戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

メンテナンスのお知らせ

平素より、当ホームページをご利用いただきまして 誠にありがとうございます。

ただいま、メンテナンスにより ホームページを閲覧できない状態になっております。
アクセスをいただいたお客さまには 大変ご迷惑おかけしていることを お詫び申し上げます。

なお、お急ぎの方は、電話にて お問い合わせいただきますようお願い申し上げます。

戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

〒992-0012
山形県米沢市金池7丁目1-50
TEL:0238-26-6046
FAX:0238-26-6047

:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

戦国観光やまがた情報局
今日は、「かねたん」が『戦国の杜』に来てくれました!(^^)!

戦国なりきりの陣が気になるようで・・・。スタッフも。

かねたんって、なりきり体験できるのかな〜顔のサイズがf^_^;

どうかな〜?
2010/04/13 20:21:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
今日、水野宗さんの陶人形がやってきました。

新作もあり、迫力あります。ぜひ会場でご覧下さい。

お待ちしております。

「大一大万大吉」良いっすねー☆石田三成推参です!!

...もっと詳しく
2010/04/13 12:21:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
こんな感じで、めくってください。

40mの時代年表に10問のクイズがあります。

クイズの答えが、「花の慶次」の漫画になってたりします。

楽しめますので、じっくりみてやってください。
2010/04/12 20:14:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
昨日の検査後、スタッフがショップの検品等を行っておりました。

今日は、取扱説明がありまして・・・着々とオープンにむかっております。

いやー疲れるf^_^; 眠いです。


2010/04/12 08:38:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
こんな感じで検査が行われました。

施設の設置に関わって頂いた方々本当にありがとうございました。

メインの乃村工藝社の方々、本当にお世話になりました。

すばらしいモノができました。次は、運営側が頑張る番です。

これからオープンまで頑張りますので、応援よろしくお願いします。




2010/04/11 20:10:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【鮭延秀綱 (6)】


4 鮭延秀綱の官途について

    
 ここでは鮭延秀綱が名乗った官途名について考察を展開する。鮭延秀綱は文書史料や軍記物史料において「鮭延典膳」もしくは「鮭延越前守」と名乗っているが、この二つの官途名が時期的にどのように使い分けられているかという事が本項の本題となる。なお、検討に使用した文書史料は「鮭延」+「官途名」の記載がある書状数通、軍記物史料は『最上記』『会津四家合考』『奥羽永慶軍記』『鮭延越前守功績録』などである。


4−1 文書の発給年代と官途名

 鮭延秀綱に関して、取り上げた史料には発給年代が明記されていない物も多い。以下では、文書の内容考察と先行研究によりその発給年代を検討してみたい。
以下「典膳」と名乗っている文書をいくつか挙げる。

  書状��(注41)
   庄中へ鮭延典膳さし越候処ニ、手まへ無人数のよし申候間、
   其方之事者彼仁ニさし添、(後略)

 文書の内容は「庄中へ鮭延典膳を遣わしたが手勢が不足しているようなので、援軍に行ってもらう。何事もよくよく相談して取り計らうように」ということである。天正九年に鮭延が最上氏の影響下に置かれた後、庄内の武藤氏との抗争中に発給された書状で、発給時期は恐らく天正十年頃であろう(注42)。

  書状��(注43)
   急度啓之候、仍從伊達大崎へ出張、近日之様に申來候、(中略)
   典膳・安食七兵衛付丹与三なとへ、兼而能々相談候而、
   少も油断有間敷候、(後略)

 この書状は、最上義光が受給者の庭月和泉守に対して、「鮭延秀綱や丹与左衛門と協力して真室地方の守りを固めよ」と申し送っている内容の書状である。「伊達大崎へ出張〜」とあることから、天正十六年一月に大崎家と伊達家の間に起こった大崎合戦に最上家が介入した時期に発給された書状であることが見て取れる。

  書状��(注44)
   急度及注進候、仍其元于今御在堪之儀、万々御気遣奉察候、
  (中略)恐々謹言、
            鮭延典膳
      二月八日     愛綱(花押)
          色部殿
           御旅所

  書状��(注45)
   急度脚力到來本望候、如御帋面候、未申通心疎之至候、(中略)
   於巨細者鮭典へ及細報候条、不能具候、恐々謹言、(後略)

 �鵝��瑤蓮�天正十八年から天正十九年にかけて執行された秀吉の東北検地において、検地奉行上杉景勝の代理であったその家臣色部長真と、案内役である最上家の責任者鮭延・氏家の間でやり取りされた書状である。

 続いて「越前守」と名乗っている文書の発給時期を検討する。

  書状��(注46)
   尚々、秋田(より)の書状、本書をハこなたニをかせられ候、
  (中略)
   大坂落人之事、秋田へ被仰越候ヘハ、請取不被申候由、(中略)
             鮭延備前守
                 直(花押影)
       本豊州様
           御報人々御中

  書状��(注47)
   谷地之者人質ニ付而被入御念、秋田へ両度迄御使被遣様子、
   條々承候、(中略)
             鮭越前守
       本城豊州様    愛(花押影)
           御報

 既出の��・��の書状であるが、内容が関連している事・発給者と受給者がほぼ同一な事・日付が近い事から、同時期に発給された書状であると推測される。本文頭に「大坂落人之事、」とあり、慶長十九年から二十年にかけて発生した大坂の役直後に発給された文書と見るのが妥当であろうか。��の「備前守」は「越前守」の誤記もしくは誤読であろう。

  書状��(注48)
   已上、如來札春陽之御慶、珎重候、(中略)
              鮭越前守
       正月三日      愛(花押)
         小野寺刑部殿
             御報

 「小野寺刑部」からの贈り物に対しての礼状である。この宛人の「小野寺刑部」という人物であるが、仙北横手の小野寺氏とは異なる系譜の小野寺氏であるようだ。佐竹氏秋田藩に伝わる小野寺氏系図によれば、小野寺刑部は永禄三年に上野厩橋に生まれ、北条→武田→真田→上杉と主君を替えている。慶長五年には上杉家の家臣という立場にあり、慶長出羽合戦後に最上家に仕えたことが確認できる(注49)。文書の記載内容から発給年代を精密に特定することは難しいが、天正期〜慶長初期にかけて鮭延との交流があったとは考えづらい。やはり慶長五年ないし六年以降、小野寺刑部が最上家に仕官した後にやり取りされたものであると考えた方が自然であろう。
<続>


(注41) 「楓軒文書纂所収文書」三月二十二日付最上義光書状(『山形県史史料編1』)
(注42) 『山形市史史料編1 最上氏関係史料』
(注43) 「楓軒文書纂所収文書」二月十六日付最上義光書状(『山形県史史料編1』)
(注44) 「色部文書」二月八日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注45) 「同上」二月晦日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注46) 「秋田藩家蔵文書」十一月十二日付日野備中守外連署書状(『同上』)
(注47) 「同上」十一月二十八日付東根薩摩守外連署書状(『同上』)
(注48) 「本間美術館所蔵文書」正月三日付鮭延愛綱書状(『同上』
(注49)小野末三『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜 −再仕官への道程−』(最上義光歴史館 1998)


鮭延秀綱(7)へ→
2010/04/10 14:55:Copyright (C) 最上義光歴史館
とうとう来ました。この日が☆

今日、南魚沼の「戦国EXPO」がオープンします。

いやー。プレに行きたかった〜※※ そう言ったら「そんな暇ないだろっ」
て怒られましたf^_^;

南魚沼の担当の方から連絡を頂き、「連携して頑張りましょう!!」って、
嬉しかったな〜(^_-)-☆

ゼヒ頑張りましょう。でも、負けないっす!!

ポスターありがとうございました。

詳しい情報コチラ→ 南魚沼「戦国EXPO」 忍者って楽しそおっ

2010/04/10 11:01:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
いやー今日のテレビは、緊張したなー。

カミカミでした。10時オープンを9時って言っちゃって(^^;

でも・・・熱い思いは伝わったんじゃないでしょうか☆

これから、テレビやラジオの出演もありますので情報アップしますね。

今日の画像は、花の慶次戦国文庫のところです。

この本棚の裏に、カッコいいグラフィックが・・・。これは、来場されたときのお楽しみですね。

ホントにあと、一週間です。かんがりますね。
2010/04/09 22:32:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
戦国の杜の新しいチラシが出来上がりました!

花の慶次のイラストに慶次・松風見参とは!?
後日ご紹介します!乞うご期待!

裏面では、より詳しく戦国の杜の館内の紹介を
しております。

残すところあと1週間!

全力で準備に取り掛かっております!

ぜひ戦国の杜にお越し下さい!

各ゾーンの紹介や
オープニングイベント情報など

どんどん掲載して行きたいと思っております!

明日9日(金)は、スタッフのtetsu&zakiが
NHK仙台の番組情報パレット
午前11時より生放送に出演し
米沢上杉まつり、戦国の杜をPR!

かねたんも登場しますよ!

そのほか
戦国SHOP義風堂で取り扱う商品の紹介。
センスが良くて全国的にも有名な戦国ショップの
戦国魂さんの商品や
地元の織絵夢人館さんの米沢織の戦国グッズの紹介など!

東北全域で放送ですので
東北地方の方はぜひご覧下さい!

...もっと詳しく
2010/04/08 23:08:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
先日ブログでもアップしておりました。
駅の兼続公が一昨年までおられたポポロ館の展示ケース・・・。

今回の工事で一時移転いたします。展示ケースは撤去ですが、
兼続公は、駅で観光客の方々を見守っております。そして、5月3日の
上杉軍団行列に出陣されますので、お楽しみに(^^ゞ
2010/04/08 12:51:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
戦国なりきりの陣のトコロです。
どんな感じにできるのか?心配いっぱいだけど・・・。
期待もいっぱいだったりします(^_^;)
2010/04/08 01:27:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
ただいまの戦国の杜です。急ピッチで工事中です。

外観こんな感じで進んでおります。

出来上がりが楽しみです。


2010/04/07 22:12:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【鮭延秀綱 (5)】


   3、慶長〜元和元年における鮭延秀綱の立場

 「奥羽の関ヶ原」とも呼ばれる慶長出羽合戦と、それに付随した一連の庄内奪回戦・仙北救援において、鮭延秀綱は目覚しい活躍を挙げた。最上領内深く上杉軍に侵攻され、山形城が危機に陥った事態にあっては長谷堂城に援軍として赴き、上杉軍の侵攻を阻んだ。長谷堂における鮭延の活躍は、様々な書籍ですでに詳らかにされており、ここで改めて触れることはしないが、軍記物史料が根本史料となりがちなことには十分留意せねばならないだろう。

 上杉撤退後に発生した、最上家による小野寺氏へ対する反攻においては、湯沢満茂の麾下として先陣を務めたとされる(注34)が、根本史料がなく記述に全幅の信頼を置くことはできない。『永慶軍記』では、仙北出陣を十月半ばの事としており、長谷堂合戦が十月初旬に終息した事を勘案すれば、慶長五年に鮭延が仙北へ出陣し、作戦行動を遂行できたかどうかは疑問だ。『永慶軍記』の記述は、文禄期〜慶長初期、または慶長六年に行われた最上と小野寺の交戦を混同している可能性があると見るべきだろう。

 翌年の庄内攻めにおいては、北口の大将として志村伊豆守と共にその任にあたり、由利郡国人衆の仁賀保擧誠と合力して菅野城を落とすなど庄内攻略に尽力した(注35)。ともあれ、慶長五・六年において秀綱はまさに大車輪の槍働きをしている。

 しかし、槍働き以上に、関ヶ原以後の鮭延秀綱を論じる上で最も留意すべきは、慶長末年から元和元年にかけて起こった最上家家督相続に関連する騒動であると考えられる。

 その当時、発給されたと考えられる二つの書状を挙げる。

   尚々、秋田(より)の書状、本書をハこなたニをかせられ候、うつしを申て、
   其地へ被遣候、これを御手前にをかせられ申へく候由御意候、已上、

   大坂落人之事、秋田へ被仰越候ヘハ、請取不被申候由、
   其段令披露候ヘハ、不及是非候、先々其分ニ被成候而、
   可被指置候由、上意ニ候、左候へ者、秋田(より)の書面ニ、
   与左衛門尉下人にてハ無之候、頼候而大坂へ罷立候由之條、
   是非此方之者ニハ無之事一定ニ候条、依之重而右之使にて候、
   尤慥なる使を可被遣之由、被仰出候様子之義、具ニ此使者へ申渡候、
   秋田人之義、委口上ニ可被仰候由、御意候、書状をハ大かた申宣候、
   恐々謹言、
              日野備中守
   十一月十二日       光(花押影)
              里見薩摩守
                  景(花押影)
              安食太和守
                  光(花押影)
              鮭延備前守
                  直(花押影)
       本豊州様
           御報人々御中 (注36)
 

   谷地之者人質ニ付而被入御念、秋田へ両度迄御使被遣様子、
   條々承候、秋田へ之御理共無残所候、此上之義、
   人頭共相捨候外無之候、其付而、理之様子共書面難申候條、
   具彼高寺新左衛門方ニ申渡候、能々被聞召届、御尤ニ候、恐々謹言、
              東薩摩守
    十一月廿八日       景佐(花押影)
              安太和守
                  光(花押影)
              鮭越前守 
       本城豊州様     愛(花押影)
            御報 (注37)

 大坂の陣において落ち延びてきた者共の処遇について秋田とやり取りしたことについて、その経過を本城満茂に報告した書状であるが、注目する点は、その発給者と受給者の構成がいかにして形作られたかということであろう。慶長末年から元和元年における最上家中の動静をふりかえってみたい。

 事の発端は慶長八年、最上義光の嫡子義康が庄内において殺害された時にさかのぼる。義康は、義光により嫡子の座を追われて高野山へと追放されたが、高野山へ向かう道中庄内にて殺害された。代わって後嗣と定められた家親は小姓として徳川家康の元に居た時期があり、徳川家との繋がりを重視した結果、かかる事態となったものであろう。一説には、豊臣の恩顧を重視した一派が、義康を擁して義光を隠居させようとする動きが見られたため、機先を制して義光が義康を廃嫡したともされる(注38)。義康廃嫡は、最上家内の親豊臣派と親徳川派との相克が表層化したものととらえる事ができよう。

 この義康廃嫡・殺害事件は最上家中に大きな亀裂を残す結果となった。その後しばらく、その亀裂は新体制への適応、庄内・由利の新領土経営の影に隠れてなりを潜めていたが、慶長十九年一月に最上義光が没し、家親が家督を相続したのを契機として親豊臣派と親徳川派の対立がふたたび表面化した。家親の家督相続からわずか半年足らず、六月に起こった田川郡添川館主一栗兵部の乱がそれである。

 一栗兵部は、「家親の家督相続は最上家を危うくする元であり、その異母弟清水光氏(義親)を擁立すべき」との考えの元、その意を酒田城主志村光惟(光安の子)に諮った。光惟の返答は定かではないが、その後鶴岡城主新関因幡守が自邸に光惟らを招いたことで一栗兵部は疑心暗鬼に陥り、光惟・下対馬守らを襲撃して殺害してしまった。新関因幡守によってすぐに一栗兵部は討たれたものの、その後ろ盾として疑いをかけられたのが、かつて豊臣秀吉の元で人質生活を送り、秀頼の近侍を勤めた経験のある(注39)清水光氏であった。

 時あたかも大坂の役直前で、最上家にも動員命令が下ってきており、家親は江戸留守居役を家康から命じられていた。自らが出陣しているそのすきに、光氏が大坂方に呼応して反乱を起こす危険性を考慮した家親は、延沢遠江守・日野将監らに清水光氏討伐を命じたとされる。同年十月に両将は清水城を攻め、光氏を自刃に追いこんだというのが慶長十九年に起こった一連の騒動のアウトラインである。

 さて、この騒動時に鮭延秀綱はいかに身を処したのであろうか。事態を静観していたのか、あるいは積極的に家親について活動していたのか確たる史料が無い為判然としないが、その後大阪の役や一栗・清水氏討滅の事後処理を掌握したと見られる重臣として名を連ねている事を考慮すれば、家親派として積極的に運動していたのではなかろうか。

 ともあれ、家中の反家親派を沈黙させた家親にとって家中の立てなおしは急務であった。家親は江戸詰めの機会が多かったゆえに、領国経営の中枢を担う者を登用せねばならなかったが、氏家尾張守・志村伊豆守の両巨頭は既に亡かった。その後継であった氏家左近は家内を統括するのには若く、志村光惟は一栗の反乱で死亡していた。また、最上家における重鎮清水氏は前述の通り排除されたし、本城満茂は由利本城にあって由利郡の統治と佐竹氏との連絡を担っていて最上本家の中枢運営に関わることは難しかった。そこで、上級城持家臣の中で家老級として登用されたのが東根・日野・安食そして鮭延らであったと考えられる。

 さて、元和元年にはこの四人を中核とする家中意思決定集団があったと見られるが、最上家中の序列が上記の書状より垣間見える。家老連から本城満茂への宛名は「本城豊州様」あるいは「本豊州様」だから、鮭延ら4人よりは本城満茂が格上でとして認識されていたことが分かる。本城満茂は、元は最上家親類衆の楯岡氏であり、最上家中で最も多い四万五千石の知行を由利郡にて給されていた。湯沢に在陣(湯沢豊前守と名乗った時期もあった)して仙北地方の経略に尽力した経歴から見ても、最上家臣筆頭の位置にふさわしい人物だったのであろう。「大坂落人之事」や「谷地之者人質」に関わる秋田佐竹氏との折衝を行う際にも、山形家老連・本城満茂が密に連絡を取り合って対応していた事が上記の書状から読み取れる。さらに言えば、この序列は一朝一夕に形成されたものではなく、義光存命中から既に形作られつつあったのだろう。

 ともあれ、鮭延秀綱は、この時点で最上家非親族系家臣の中では最上級に位置し、家親参勤中の留守居として領国経営を担っていたと想定して間違いなかろう。

 その後、最上氏の改易騒動が起こるが、その時点の鮭延の詳細な立場、動向については他稿に譲りたい(注40)。
<続>

(注34) 『復刻 奥羽永慶軍記』など
(注35) 『山形県史 第二巻』(山形県 1985)
(注36) 「秋田藩家蔵文書」十一月十二日付日野備中守外連署書状(『山形県史史料編1』)
(注37) 「同」十一月二十八日付東根薩摩守外連署書状(『同上』)
(注38) 『山形県史 第二巻』(山形県 1985)
(注39) 『上山市史』
(注40) 福田千鶴「最上氏の改易について」『日本史研究 361』(日本史研究会 1992)など


鮭延秀綱(6)へ→
2010/04/07 14:00:Copyright (C) 最上義光歴史館
会場のとなりのミスドで、打ち合わせを行いました。

いや〜準備が進んでないことを実感しました・・・。やっぱりって感じです。

工事もなかなか、問題が山積しております。まぁやっぱりって感じですか??

なかなか思うように進まないもんですね☆

今週中には、すべてクリアにして皆さんをちゃんとお出迎えできるようにします。

必ずご心配なく(^^)v

2010/04/05 23:44:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
先日「戦国なりきりの陣」のナレーション撮りが行われました。
順調に進んでいます・・・って言いたいところですが 、なかなかです。
声優さんの声も良く、良いモノになるぞって感じです☆
あっスミマセン。ブログ2日も休んじゃいました・・・。
欲張らずに1日1回はアップします。
ホントに、皆さんに見ていただきたいし知ってほしいんです
「戦国の杜」
2010/04/04 17:19:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
「夜桜と光の競演」と題して、松が岬公園のライトアップを開催します。

桜の咲き始める4月の中旬から5月上旬まで行いま〜す☆
ちなみに今のトコロ開花が4月19日そして、満開期間が4月25〜27日(ウェザーニュース情報)となっとります。
ライトアップのイベントが17日なんで、米沢の熱気でなんとか開花を早めたいf^_^;
イベントでは、戦国の杜のPRも行うつもりですので、ゼヒゼヒお越しください(^_-)-☆

2010/04/01 19:50:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
4月1日です。おはようございます。

これから「戦国の杜」が米沢の情報発信基地となるべく、頑張る所存です。

どうぞこれから、新しいHP共々よろしくお願いいたします。

...もっと詳しく
2010/04/01 08:28:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
昨日から、とうとう工事が開始されました。
皆さんにご迷惑をおかけする場面もあると思いますので、ご理解とご協力をお願いいたします。
二週間ほどで施設的には完成し、その後いろんな研修・準備等に入ります。
皆さんに見ていただくコトを楽しみにしております。


2010/03/30 12:56:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
米沢駅の改札出てスグにお座りいただいてる直江兼続さんです。
5月3日の上杉軍団行列にも山車となって出陣します。ちょっとバランス的に顔が大きいのが気になりますが・・・・。怖いッスf^_^;
そして、駅の表に並んでるかねたん達☆対照的でしょ!!
3月まで、駅で時間限定でゆるキャラ達がお出迎え&お見送り実施中です!!


2010/03/30 12:32:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
昨日お伝えしました件の続報です。
リニューアル途中のホームページのヘッダーの案を極秘に入手したのでアップします。
熱く燃え上がる感じでしょ!(^^)!かっこよくないッスか?
でも、これで決まりじゃないので4月1日をお楽しみに!!
2010/03/29 20:17:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
前のページへ 次のページへ
Copyright (C) 山形おきたま観光協議会 All Rights Reserved. 禁無断転載・複写