令和6年度の上杉文華館では、16世紀の長尾上杉氏と北陸地域(主に越中・能登)の歴史的関係について、国宝「上杉家文書」を中心に通時的に紹介します。
越後と隣接する北陸地域への侵攻は、上杉氏の領国(領土)形成の上で重要であり、北陸の諸勢力をいかに統合するかがカギとなりました。ただし、上杉謙信の北陸侵攻は、武田信玄や北条氏康といった関東甲信勢力のほか、一向一揆や織田信長などとの関係・動向に規定される側面があり、謙信を取り巻く当時の政治状況に配慮したなかで行われました。
謙信の北陸侵攻は、関東侵攻(17回)に次いで多く行われており、その数は11回に及びます。小田原北条氏・甲斐武田氏との関係変化により、信濃・関東の攻略が足踏みする中で、北陸地域は上杉氏の領国化が叶った地であり、謙信の晩年になって越中と能登が上杉氏の版図に組み込まれています。
北陸地域における同盟者の裏切り、敵対勢力との和睦・合力など、目まぐるしく変わる情勢に、長尾上杉氏がどのように対応していったのか、一進一退の攻防を繰り返した長尾上杉氏の北陸侵攻を主軸に据えて、その内容を深めていきます。
第9回「本願寺との和睦、信長との断交」
【展示期間】11月28日(木)〜12月22日(日)
展示目録はこちら
天正4年(1576)になると、織田信長と足利義昭の対立が深刻化します。信長の勢力に押されて鞆の浦(広島県福山市)に移った義昭は、安芸(広島県)の戦国大名・毛利輝元に幕府再興の協力を求めました。輝元は上杉謙信にも義昭への協力を求め、対信長勢力の中核に位置付けられました。このように、義昭を求心力として信長に敵対する勢力が形成され、激しい争いが展開されました。
その一方、謙信はこれまで対立が続いていた本願寺(一向一揆)と和睦します。この和睦の背景にも、信長との敵対関係が大きく関わっており、信長勢力の北陸侵出への対抗策が講じられました。本願寺勢力はこの和睦以降、謙信に協力的な姿勢を示し、謙信の能登平定にも大きな影響を与えました(次回紹介)。
今回の展示では、義昭と信長の対抗関係をふまえて、本願寺・一向一揆との関係を基軸に、当時の政治状況と謙信の動向について紹介します。
▼ コレクショントーク
日時:12月1日(日) 14:00
場所:常設展示室 上杉文華館
※入館料が必要です。
令和6年度上杉文華館展示スケジュールはこちら
皆さまのご来館を心よりお待ちしております。
【お問い合わせ】
米沢市上杉博物館 0238-26-8001