“花と美食・美酒の故郷”
置賜に残された“伊達な城”の数々
戦国武将・伊達政宗が奥羽地方の覇者となる25歳までを過ごし愛した故郷、米沢・置賜。
この美しい盆地には、乱世を生き抜くために地形を生かして築かれた山城や館跡が今も所狭しと残されています。
名門が必死に守った本拠の地「置賜」を時代を超えて訪ね、その面影を探してみましょう。
※このページでは、伊達家家臣らが各地に築いた城館群「伊達四十八館」に準え、
100以上ある置賜の中世城館跡の中から主要な48か所を掲載しています。
伊達氏と置賜
伊達氏は陸奥国伊達郡(福島県)を領有したとされる朝宗を初代とする一族で、南北朝期の7代行宗(行朝)の時代には陸奥国府の最高合議機関である奥州式評定衆に名を連ねるなど、東北を代表する武家となっていました。
一方、中世出羽国置賜(長井)郡は、奥州藤原氏の滅亡後、鎌倉政権の公文所(政所)別当大江広元が地頭となり、次いでその次男時広を祖とする長井氏が領有していましたが、伊達氏8代宗遠・9代政宗(儀山)がこれを攻め、支配下に置きました。この頃から、「伊達四十八館」と呼ばれる城館群が各地に築かれていったものと考えられます。
戦国期に入ると、14代稙宗と15代晴宗の対立から東北を二分する「天文の乱」が起き、置賜郡内でも一族が敵味方に分かれ戦ったエピソードが伝わっています。結果として晴宗勝利で終結しましたが、これを機に伊達氏はその本拠を陸奥桑折西山(伊達郡桑折町)から出羽米沢へと移します。その後、晴宗は幕府より東北の最高位である奥州探題に任ぜられ、伊達氏と置賜は東北政治の中心となっていきました。
17代「独眼竜」政宗(貞山)は米沢で生まれました。幼少期に寺に学び、野山に遊んだエピソードが置賜各地に伝わっています。23歳のとき、摺上原の戦いで当時の東北で伊達氏と双璧となっていた会津の蘆名氏に勝利すると、奥羽2国の約半分の郡を支配下に置くこととなり、名実ともに東北一の大大名となりました。しかし、これを脅威と見た豊臣秀吉の命により新たな領地を没収され、さらには置賜や伊達といった本領の地を手放すこととなり、本拠を米沢から陸奥岩出山(宮城県大崎市)へと移しました。秀吉の死後、関ヶ原の戦いの際は、徳川家康から置賜や伊達の旧領回復を約束されたものの、ついに叶うことはありませんでした。その後、政宗は本拠を陸奥仙台に移し、初代仙台藩主となるわけですが、後年、越後からの帰りに置賜を通った際、故郷を懐かしみ次の和歌を残しています。
中世置賜の変遷
時代 | 置賜の領主 | 出来事 |
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平安 | 藤原氏 |
荒砥城築城
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小国山城築城
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高畑城築城
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鎌倉 | 大江(長井)氏 |
1189文治5
奥州合戦で奥州藤原氏滅亡、置賜は大江広元が領有
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舘山城築城
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1192建久3
広元次男時広が置賜を相続、長井氏を称する
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白山館築城
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米沢城築城
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南北朝・室町・戦国 | 伊達氏 |
1380天授6
伊達氏8代宗遠、置賜に侵攻、9代政宗にかけ長井氏を追放し領有
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宮沢城築城
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萩生城築城
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原田城築城
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1542天文11
14代稙宗・晴宗親子の対立から東北を二分する「天文の乱」起こる
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1548天文17
天文の乱終結。14代稙宗が隠居し、15代晴宗が本拠を米沢に移す
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1567永禄10
17代政宗、米沢で誕生
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安土桃山 |
1589天正17
17代政宗、摺上原の戦いに勝利、伊達氏最大版図
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蒲生氏 |
1591天正19
17代政宗、奥羽仕置により本拠を米沢から岩出山に移し、置賜は蒲生領となる
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上杉氏 |
1598慶長3
置賜は上杉領となり、米沢に直江兼続が入る
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1601慶長6
上杉氏が米沢に本拠を移す
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※城館の築城時期には諸説あり
遺構用語 解説
【城館の種類】
平城、丘城、平山城、山城など
城の役割は様々。平地に造られた「平城」、丘の上の「丘城」、その中間の「平山城」など。そして戦国期の城に多いのが山に造られた「山城」です。置賜の山城の多くは普段から住む居城ではなく、有事の際に機能する詰城であったと考えられています。このことから、館(楯)や要害(要であり障害)といった呼び方もあります。なお、城外にある居住区域は「根小屋」と呼ばれます。
【城館の設備】
縄張
城館の敷地設計を「縄張」と呼びます。城館には敵の進路を妨害し、味方が側方から攻撃(横矢掛)しやすくする様々な仕掛けが施されています。また、縄張を示した地図を「縄張図」と呼び、表現は一様ではありませんが、土塁の幅や堀の勾配など、城館の構造を読み取ることができます。
郭(曲輪)
城館中の平場を「郭(曲輪)」と呼びます。小屋などが建てられる主要な平場は「主郭」、「本丸」などと呼び、縁は切岸と呼ばれる急斜面にして敵の侵入を防ぐことが多いです。以降「二の郭」、「二の丸」などと呼び、郭の数や配置により城館を「単郭式」「連郭式」などと分類することもあります。また、戦略上山腹に帯状に造成されたものは「腰曲輪」や「帯曲輪」、虎口の防衛強化を目的に小さく区画されたものは「馬出」などと呼ばれます。このほか、城館の外側に続く曲輪「外郭(総構え)」や独立した曲輪「出丸」などもあります。
【城館の仕掛】
虎口、搦め手、枡形
城館の入口を「虎口(大手口)」と呼び、裏口を「搦め手」と呼びます。また、虎口などで一部四角形の空間を造ることがあり、これを「枡形」と呼びます。敵が攻め込む際ここに一時的に溜まる形となり、味方は三方から攻撃することができます。
土塁
土を盛った構造物を「土塁」と呼びます。堀や曲輪を造る際に出た土で縁に造られることが多く、敵は攻めにくく、味方は上から攻撃することができます。
堀
土塁と並ぶ防御設備の堀には、土を掘っただけの「空堀」、水を張った「水堀」などがあります。戦国期はほとんどが空堀で、縦に掘られた堀を「竪(縦)堀」、横に掘られた堀を「横堀」と呼びますが、特に敵が攻めやすい山の尾根を切り落とした堀を「堀切」と呼びます。構造として、V字型に掘った「薬研堀」、二つ並べた「二重堀」、堀と土塁が連続する「畝堀」、格子状の「障子堀」など敵の行く手を阻む工夫がなされていますが、平時は通路(堀底道)として機能する場合もありました。堀を掘る際に一部を橋状に残すこともあり、これは「土橋」と呼ばれます。
伊達な置賜四十八館 一覧
お断り
現状では、単独での訪問が困難な場所や私有地等立入が制限される場合もあります。また、山間部や薮では、ハチ、クマ、ヘビなどに遭遇する可能性がありますので、安全に十分ご配慮の上、訪問してください。(参考:探訪レベル/探訪適期(PDF))