、文見申し候て満足申し候。いつかいつか下り申し候て、又五郎夫婦のもの、見申したく候」
 このときまでに、2人は祝言をすましていたのであろう。年若い娘夫婦をいつくしむ父親義光が、ここにはいる。
 又五郎は、父の跡を嗣いで野辺沢2万石を領する。遠江守康満を名乗っていたが、後で義光の一字を拝領して「光昌」と改名し、最上一門の家老格となる。妻となった松尾姫は、しかし、慶長11年4月1日、29歳で短い生涯を終えた。
 ちなみに、尾花沢では例年能登守祭りを開催して、戦国の豪傑をしのんでいる。
■■片桐繁雄著

2010/03/19 11:53:Copyright (C) 最上義光歴史館
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【鮭延秀綱 (4)】

2、仙北紛争期(天正末)における鮭延秀綱の動向


 天正十八年は最上家にとって一つのターニングポイントとも言うべき年であった。小田原攻略を以って抵抗勢力を沈黙させた秀吉は、その後奥羽諸大名に対する知行割を行った。最上家はその時点で所領を安堵されたと見られるが、それは最上家が全国的な統一政権組織の一部に組み込まれた事を意味した。さらに秀吉は、前田利家・上杉景勝らに奥州仕置を命じ、奥州の内陸中央道沿い、日本海岸沿い、太平洋岸沿いの三手に分けて仕置軍を進発させた。最上家は中央道の先鋒を命ぜられ、鮭延は中央道仕置軍を先導する事になった。仙北情勢に精通し、幾度も仙北地方に攻め入った経験のある鮭延秀綱は、仕置軍の先導役として最適の人物であっただろう。

 九月に入ると、検地に反対した庄内・由利・仙北の国人・土豪衆が一揆を起こして検地の推進を阻む事態となった。仙北進出の機会を窺っていた義光にとって、この一揆鎮圧は恰好の大義名分となったのである。そもそも、惣無事令下にありながら天正十六年に庄内を上杉に切り取られた上、天正十八年に上杉景勝に対して秀吉の朱印状(注20)が与えられ上杉家の庄内支配が追認された事で、最上家の庄内領有は事実上不可能となっていた。ゆえに、最上家がこれ以上領土を拡張するためには、当時未だ支配体制が脆弱であった仙北小野寺領に食いこむ必要があったのである。

 仙北検地における鮭延秀綱の動向及びその周辺の事態の推移を簡単に追ってみると、まず鮭延は一揆鎮圧を名目に寒河江光俊を伴って湯沢城に入城したようだ。十月廿二日付の文書に鮭延の湯沢在陣が記されているので、湯沢入城はそれ以前に行われたものとみられる。

   別而申上候、明日豊後・大和方可指越申候へ共、一刻も急申度候間、
   申事候、湯澤地ニ鮭延殿在陳条、就之地下之者共、機遣令申候、
   色邊殿より御音信候而被罷帰候様ニ御取成可被成之候、
   萬々重而可申上、恐惶謹言、
         横手宿老中
    十月廿二日  惣判
       康道様へ
        参人々御中 (注21)

 それと前後して、日本海側を進んだ上杉・大谷軍も庄内から由利を経て仙北に入った。上杉勢は大森城に入城し、色部長真がその責任者となっている。最上勢の湯沢在陣に危機感を抱いた小野寺家老達は、当主小野寺義道の弟康道をして色部長真に鮭延の退去を働きかけたことがこの書状から読み取れる。なお、小野寺は寛永十年に幕府に対して提出された書き上げにおいてその不当性を主張しているが、その書付によれば、鮭延は「湯沢城の城番が一揆を起こした」という大谷吉継の言を根拠として湯沢城に入ったようである。ともあれ、小野寺からの通達を受けた色部長真は、鮭延に幾度か退去する旨伝えたようであるが、残念ながらその書状は残存していない。ただ、その伝達に対する鮭延の返答が計三通残っている。十月廿三日付の返答(注22)においても「大谷吉継の指図によってやむなく在陣した」との主張があり、実際にそういった命令があったかどうかは不明であるが、鮭延が検地代官の権威を大義名分とし湯沢に駐留したことは確かなようである。

 この数度にわたる色部の働きかけに鮭延は態度を軟化させ、同月廿五日付の色部長真に対する返答(注23)では「近く帰国する」と伝えるに至った。この頃になると仙北の一揆も下火になったと見られ、湯沢在陣の理由を失いかけた鮭延ら最上勢はほどなく帰国の途についたようである。しかし、その後、上洛中の義光による工作が効を奏したとみえ、翌天正十九年一月に発給された小野寺氏に対する宛行状(注24)には「上浦郡三分二、三万千六百石」との記述があり、のこり三分の一は最上氏に対して与えられたものと考えられる。秀綱はこの新領地の管轄を義光から任せられていたようで、上浦一郡が最上氏の所領になった旨郡内に伝達する事を色部に対して知らせている(注25)が、色部は京都及び大谷吉継よりその報が無いとしてそれを否定した(注26)。当地の土豪衆もその報せに驚き、小野寺領内に退去する者が少なくなかったという。それに対して鮭延秀綱・氏家守棟は、色部長真にその対策を講じるよう主張している(注27・28)。公権力を背景に交渉を進める最上に対し、ついに色部は屈し、その土民達の帰還を約定したのである(注29)。だが、この強硬な上浦郡(雄勝・平鹿郡)領有が火種となってしばらくの間仙北地域は最上軍と小野寺軍の衝突の舞台となるに至った。

 ここにおいて、鮭延秀綱は奥州検地紛争において一貫して主責任者の立場にあった事が注目される。最上家にとって仙北問題は当時の最重要案件とも言うべきものであり、一連の紛争において一時的とはいえ小野寺氏の重要拠点であった湯沢城を占拠し、翌年には上浦郡の領有を色部―上杉氏に認めさせた功績は最上家にとって多大なものだったと推測される。鮭延秀綱は、この時点で仙北問題のスペシャリストとして最上家内に大きな存在感を示していたと見てよいのではないだろうか。

 その後幾度かに渡って繰り返された仙北侵攻においてもその認識は継続しているように見える。文禄以後、最上勢は数度にわたって仙北へ侵入している。根本史料は存在せず、『奥羽永慶軍記』の記述を頼りにせざるをえないが、

   最上義光は山北小野寺義道を討んと、幾度か勢を催し攻るといへども、
   (中略)
   左あらば勢を指向んと、三男清水大蔵大輔義之・楯岡豊前守義満ヲ
   大将として、相従ふ兵には一族延沢遠江守光信・長瀞内膳忠・
   上野山越後守・鮭延典膳・(後略)(注30)
  
  (前略)去程に最上の先手鮭登典膳四ッ目ノ旗押立、(後略)(注31)

 天正末か文禄初めかは判然としないが、いずれにせよ清水・楯岡の最上一族衆が大将を務め、鮭延が先陣を承っていたことがわかる。年次は下って文禄四年の最上勢による湯沢攻めの記事には、

   文禄四年八月最上義光の臣鮭登先達て下りけるが、
  (中略)先是を攻んとて、最上よりの大将に楯岡豊前守、
   先手は鮭登典膳其外小国・延沢(後略)(注32)

 とあり、文禄四年の仙北攻めにおいても楯岡が大将、鮭延が先陣という形は変わっておらず、数度に渡ったとされる仙北侵攻では、かかる人材運用が固定化された可能性を指摘できる。この点から見ても、文禄年間に義光は、鮭延秀綱に対して、最上家の仙北問題における最重要家臣の一人として位置付けを認めていたと考えられるのである。

 余談となるが、興味深い記述が『奥羽永慶軍記』「最上義光・伊達政宗閉門事」に存在する。豊臣秀次に連座させられた駒姫の死を恨みに思った最上義光が、伊達政宗と語らって秀吉に対して謀反を起こそうとしているという讒言があり、最上・伊達が閉門させられたという記事であるが、その中で、「両家の郎等延沢能登守・鮭登典膳・遠藤文七郎・原田左馬介・片倉小十郎等の傍若無人の者共一揆を起し、所々の手を定め京・大坂を焼払ひ、」(注33)という噂が京・大坂の民衆達の間に流れた、という記述がある。この記述が事実かどうかは定かではないが、遠藤文七郎・原田左馬介・片倉小十郎といえば伊達政宗の側近であるから、もし実際にこのような噂が流布していたとすれば、鮭延は当時の世間一般の認識として「最上家屈指の家臣」であると同時に「延沢能登と並ぶほどの剛勇の持ち主」と見られていたのであろう。
<続>

(注20) 「上杉家文書」八月一日付豊臣秀吉朱印状(『山形県史史料編1』)
(注21) 「色部文書」 天正十八年十月廿二日付横手宿老中書状案(『同上』)
(注22) 「同上」 天正十八年十月廿三日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注23) 「同上」 天正十八年十月廿五日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注24) 「神戸・小野寺文書」天正十九年一月十七日付豊臣秀吉宛行状(『秋田県史史料 古代・中世編』)
(注25) 「色部文書」 天正十九年二月八日付鮭延愛綱書状(『山形県史史料編1』)
(注26) 「同上」 天正十九年二月十一日付色部長真書状(『同上』)
(注27) 「同上」 天正十九年二月二十六日付氏家守棟書状(『同上』)
(注28) 「同上」 天正十九年二月二十八日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注29) 「同上」 天正十九年二月晦日付色部長真書状(『同上』)
(注30) 『復刻 奥羽永慶軍記』 最上勢、山北境を攻破るの事(無明舎出版 2005)
(注31)  同上
(注32) 『同上』 湯沢落城の事(同上)
(注33) 『同上』 最上義光・伊達政宗閉門の事(同上)


鮭延秀綱(5)へ→
2010/03/18 17:02:Copyright (C) 最上義光歴史館
米沢市のお隣、高畠町のワイナリーの紹介を。
慶次ワインが出てたんです。

2002年高畠町産の厳選したシャルドネから造った辛口の白ワインなんです。

「前田慶次」と「花の慶次」の二種類があり、味はちょっと表現できるくらい詳しくないのでスミマセン。
「前田慶次」のラベルには、当市の宮坂考古館所蔵の前田慶次の甲冑がプリントされておりよい感じです。でも、前田慶次のイメージが赤なので、赤ワインなら最高かもf^_^;
「花の慶次」ワインは、品薄状態のようですが。「戦国の杜」でもどうかな。

販売元の「高畠ワイン�蝓廚気鵑魯灰船�

2010/03/18 12:33:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
この間、吉祥寺で頂いた傾奇御免御守護の中身です。
前田慶次が天下人となった豊臣秀吉から許しを得た『傾奇御免』と花押が、裏面は、有名な『大ふへん者』と前田家家紋の梅鉢紋が刻んであります。かなり、カッコいいです。
『戦国の杜』のイベントでも、配付できれば楽しいッスo(^-^)o
2010/03/17 18:41:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
先日行われた吉祥寺かぶき祭特別ディナープログラム「桜宴」について、画像アップします。
カフェゼノンで行われ「桜(さくら)」に「宴(うたげ)」で『桜宴(おうえん)』といいます。
ウェイトレスが花魁(おいらん)の格好でおもてなしを行っており、やっぱり制服も大事だなと。『戦国の杜』はどうするんだろf^_^;
勝手に撮ったKUNI-KENさんカッコよかったなー。三味線もいいもんですね。怒られるかなー(>_<)

あと〜お弁当もおいしかったな(^O^)/
高畠ワイナリーの『花の慶次』ワインが食膳酒でした。



2010/03/17 12:47:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
かぶき祭のまちの様子をアップします。
傾奇御免護守を頂いた本屋さん前です。感謝!!
ズラーッと
こんなフラッグが。『花の慶次』


あんなのや。『義風堂々!! 直江兼続』


こんなのが。『伊達の鬼 軍師 片倉小十郎』


戦国キャラ一色ですね〜。ほんとに良いです。

ぜひ米沢にも賑わいがほしいッス。どうするべきかf^_^;
2010/03/16 20:25:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
先週の戦国楽市楽座でNHKさんのブースに展示していた『天地人』使用の甲冑です。
結構良く見ると汚れていて・・っていうか汚したのかな?使用感を出す為に。
上杉神社の稽照殿に展示されている甲冑とは、全然違うんですよね。似ているのは前立て(愛)の部分だけですねf^_^;

本物は上杉神社 稽照殿へ!!
2010/03/16 12:09:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
今日の帰りにやまがた花回廊のポスターを発見しました。
どのくらいのお客様がこのポスターを見て、山形に興味を持って足を運んでいただけるのだろうf^_^;なんて・・・考え1日過ごしました
でも、ホントに広範囲の駅にポスターを貼っていただけるのは、ありがたいことです。(^^ゞ。ぜひ『戦国の杜』も・・・なんて、ムリですよね。
ぜひ、米沢『戦国の杜』にも送客お願いしま〜す。

2010/03/15 20:40:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
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