戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

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メンテナンスのお知らせ

平素より、当ホームページをご利用いただきまして 誠にありがとうございます。

ただいま、メンテナンスにより ホームページを閲覧できない状態になっております。
アクセスをいただいたお客さまには 大変ご迷惑おかけしていることを お詫び申し上げます。

なお、お急ぎの方は、電話にて お問い合わせいただきますようお願い申し上げます。

戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

〒992-0012
山形県米沢市金池7丁目1-50
TEL:0238-26-6046
FAX:0238-26-6047

:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

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戦国観光やまがた情報局
じゃじゃーん!(久々にでました!


館内にて、ペーパークラフト体験予約が開始されましたよー!

作成できる兜は、なんと15種類!!

大きさの方は、約12cmほどのミニ兜となっていまーす。


体験日は下記の通りです。


第1回 7月25日(日)13:30〜

弟2回 8月1日 (日)13:30〜

第3回 8月8月 (日)13:30〜


ご予約希望日の、1週間前までにご予約お願い致します。

作成にかかる時間は1時間半〜2時間くらいで、

体験料金については、ミニ兜1つに付き500円となっていまーす!

ぜひ、この夏に戦国の杜へ体験にきてくだされ〜(*^-゚)v
2010/06/17 14:12:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
財団法人宮坂考古館
企画展
・甲冑と屏風絵図
・前田慶次とパネル展
平成22年4月20日(火)〜8月29日(日)

特別展
・陣羽織と胴着展
・前田慶次とパネル展
平成22年9月7日(火)〜11月3日(水)

◇開 館 午前10時〜午後5時(4月〜9月)
     午前10時〜午後4時(10月〜3月)
◇休館日 月曜日、祝祭日の翌日
◇入館料 大人300円 大高生200円 小中生100円
     (団体割引あり)

米沢藩の文化財
財団法人宮坂考古館
〒992-0026
米沢市東1丁目2−24
電話0238−23−8530

米沢藩古式砲術について

米沢藩の鉄砲のはじめは、謙信公の越後春日時代
唐人式部秀政を招き、その伝授を受けたことと伝えられる。
川中島合戦(1561)には、武将斉藤朝信が鉄砲隊を率い
武田方を悩ませたことが知られている。
名称直江兼続は、この後を受けて鋭意その改良につとめた。
すなわち五匁筒を改め、大型化をはかって、慶長9年(1604)
江州国友村から吉川惣兵衛、泉州堺から泉谷松右ヱ門を招いて
吾妻山中にて極秘のうちに鋳造せしめたという。
このころ、鉄砲の流派は200余あったが、いまに伝えられている
のは、森重流・陽流・稲富流の三流のみである。
このうち、米沢には宮坂善助前館長が復活させた
米沢藩古式砲術保存会があり、いまにその古式砲術を伝えている。


2010/06/16 08:57:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
今日は朝から雨です(´・ω・`)
米沢はもうすぐ梅雨に入りそうな感じです。ジメジメ

そーいえば、小野川温泉のホタル鑑賞期間は、6月中旬〜7月下旬らしいですが、今年はもうホタルが飛んでるらしいですヾ(*・ω・)ノヤホーイ゜+.゜

そして、最近気付いたんですが・・・
米沢というか、山形は納豆料理のバリエーションがスゴイことに驚きましたΣ(@д@;)!?




・納豆チャーハン
・納豆味噌汁
・納豆ラーメン

納豆を加熱処理して食べる考えがなかった私にはとってもビックリした料理でした(汗)。

何か機会があったら挑戦してみようと思います☆キラーン
皆様もお試しあれ(◎´∀`)ノ
2010/06/14 14:28:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (3)】


 さて、志村光安は軍記物史料の中でどのように位置付けられているのだろうか。『奥羽永慶軍記』の記述に、それがよく現れている一文がある。

  『奥羽永慶軍記』最上義守逢夜討事
   最上出羽守義光ハ、清和天皇八代孫義家ノハ十一代ノ後胤、(中略) 
   誠ニ君々タレハ臣々タリトカヤ、時ノ執事氏家尾張守、
   元来忠有テ義アリ、謀ハ楠カ肺肝ノ中ヨリ流レ出ルカ如キモノ也、
   今一人ハ志村九郎兵衛尉、其心剛ニシテ武威ノ名顕レ、
   然モ口才人ヲクシキ、イカナル強敵ト言トモ彼ニ逢テハ即降リヌ、
   彼等ハ皆君臣ノ礼厚クシテ国治リ、栄耀家門ニ及ホシ給フ(注7)

 これを読む限りでは、光安は氏家尾張守と並び義光の腹心中の腹心として捉えられている。また、「口才人ヲクシキ」と弁舌の才がある人物とされている。特に『奥羽永慶軍記』においてはこれが強調され、光安が使者としての役割を果たす場面が多く記述されている。

  『奥羽永慶軍記』羽州天童合戦事
   …志村九郎兵衛ヲ使者トシテ密ニ延沢ニソイハセケル…(中略)
   志村元来口才名誉ノ者ナレハ…(注8)

  『同』 白鳥十郎被討事
   …志村九郎兵衛ヲ使者トシテ信長公ヘ遣シケル…(中略)
   志村九郎兵衛ヲ使者トシテ、白鳥ノ所ニソツカハシケル、
   志村急キ谷地ニ至リ、(中略)…志村元来口才名誉ノ者ナレハ…(注9)

  『羽陽軍記』義光小田原江使者之事
   …御使者として志村伊豆守を小田原江被遣、…(中略)
   秀吉公伊豆ノ守を御前江召され、(注10)

 このように、信長への貢物を届ける使者や、小田原の秀吉への使者を拝命している記述があるが、これが全て事実であるか裏付けはとれない。ただ、全く才能が無く、実績の無い分野での活躍が軍記物史料に記され、また語り草となることはなかろうから、義光が光安を使者としてよく用いていたのであろうという推測は成り立つ。ただし、慶長期に比して文禄以前に志村が発給した行政関係の文書の残存状況が少ない事を考慮すれば、行政文書を発給し、領内統治に直接的に携わるような位置にはいなかったとも考えられる。

 次に光安の槍働きであるが、史料によって多少のばらつきはあるものの、最上家の勢力が伸張する天正以降においての主要な合戦の陣立てにはほとんどその名が記されている。一々内容に触れる事はしないが、義光に近しい直臣という立場上、義光自らが参戦した合戦には光安も随行していると推測するのが妥当だ。

 最後に「九郎兵衛」から「伊豆守」への移行時期の問題を少し検討したい。「伊豆守」の名の初出は、『最上記』『羽源記』では慶長五(1600)年長谷堂合戦条である。『奥羽永慶軍記』ではそれより若干前の文禄四(1595)年有屋峠合戦条で、その画期は十六世紀最終盤に集中している。『最上記』は、成立が寛永十一(1634)年と軍記物史料の中でも最も早く、しかもその著者は最上遺臣であるという。1590年代には実際に著者が生きて最上家内にいた可能性が高く、明確な意図があってその名乗りを書き分けていると推察できる。その契機として真っ先に考えられるのは長谷堂城主就任もしくは嫡子光惟の元服であるが、それを裏付ける史料が見られないため、あくまでこれは推論の上に成り立った仮説にしかすぎない。ただ、『奥羽永慶軍記』に、下治右衛門が上杉氏より最上氏に下り、改めて尾浦城将として配置されたときに名乗りを治右衛門から対馬守に変えた、という記述があって、自らが城主層となると同時にその名乗りを変えることはよくあったようだ。光安の場合も、子飼いの直臣の城主就任にあたり、義光が志村に対し権威付けのため官途名を与えたのであろうか。ともかく、慶長四(1599)年発給の書状において、山形の寺社統制に長崎城主中山玄蕃とともに「伊豆守」が参画している記述があり、この時点で光安は「伊豆守」を名乗り、山形近郊にその所領を持って行政に携わっていた事は確かであろう。

 以上、軍記物史料から見える関ヶ原以前の志村光安の姿を見てきた。整理すると、光安は義光政権成立当初から義光の腹心としてその手足となって活動し、天童氏との抗争、寒河江・谷地攻略等の主要な軍事行動に部将として参加していた。同時に弁舌の才にも恵まれ、方々へ使者として遣わされたが、文禄以前は最上家領内の内政的な経営に関わっていた形跡は見られなかった。いくつかの軍記物史料では、慶長の初期あたりを境として「九郎兵衛」から「伊豆守」へとその名乗りを変えており、あるいはその時期に長谷堂城へ移った事がその契機であったろうか。ただ、これらの史料の記述にすべてにおいて全幅の信頼を置くことはできず、この推論はあくまで「軍記物史料から見える」動向であることを重ねて記しておく。
<続>


(注7) 『奥羽永慶軍記』最上義守逢夜討事(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注8) 『同上』羽州天童合戦事(『同上』)
(注9) 『同上』白鳥十郎被討事(『同上』)
(注10) 『羽陽軍記』義光小田原江使者之事(『同上』)


志村光安(4)へ→
2010/06/12 13:41:Copyright (C) 最上義光歴史館
戦国の杜【南口】の方に

『けーじろー』の看板が設置されたんですよ〜

かげっちさまも記念にパシャリ!!

大喜びのかげっちさまでした〜(^^

『けーじろー』も着ぐるみとして登場してほしいなぁ。。。


看板ですが、ぜひ記念に『けーじろー』と一緒に写真撮って下さ〜い。

あっ最後に、ブログの総アクセスが5万5千を超えました!!!

沢山の方々に見て頂き、ありがとうございます。

これからも、戦国の杜がんばっていきます!!!

めざせ10万アクセーースッ!!!!!

おっと忘れちゃいけない!!

なんと、クレヨンマキ様からご紹介頂いております(^^

下記リンクからご覧頂けます。

http://ameblo.jp/crayon-maki/

いつもありがとうございます!!
2010/06/10 17:07:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (2)】


 前述したように、十六世紀中盤から慶長六年に酒田へ移るまでの動向を追う場合、軍記物史料に頼らざるを得ない状況にある。信頼性に制限のある史料群ではあるが、可能な限り、その動向を検討したい。まず検討したいのが、光安の名乗った官途名である。多くの軍記物史料においては、志村光安と思われる人物が「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」という二つの官途名を使用している。この二つの名前が真に同一人物の名であるのかをまず確認せねばならないだろう。
 時期は下るが、書状史料における光安の官途名はどうなっているだろうか。慶長期以降の書状史料を見ると、

   御書中披見、祝着之至候、・・・(中略)・・・恐惶謹言
              志伊
      極月八日      光安
        大津助丞様
       御報  (注2)

 とあり、志村光安が伊豆守の官職名を用いていたのは確かなようである。また、他の史料を見る限り、光安の官職名は一貫して「伊豆守」と記されている。しかしながら、光安が「九郎兵衛」と名乗っている書状史料は一通も見当たらない。それでは、軍記物史料での記述はどうであろうか。目に付くのは、『最上記』と『羽源記』の記載内容である。

  『最上記』城取十郎討捕給事
   去程に其頃出羽国谷地と申所に、(中略) 此も義光公聞召、
   志村九郎兵衛後に号志村伊豆守使者として、最上の家の系図并白の
   大鷹一居・御馬一疋、月山打長身の鑓十丁相揃進上有りけるに、…
   (注3)

  『羽源記』巻之第二 城取十郎討捕謀略之事
   其頃最上谷地と申す所に、城取十郎武任と申屋形あり、(中略) 
   家の子に志村九郎兵衛と申者、後は伊豆守とて酒田の城主となりしを
   使者として、…(注4)

 とあり、この二つの軍記物史料においては「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一人物と扱って物語を記している。また、他の書軍記物史料の記述とこの二つの軍記物史料の「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」の登場場面・活動内容を見比べてみる限り、そのほとんどが合致している。よって、軍記物史料における「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一の人物「志村光安」としてとらえてよいだろう。
 ただし、注意しなければならないのは、光安の嫡子光惟も「九郎兵衛」を名乗っていたということで、これは書状史料に明記されているから確かな事である。
  
   殿様御遠行ニ付而、態飛脚差越候事、令祝着候、
   即頓而下候時可申理間、不具候、恐々謹言、
             志九郎兵衛
    ニ月六日         光惟
         永田勘十郎様  (注5)

 同様に、『奥羽永慶軍記』においても、
 
  『奥羽永慶軍記』庄内城主数代替ル事、付御静謐事
   羽陽田河・飽海ノ両郡ヲ、前代ヨリ庄内ト号ス、
   (中略、以下庄内の支配者が列挙される)
   志駄修理亮  慶長五年迄    
   志村伊豆守  最上ノ郎党、同十九年迄   
   同 九郎兵衛  同元和八年迄(注6)

 と、志村光惟が九郎兵衛を名乗っていた事を記している。ただし、光惟は慶長十九(1614)年に一栗兵部の手によって襲殺されており、元和八(1622)年まで城主であったとしている記事内容の信頼性は低い。ともあれ、軍記物史料における「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一人物とみなしてよく、またその子光惟も「九郎兵衛」を名乗っていたことは確かである。志村光安が史実の上で「九郎兵衛」を名乗っていたかどうか、書状史料の上からは明らかにする事はできないが、親子で官途名を継承する事例はありふれたことで、光安も、伊豆守を名乗る以前は「九郎兵衛」を名乗っていた可能性が高い。
<続>

(注2) 「大津文書」十二月八日付志村光安書状(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注3) 『最上記』城取十郎討捕給事(『同上』)
(注4) 『羽源記』巻之第二 城取十郎討捕謀略之事(『同上』)
(注5) 「永田文書」二月六日付志村光惟書状(『同上』)
(注6) 『奥羽永慶軍記』庄内城主数代替ル事、付御静謐事(『同上』)


志村光安(3)へ→
2010/06/09 16:23:Copyright (C) 最上義光歴史館
戦国の杜PRチラシを新たに作製!

表には前田慶次フィギア画像

かねたん、かげっちさま、おせんちゃんも登場!

裏側には会場案内図

駐車場について記載しております。
※会場内で1,500円以上お買い上げの方に
指定駐車場の1時間サービス券を差し上げます。

ぜひご来場下さい!

チラシ必要な方には郵送いたしますので
ご連絡いただきたいと存じます。

戦国の杜について詳しくは「戦国の杜 武士の館」
http://www.yonezawa-naoe.com/

戦国の杜スタッフブログ
https://ssl.samidare.jp/~lavo/sengoku/

最新情報、スタッフの裏話
更新しております。
楽しいのでぜひ見てください!

...もっと詳しく
2010/06/08 20:15:Copyright (C) 米沢観光コンベンション協会
みんなを代表してFさんが・・・

消火器の操作訓練しました(^◇^)

ぷしゅ〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!

さすが消火器、字の通り。。。

一瞬で火が消えてしまいました(@^^)/~~~

Fさんがカッコよくみえました(>_<)




2010/06/08 14:48:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
火事どぅわぁ〜\(゜ロ\)(/ロ゜)/

今日は火災訓練がありました!
ドキドキしちゃいました(>_<)

本番さながらの訓練でした!!!!!!!

避難完了!!!!
みんな無事脱出成功(*^_^*)


2010/06/08 13:50:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
「前田慶次プレ400年忌祭イベント」が、たくさんのお客様のご参加を得て無事終了いたしました。
ご参加ありがとうございました。投函いただいた「けーじろーポストカード」は、今週中に発送できると思います。
もうちょっとだけお待ちください。


2010/06/08 10:43:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (1)】


 志村光安は、最上義光股肱の腹心として広く名を知られた存在だ。出羽の関ヶ原として有名な「長谷堂城合戦」において長谷堂城の城将として上杉軍の猛攻から城を守り抜いた名将として評価されており、「長谷堂城合戦図屏風」にもその奮戦ぶりが描かれている。また、最上義光の名代として織田信長に拝謁したとされ、ほとんどの軍記物史料において「武勇に優れ」「弁舌巧みな」功臣として光安は描かれている。しかし、志村光安の評価はそれらの事績においてのみ語られる傾向にあり、慶長出羽合戦後酒田へと転封され、三万石という大身の城主として庄内の統治に関わった形跡が見とめられるにもかかわらず、光安に対する検討は一部の市町村史において断片的になされているに留まっている。信頼のおける史料群を参照し、最上家臣団の中でいかなる立場にあったかを再評価する必要があるだろう。

 志村光安の生年は、系図・法名録等がみられず不明である。しかし没年については、遊佐町の永泉寺に建立されている石塔に、「奥大日本前出羽州□□□君候 豆�搬声薜拇啓捨廟狂� 禅定門菩提□報厚恩家・・・于時慶長拾六季辛亥八月如意珠日」とあり、志村光安は慶長十六(1611)に没しているようだ。建立記年がなく、この石塔自体いつ作られたものか、またこの記述が正確なものか判然としないが、いくつかある受取状の発給記年を見る限りでは、慶長十七(1612)年より嫡子志村光惟署名のものが出現し、志村光安署名のものは途絶えている。これを考慮すれば、石塔に記されている没年はそう不確かなものでもないだろう。

 そもそも光安の本貫地はどのあたりであったのか、長谷堂城主に就任する以前、どこを知行地としていたのかを語る一次史料はなく、その動向を追う上での基礎史料が軍記物史料や諸記録群となる以上その断定は難しい。『奥羽永慶軍記』を始めとした軍記物史料では、最上義光に最上家の主権が移行した比較的早い段階からその名が見えており、元々最上家の直臣衆であったことは確かなようである。また、山形市の北部、漆山地区に「志村」という地名が存在するが、元禄年間に記された『元禄郷帳』には「漆山ノ内 志村」という記載があり、江戸期にはこの地名はすでに存在していたようだ。さらに、江戸初期に成立したとみられるいくつかの書写記録には「志村館」との記載があるとされ(注1)、志村氏居館の存在をうかがわせる。その本貫地を姓とするパターンが最上家家臣の多くにみられ、また義光政権初期段階からの直臣であったことも鑑みれば、志村光安の本貫地もこの辺りであったろうか。
<続>

(注1) 『最上時代 山形城下絵図』(高橋信敬 1974)

志村光安(2)へ→
2010/06/06 15:38:Copyright (C) 最上義光歴史館
すこーしばかり間があいてしましましたが(・_・;)

ラストEXPOレポいきまーす!!

ラストは、足湯で締めようかと思います!!!

花の慶次の名シーンの1つでもある

山間の温泉に入っているシーンを見つつ足湯を満喫できるんですねー

いやー、いいっすねー!!!

写真ではすべて写しきれていないのですが

前田慶次、真田幸村、伊達政宗、直江兼続、奥村助右衛門が

特大で描かれているんですよー!!!


んー、こちら戦国の杜も負けずに頑張っていきますので

今後とも宜しくお願いしまーす(^_^)/
2010/06/05 19:05:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
明日、6月4日は前田慶次三九九回忌供養祭が

堂森善光寺で行われる、ってことで…

戦国の杜でもチョッとしたイベントを行いまーす!!

内容はですね… |д・)コソコソ

記念ポストカード返送サービスを実施しまーす!!

まず【けーじろーポストカード】を義風堂にてGETして下さい…

『GET方法はSTAFFにお尋ねください。。。』

GETした【けーじろーポストカード】に

住所・氏名を記入していただき…

記入所の横にある投稿箱に入れるとっ!!

何か記念(秘密でーす)になるハガキにして返送いたします!!

実施期間は、6月4日〜6月6日ころまで実施してますよー(。-∀-)

ぜひ、期間中戦国の杜へおこしくださーいノシ
2010/06/03 15:36:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
来る6月11日(金)、前回大好評だったOHKUCHI JAZZ TRIOに引き続き,
屏風ライブシリーズ第2弾「東保六重奏団」がやって来ます!リーダーの
東保光さんからコメントが届きました。

「本番が近づいてきまして、リハーサルの雰囲気も熱くなってきました。是非多くの
皆様に
足を運んで頂き、新しい日本の音楽の響きを体感して頂きたいです。」

前回のモダンな雰囲気から、今回はがらりと変わり、邦楽器と西洋楽器のアンサンブルを
とことん追求した新しい音楽の世界をお送りします。筝や尺八など、普段なかなか馴染み
のない楽器を、若手演奏家の皆さんがどう表現してくれるのでしょう♪゚+.*。
(ファン急増中の)パーカッションの小林武文さんも引き続き出演されますよ♪d(′∇`)人。
チケットは現在も好評発売中。皆さま是非おいで下さい!

「金碧天地響〜連続する金地金雲の響き」東保光六重奏団
6/11(金) 開場18:30 開演19:00
出演:東保光(コントラバス・作曲)、塩高和之(琵琶)、 高市雅風(箏)、
小林幹(尺八)、太田朱美(フルート)、小林武文(パーカッション)
作品提供:大場陽子(作曲)
入場料:全席自由 一般2,000円 学生1,000円(当日各500円増)
チケット:好評発売中 
託児受付:6/4(金)締切
2010/06/03 15:31:Copyright (C) 伝国の杜 情報BLOG
じゃじゃーん!!

なんと…

新しい缶バッチがでましたーヾ(*・ω・)

下記が6月〜8月までの期間限定デザインです!!!

・No.33 花火

・No.34 ほたる

・No.35 さくらんぼ

・No.36 ひまわり

いや〜、どれも夏って感じでいいっすね〜O(≧∇≦)O

個人的に『No.36 ひまわり』がお気に入りですねぇ〜

あっ!あと、ストラップ型での作成もできますよー!

ぜひ、今週末戦国の杜へ作成しに来てみてはどうでしょう!?

...もっと詳しく
2010/06/03 12:11:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【鮭延秀綱 (8)】


  5  小 括

 鮭延に関する基礎的な問題について述べてきた。根本史料が限られている上、軍記物史料という難しい制約を抱える史料を用いながらの検討であった。

 まず鮭延氏と最上氏、あるいはそれにかかわる南出羽の国人衆についての研究史を整理した。市町村史等で考察されているが如く、大きな歴史の流れの中での多くの登場人物の中の一人として鮭延秀綱を捉えているものが大多数で、いくつか優れた個別論文はあるものの鮭延に関する個別研究の蓄積はまだまだ多いとは言えない。これは、最上家のその他の家臣、ないし南出羽の国人についてもあてはまる。

 第1節では、鮭延氏が真室地方に割拠した当初の状況を整理した。また、天正九年に最上義光の傘下へ降った直後から、天正期に最上家が勢力を伸張させていく段階において、最上家中において鮭延がどのような立場にあったか、またどのように立場を変化させていったかにスポットを当てて検討を進めた。
 鮭延秀綱は、その利用価値を大きく認めた最上義光の期待を受けてその傘下に加わった。その「利用価値」の一つに挙げられるのは、小野寺氏や武藤氏ら周辺大名や、その麾下にあった国人領主達とのコネクションであったと推察される。秀綱は、そのパイプをバックボーンとして、最上家が武藤氏・小野寺氏ら周辺大名との抗争を繰り広げる過程での外交活動や抵抗勢力の調略に尽力した形跡がみられた。義光はその働きを高く評価し、最上家内での鮭延の存在感は次第に高まっていったと考えられる。

 第2節では、仙北検地に伴う雄勝郡の領有問題に関わる鮭延秀綱の動向を追った。
 鮭延は、奥羽仕置軍の先導として小野寺氏領国へと進駐した。元々鮭延氏は小野寺氏の麾下にあり、仙北事情に精通した鮭延は先導者として適任であった。湯沢に進駐した鮭延は、「公儀」の権威を背景に主君の最上義光と連携しつつ雄勝郡の実効支配を進めた。その過程において、鮭延は一貫して現地責任者の立場であり、上杉家家臣の色部長真や小野寺家中との折衝を行っていた事が史料から読み取れる。結果として最上家は、豊臣政権より上浦郡(雄勝・平鹿郡を合わせた通称とされる)の一部を領土として追認されたと見え、湯沢城主として楯岡満茂が配置された。しかし、同地域での火種はくすぶり続け、以降幾度かの軍事的衝突が小野寺氏と最上氏の間で繰り広げられたと考えられる。これら一連の仙北問題において、鮭延秀綱は非常に重要な役割を果たしていたのである。

 第3節では、慶長期から元和期にかけての最上家内における鮭延の立場の変化を検討した。
 慶長五(1600)年に発生した、いわゆる「慶長出羽合戦」において、鮭延秀綱が長谷堂城救援・庄内反攻などに活躍した事は諸書の記すとおりである。徳川政権下において、最上家領国五十七万石が成立した後も鮭延は重用されたと見え、義光没後も最上家内の中枢重臣の一人として領国経営に参画していた。家中における序列では、由利本城に四万五千石を領する本城満茂には劣るものの、非親族系家臣の中では一際高い立場に位置していたとみられる。

 第4節では鮭延の官職名について時期的推移も考慮しながら考察した。鮭延秀綱は、その生涯において「典膳」と「越前守」の二つの官職名を名乗っているが、書状史料・軍記物史料の記事を見る限りその二つの官職名は慶長五(1600)年前後を画期として使い分けられている可能性を指摘した。その理由の仮説として、鮭延郷に勢力を確立した鮭延秀綱の父貞綱も「典膳」を名乗っており、慶長五年の出羽合戦において初陣を飾った嫡子左衛門尉の元服時に、父から受け継いだ鮭延郷の守護者としての「典膳」という名乗りを継がせた、あるいは継がせる前段階として自らの官職名を越前守と変えた可能性を提示した。

 以上の問題について考察を行ったが、鮭延氏にまつわる問題はこれだけではない。鮭延氏の鮭延郷入部時期、最上家改易時の動向等残された課題は少なくない。後稿を待ちたい。
<了>

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2010/06/02 13:08:Copyright (C) 最上義光歴史館
5月29日より『初夏の特別展 直江兼続生誕450年 戦国大名とナンバー2』を開催しております!!
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の天下人重臣武将たち、前田家、伊達家、真田家を中心に、上杉家や景勝・兼続主従と深く関わった大名家主従ゆかりの資料を展示します。各施設、機関、個人のご所蔵者には、めったに貸し出しや展示を行わない秘蔵の資料を含む多大なご協力をいただいております。そのうちのひとつが次の画像の『茶麻百足文様陣羽織』。

前田家の重臣奥村永福が、末森合戦で着用していたとされる陣羽織です。麻製の陣羽織に描かれた百足は前進あるのみで後退しないことから、武将に好まれました。(展示解説より)
このデザインにはそういった意味合いがあるんですね♪
強い意気込みが感じられます((○(・`ω・)o

『初夏の特別展 直江兼続生誕450年 戦国大名とナンバー2』
◆会  期◆前期 H22 5月29日(土)〜6月20日(日)
      後期 6月26日(土)〜7月19日(月・祝)
      展示替え 6月21日〜6月25日(常設展のみ開館。23日は休館日)
◆入 館 料◆(常設展示室一体型)
      一般 700(560)円 高校・大学生 450(360)円 小・中学生 300(240)円 ( )団体20名以上 

〜次回のギャラリートーク〜
 6月12日(土)14:00〜15:00 『真田信之と家臣団』原田和彦氏(長野市立博物館学芸員) 
 ※ギャラリートークをお聞きいただくには入館料が必要です。

【お問い合わせ】米沢市上杉博物館 0238−26−8001


2010/06/01 08:58:Copyright (C) 伝国の杜 情報BLOG
来月、6月6日までのゆるキャラ達の出演情報をお伝えしま〜す!

上記からダウンロード、またはご確認できますが・・・

ここにも書いちゃいまーすヽ(*’-^*)。



★5月31日 14:00〜14:30 おせんちゃん

★6月1日  14:00〜14:30 おせんちゃん

★6月3日  14:00〜14:30 かげっちさま

★6月4日  14:00〜14:30 かげっちさま

★6月5日  11:00〜11:30 かげっちさま
        14:00〜14:30 かげっちさま・おせんちゃん
        15:00〜15:30 かげっちさま

★6月6日  11:00〜11:30 かげっちさま
        14:00〜14:30 かげっちさま・おせんちゃん
        15:00〜15:30 かげっちさま

上記の時間帯にゆるキャラ達が、戦国の杜に出演しますよー!!

また、天候や他のイベントの状況によって出演予定が激しく変わる場合がありますのでご了承ください。
2010/05/30 18:39:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
ついに…

ついにでましたぁーッ!!

けーじろーストラップでーすヾ(≧∇≦)

これで、全員集合ですねぇ〜♪

戦国の杜内、戦国ショップ 義風堂にて販売しておりますので

この際、かねたん・かげっちさま・けーじろー・おせんちゃん

全キャラ集めちゃってみてはいかかでしょ〜。゚+.(○ゝω・)b+.゚。

...もっと詳しく
2010/05/29 14:54:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
明日、5月29日は・・・

この間、戦国の杜内で撮影された

やまがた発!旅の見聞録の放映日ですよ〜(`・ω・´)

いや〜、楽しみっす〜♪

時間の方は・・・(東北版)

AM9:25〜AM9:40

山形放送【YBC】にて放送されますよー!!!

ぜひ、皆様ご覧くださ〜い(>ω・)

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2010/05/28 15:36:Copyright (C) 戦国の杜STAFFブログ
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