ただいま開催中の特別展「上杉謙信の祈りと信仰」から展示紹介をいたします。
展示紹介@
黒い法衣を着た法体姿の謙信像(泰巖歴史美術館様ご所蔵、前期展示のみ)。 法体姿でありながら、身辺に武器を配した構図は、謙信の武将と僧の二面性を伝えています。同様の作例が確認でき、一般的な謙信のイメージを表現したと見られます。
展示紹介A
「朱皺漆紫糸素懸威六枚胴具足 三宝荒神形兜付」を描いた甲冑と考えられ、武将姿の謙信の肖像画と見られます(新潟県立歴史博物館様ご所蔵、前期展示のみ)。この甲冑は謙信所用として伝来しています。
資料紹介B
謙信が青年期に武者修行で廻国した際に用いられたと伝わる笈(泰巖歴史美術館様ご所蔵、前期展示のみ)。 江戸時代には米沢城内の文庫に保管され、「謙信一世秘蔵ノ道具」として伝来し、謙信の信仰が後世に語り継がれたことを示しています。
資料紹介C
川中島合戦で、謙信が善光寺から持ち出した仏具(法音寺様・熊野大社様ご所蔵)。これらの仏具は、弘治元年(1555)の戦いで越後に移され、謙信の信州支配を正当付けようとしました。前期展示では、善光寺ゆかりの宝物類を一堂に展示しています。
資料紹介D
謙信の北陸侵攻において、謙信が越中国内の一向一揆勢の退散を祈願した願文です(国宝「上杉家文書」)。「藤原謙信」の署名下に捺された朱印には、「阿弥陀・日天・弁財天」と彫られており、この点からも謙信の信仰が垣間見えます。
資料紹介E
謙信が発心坊に対して戦勝祈願を指示した文書(国宝「上杉家文書」)。謙信は越後の寺社に対して修法の効験が表れないことを厳しく非難し、夜も寝ずに祈祷に励むように命じました。好転しない越中情勢を前に、法力を得て事態の打開を図ろうとしたと考えられます。
資料紹介F
謙信が春日山城本丸の毘沙門堂に安置された妙法蓮華経です(佐久市教育委員会ご所蔵)。表紙には「妙法蓮華経第(巻数) 毘沙門堂」との墨書があり、毘沙門堂の伝来を裏付けています。水晶製の軸端は室町時代から見られ、本資料も同時代の作成と判断されます。
資料紹介G
天正2年(1574)末、謙信が伝法灌頂を勧修した際に使用されたと伝わる曼荼羅で、謙信と高野山の密接な関係を物語る代表的な資料です(法音寺様ご所蔵)。謙信はこの儀式で正式な真言宗の僧侶となりました。護摩行で実際に使用されたため、全体が黒ずんでいます。
資料紹介H
高野山の僧・快慶が謙信に送った文書(国宝「上杉家文書」)。快慶は、謙信が長年望んでいた仏門に入り、密教に信心を寄せたことを称えると共に、謙信による献金へのお礼も述べています。この献金は大火で被害を受けた高野山の復興のために寄せられたものでした。
資料紹介I
上杉景勝が自身の法要について述べた遺言状です(国宝「上杉家文書」)。景勝は、大規模な法要の執行を遠慮し、通常通りの法要執行を指示しました。謙信の法要を大々的に行う一方で、自身の法要を簡素なものとする点に、謙信に対する畏敬の念が感じられます。
資料紹介J
謙信を祀る御堂(みどう)の内部を描写した絵図です(国宝「上杉家文書」)。善光寺ゆかりの仏具や毘沙門天に関連する宝物類などが、御堂本檀に隣接する毘沙門堂や如来堂に安置されていたことが分かり、謙信にゆかりある宝物類の伝来が確認できます。
資料紹介K
謙信の二百五十周忌法要を記録した冊子です(上杉文書)。掲載頁には、法要当日の藩士の参詣場所が詳述されています。藩士は本丸の御堂に直接参詣できず、二の丸の大乗寺内の拝礼の間で参拝しました。大規模な法要でも、御堂の出入りは厳格に管理されていました。
資料紹介L
謙信の三百五十周忌を記念して作成された絵葉書(当館蔵)。神輿渡御では、約300人の人々が装束等を着て市内全域を巡りました。祭礼は上杉神社で大々的に行われ、市民を中心に盛り上がりました。謙信の崇敬の"かたち"は、時代を越えて今日へ引き継がれています。
皆さまのご来館を心よりお待ちしております。
【お問い合わせ】
米沢市上杉博物館 0238-26-8001