伊達家の武将たち:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

戦国観光やまがた情報局
伊達家の武将たち
伊達稙宗(だてたねむね):1488〜1565
  伊達家14代当主。周辺勢力と婚姻・養嗣子関係を結んで勢力を拡大。それまで前例のない陸奥守護職に任じられた。三男・実元の越後守護上杉家への入嗣問題をきっかけに、家臣団への統制強化に不満を持った有力家臣らに担がれた嫡男・晴宗に幽閉され、南奥羽全域を巻き込む天文の大乱が起こった。


伊達晴宗(だてはるむね):1519〜1577
  伊達家15代当主。稙宗の嫡男。父と対立して天文の大乱を引き起こした。乱の終息後に家督を相続。本拠地を米沢城に移した。代々大崎氏が継承してきた奥州探題職に就任した。父と同じく、婚姻外交を駆使して伊達家の勢力拡大を図った一方、有力家臣の権限を認めて、宿老の中野宗時を重用し、その専横を許した。
    関連史跡:米沢城址


伊達輝宗(だててるむね):1544〜1585
  伊達家16代当主。晴宗の次男。父との対立を経て家督を継ぐ。権勢を振るう宿老・中野宗時が謀叛を起こすが、これを討伐。その後は謀叛鎮圧に功績のあった遠藤基信を重用した。相馬家とたびたび争ったほか、義父の最上義守の要請を受けて最上義光とも争う。嫡男・政宗に家督を譲った翌年、二本松義継に拉致され、救援に来た伊達軍の銃撃に巻き込まれ死去。
    関連史跡:資福寺 輝宗墓所(高畠町)


伊達政宗(だてまさむね):1567〜1636
  伊達家17代当主。輝宗の嫡男。独眼竜の異称で知られる。18歳で父から家督を譲られると、瞬く間に周辺諸国を席巻。摺上原の戦いに勝利して会津の蘆名家を滅ぼし、南奥羽のほぼ全域を手中に収めた。
    関連史跡:米沢城址 伊達政宗公生誕之地の標柱


大有康甫(だいゆうこうほ):1534〜1618
  伊達稙宗の十三男。一風軒と号す。東昌寺十四世住職。伊達家の外交僧として活躍。政宗の学問の師として虎哉宗乙を推挙した。
    関連史跡:東正寺(南陽市)


伊達小次郎(だてこじろう):1568?〜1590
  輝宗の次男。政道(まさみち)と名乗ったとも云われる。蘆名家への養子の話があったが、佐竹家から義広が養子に入ったため、伊達家と蘆名家との関係が悪化した。1590年政宗が毒を盛られた事件が起こった際に誅殺された。


小原定綱(おばらさだつな):1555〜1592
  伊達小次郎の傳役。小次郎誅殺後、その遺骸の埋葬場所を求めて各地を流浪。埋葬が叶ったのちに殉死した。


粟野秀用(あわのひでもち):?〜1595
  伊達小次郎の傳役。二色根城主(南陽市)。小次郎誅殺後に伊達家を出奔し、関白豊臣秀次に仕えた。伊予松前15万石の大名にまで取り立てられる。1595年秀次事件に連座して自害した。この件では、伊達政宗も関与を疑われ、釈明に追われることとなった。


小梁川親朝(こやながわちかとも):?〜?
  1514年伊達稙宗に従って最上氏を攻めた。長谷堂城(山形市)の戦いにて、最上義定らの軍勢を破り、奪い取った長谷堂城の守備を任された。翌年、伊達稙宗の妹が最上義定に嫁ぐことで和議が成立すると、長谷堂城から撤退した。
     関連史跡:長谷堂城址(山形市)


小梁川親宗(こやながわちかむね):?〜1546
  親朝の子。天文の大乱では晴宗方につき、高畠城主となる。中野宗時とともに上洛するなど重臣として活躍し、北条氏康にも謁見している。
     関連史跡:高畠城址(高畠町)


小梁川盛宗(こやながわもりむね):1523〜1595
  親宗の子。高畠城主。伊達晴宗の娘婿。知勇に優れ、最上家や大内定綱との戦いで活躍した。しかし元亀の変の祭に、討伐を受けた中野宗時らを高畠城下にて見過ごしたため、輝宗から叱責された。後に出家して泥播斎と号す。政宗に近侍して、様々な献策をした。
     関連史跡:高畠城址(高畠町)


小梁川宗重(こやながわむねしげ):1545〜1602
  盛宗の子。刑部。一家に列せられる。


小梁川宗朝(こやながわむねとも):1469〜1565
  親朝の弟。京で兵法・剣術を修行し、将軍足利義晴に召し出された。帰国して稙宗に仕え、天文の大乱では、西山城に幽閉されていた稙宗を救出した。乱の終息後も稙宗に近侍し、稙宗の死後、殉死した。


小梁川宗秀(こやながわむねひで):1510〜1570
  宗朝の子。中野宗時らが反乱を企てた元亀の変では、新田景綱とともに追討軍の先鋒を務めて小松城を攻めた。宗時らを敗走させる奮戦のすえ、討死した。
     関連史跡:小松城址(川西町)


桑折景長(こおりかげなが):?〜?
  伊達稙宗の三男・実元の越後守護上杉家への入嗣に反対し、中野宗時らとともに稙宗の嫡男・晴宗を擁立した。天文の大乱では晴宗の重臣として活躍。


桑折貞長(こおりさだなが):?〜1577
  景長の長男。伊達晴宗の奥州探題就任に尽力し、牧野久仲とともに奥州守護代に任じられた。中野宗時、牧野久仲父子が謀叛した元亀の変後に、久仲に替わって小松城主となる。
     関連史跡:小松城址、佛成寺(川西町)


桑折宗長(こおりむねなが):1532〜1601
  貞長の長男。相馬家との争いや人取橋の戦いで活躍。摺上原の戦いにも出陣した。隠居後は点了斎不曲と号す。評定衆として政宗を補佐した。


桑折政長(こおりまさなが):1556〜1593
  宗長の長男。摺上原の戦いに父とともに出陣した。文禄の役の祭は、伊達政宗に従って朝鮮に渡海したが、病を得て釜山浦にて病死した。妻は飯坂宗康の長女、伊達政宗の側室・猫御前の姉。


原田宗政(はらだむねまさ):?〜1582
  原田城主。桑折宗長の次男で、伊達家累代の宿老・原田家を継ぐ。1582年に戦死。


原田宗時(はらだむねとき):1565〜1593
  桑折宗長の三男。山嶺源市郎の子。原田家を継いだ伯父の宗政が、嗣子の無いまま戦死したため。その跡を継いだ。伊達家宿老として会津攻略、佐竹・岩城連合軍との戦いなどで活躍した。朝鮮出兵の際は、政宗に従って渡海したが、病を得て対馬にて死去。
     関連史跡:原田城址(川西町)


原田宗資(はらだむねすけ):1582〜1623
  桑折宗長の四男。原田宗時が病死したため、伊達政宗の命により原田家を継いだ。徳川家康が上杉景勝の討伐を決め、帰国を命じられた政宗が宿敵の相馬領を通過する際に、使者として赴き、無事に通過させることに成功した。伊達騒動の当事者のひとり、原田甲斐宗輔の父。


片倉景時(かたくらかげとき):?〜?
  小桜城主(長井市)。天文の大乱では晴宗方につく。稙宗方の鮎貝、大立目、最上氏の連合軍の南下を押し返し、置賜地方での晴宗方の勝利に貢献した智勇兼備の名将。
     関連史跡:小桜城址(長井市)


片倉景親(かたくらかげちか):?〜?
  景時の長男。意休斎と号す。父の跡を継いで小桜城主(長井市)となる。輝宗・政宗の二代に仕え、大内定綱への使者を務めている。弟の景重は米沢成島八幡神社の神職となった。
     関連史跡:小桜城址(長井市)


片倉景綱(かたくらかげつな):1557〜1615
  米沢成島八幡神社の神職・片倉景重の次男。遠藤基信の推挙により、伊達政宗の近侍となる。知の面から政宗を補佐し、参謀として活躍した。伊達成実、鬼庭綱元とともに「伊達の三傑」と称される。笛の名手としても知られる。
     関連史跡:成島八幡神社(米沢市)


片倉喜多(かたくらきた):1539?〜1610
  鬼庭良直の娘。片倉景綱の異父姉。男子に恵まれなかった母は離縁され、から倉景重に再嫁した。その後に生まれたのが景綱である。鬼庭良直も再婚して男子をもうけているため、鬼庭綱元の異母姉でもある。のちに伊達政宗の乳母・養育係を務めた。


片倉重綱(かたくらしげつな):1585〜1659
  景綱の長男。のちに重長に改名。父に劣らぬ知勇兼備の武将として活躍した。大坂の陣では、病気の父に代わって出陣、後藤基次を討ち取るなどの武功を挙げた。「鬼の小十郎」の異名を持つ。


矢内重定(やないしげさだ):?〜?
  米沢城下・大町の検断職に任じられた。合戦の際は騎馬で従軍しとと云われる。娘が片倉景綱に嫁ぎ、嫡男の重綱を産む。伊達政宗が仙台に移った際にも仙台大町の検断職を務めた。


鬼庭良直(おににわよしなお):1513〜1585
  左月斎。川井城主(米沢市)。武勇に優れ、評定役を務めた。人取橋の戦いでは、伊達政宗から金色の采配を賜り、全軍を指揮した。老齢のため甲冑は着けず、黄綿帽子に水色陣羽織という出で立ちで奮戦するも、壮絶な討死を遂げた。


鬼庭綱元(おににわつなもと):1549〜1640
  良直の長男。1575年に家督を継ぎ、川井城主(米沢市)となる。行政手腕に優れ、38歳で奉行に抜擢された。朝鮮出兵の際は物資補給を担当して、伊達軍に餓死者を出さなかった。伊達家の内政を支え、片倉景綱、伊達成実とともに「伊達の三傑」と称せられる。


遠藤基信(えんどうもとのぶ):1532〜1585
  役行者金伝坊の子。はじめ中野宗時に仕えたが、宗時の謀叛の企てを知り、伊達輝宗に新田景綱とともに訴えでて、謀叛鎮圧に功績を挙げた。これにより輝宗の信頼を得て、伊達家の内政を取り仕切るようになった。織田信長や北条氏照らとの外交交渉を担当したほか、片倉景綱の才能を見抜き、伊達政宗の近侍に推挙した。輝宗が非業の死を遂げると、その葬儀後に殉死した。
    関連史跡:資福寺・伊達輝宗墓所(高畠町)


遠藤宗信(えんどうむねのぶ):1572〜1593
  基信の長男。父の死後家督を継ぐ。伊達家宿老。佐竹・蘆名連合軍との戦いで軍功をあげる。朝鮮出兵でも大功を挙げるが、帰国後出奔し、のちに諭されて帰参する。朝鮮で得た病が癒えず、京で病没した。


屋代景頼(やしろかげより):1563〜1608
  置賜郡屋代郷(高畠町)を本拠とした一族の出身。祖父の閑盛は伊達家の国老であったが、父の代で所領が没収された。兄は鹿股家を継いだため、景頼が屋代家を継いだ。政宗に近侍して奉行に任じられ、朝鮮出兵の際は
岩出山城の留守居役を任された。次第に傲慢な振る舞いが多くなり、政宗に咎められて追放された。


後藤信康(ごとうのぶやす):1555〜1614
  湯目重弘の次男。後藤信家の養子となって後藤家の家督を継いだ。知勇兼備の武将と知られ、黄色の母衣を身にまとって戦ったため、「黄後藤」の異名を持つ。対蘆名戦では、桧原城(北塩原村)を守備した。その後も朝鮮出兵など、数々の戦いで武功を挙げた。


湯目景康(ゆのめかげやす):1564〜1638
  重康の子。人取橋の戦いや摺上原の戦いで活躍した。葛西・大崎一揆の鎮圧後に佐沼城主となる。伊達政宗が豊臣秀次の謀反に加担したとの疑いをかけられた際、津田原で秀吉に拝謁し、政宗の無実を訴えた。この功績により津田と改姓した。慶長出羽合戦の時は、最上家への援軍の副将として活躍した。


湯目重旧(ゆのめしげひさ):?〜1600
  奥羽の関ヶ原と呼ばれる慶長出羽合戦の際、伊達家から最上家へ援軍として派遣される。西軍敗北により撤退を開始した直江兼続率いる上杉軍への追撃戦で討死した。
    関連史跡:湯目の碑(山形市)


伊達政景(だてまさかげ):1549〜1607
  晴宗の三男。留守顕宗の養子となり、奥州の名家・留守氏を継いだ。朝鮮出兵にも従軍し、帰国の途中で伊達姓を拝領した。慶長出羽合戦では、最上家への援軍の大将として、約3000の軍勢を率いて出陣した。


鮎貝宗重(あゆかいむねしげ):1555〜1624
  鮎貝城主(白鷹町)。日傾斎と号す。長男の宗信が最上義光の計略に乗り謀反を図る。宗重は説得を試みるが、宗信は聞き入れなかったため、伊達政宗に訴え出て、鮎貝城を攻めさせた。宗信は最上領に落ち延び、家督は次男の宗益が継いだ。その後も政宗に近侍し、様々な評定に参加した。
     関連史跡:鮎貝城址(白鷹町)


新田景綱(にったかげつな):?〜?
  館山城主(米沢市)。中野宗時の孫娘を妻にしていた長男の義直が宗時の謀反に加担していることを知り、義直を捕縛して、遠藤基信とともに伊達輝宗に訴え出た。小梁川宗秀とともに追討軍の先鋒を務め、宗時らの拠る小松城(川西町)を攻め落とした。家督は次男の義綱が継いだ。
     関連史跡:館山城址(米沢市)


中野宗時(なかのむねとき):1501?〜1571?
  伊達家重臣。伊達稙宗の嫡男・晴宗を擁立して稙宗を幽閉させた。その後、稙宗方と晴宗方に分かれて争った天文の大乱では、晴宗の参謀として勝利に貢献した。その功績から晴宗に重用され、家臣団髄一の権勢を振るった。輝宗が伊達家の家督を継ぐと、謀反を企てたため討伐された。相馬領に落ち延びたが、そこも追われ、会津に向う途中で飢えと寒さから死去した。


中野親時(なかのちかとき):?〜?
  宗時の長男。伊達家の分国法である「塵芥集」の制定にあたって、父とともに家老評定人として連署している。


牧野宗興(まきのむねおき):?〜1542
  牧野家は伊達家の歴代宿老を務めた名家。伊達稙宗が大崎氏を攻めた際には第一陣の大将を務めた。天文の大乱では晴宗方に付くが、稙宗方の攻撃を受け息子の景仲とともに戦死。中野宗時の次男が家督を継いだ。


牧野久仲(まきのひさなか):1529?〜?
  中野宗時の次男。小松城主。伊達家累代の宿老・牧野家を継いだ。伊達晴宗の奥州探題就任に尽力し、桑折貞長とともに奥州守護代に任じられた。伊達輝宗の代に、父・宗時とともに謀反し小松城にて戦うが、敗れて相馬領に落ち延びた。


富塚仲綱(とみづかなかつな):?〜1542
  伊達家宿老。洲島城主(川西町)。天文の大乱では伊達稙宗方につき、戦いに敗れて討死。そのため富塚家は一時断絶した。


富塚宗綱(とみづかむねつな):1543〜1613
  仲綱の長男、幼少時に父が討死しお家断絶となるが、伊達晴宗に許され富塚家を再興した。伊達輝宗の代になって再び宿老に取立てられた。人取橋の戦いに従軍し活躍する。和漢連句にも長じていたという。


富塚信綱(とみづかのぶつな):?〜1627
  宗綱の長男。伊達家宿老。佐竹・蘆名連合軍との戦いで軍功を挙げる。朝鮮出兵や大坂の陣でも戦功を挙げた。最上家が改易された際、伊達政宗の命を受け、政宗の母・保春院を仙台に連れて帰った。


浜田宗景(はまだむねかげ):?〜?
  一本柳館主(高畠町)。伊達稙宗が大崎氏を攻めた際に第二陣の大将を務めた。天文の大乱では晴宗方について宿老となる。


浜田景隆(はまだかげたか):1554〜1591
  伊達家宿老。一本柳館主(高畠町)。大崎合戦では陣代として出陣、摺上原の戦いでは後備を務めるなど、各地の戦いで活躍した。大崎・葛西一揆の鎮圧戦で、宮崎城を攻略中に鉄砲で撃たれ戦死した。
2009/09/20 22:30 (C) 戦国観光やまがた情報局
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