新発田重家(しばたしげいえ):戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会

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新発田重家(しばたしげいえ)
天文16年(1547)〜天正15年(1587)
 新発田城主・新発田尾張守長敦の弟。新発田家は兄長敦が家督を継いだため、五十公野家を相続し、五十公野源太と名乗るが後に治長と改名。
 謙信の死後勃発した「御館の乱」では景勝に味方し、戦功をあげ武名を轟かせた。
 天正7年(1597)兄長敦が病死すると、生家の新発田家を相続。名を重家と改名。
 「御館の乱」後の論功行賞で、恩賞を不服として景勝を見限り、信長に通じて挙兵。信長の支援を受け、新潟・沼垂などを占領し戦線を拡大していった。
 しかし、天正10年(1582)信長が本能寺で自刃すると、秀吉と家康の抗争に乗じて勢力伸張を画策した重家は、両者の停戦で孤立したところを景勝に攻められ、新発田城は落城。天正15年(1587)自害。享年41。
2009/08/18 16:00 (C) 戦国観光やまがた情報局
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