戦国観光やまがた情報局
▼畑谷城跡(はたやじょうあと)
義光は、置賜・下長井地方に通ずる要衝の地である畑谷に、家臣である江口五兵衛を配置して置賜との境を守らせていました。
江口氏は東黒森山の尾根続きの館山に山頂を本丸として、各所に空堀を配した山城を築き、その任にあたりました。
直江軍は主力約2万を率いて荒砥から進撃し、山形城を目指して途中の畑谷城に迫りました。
旧暦の9月13日早朝、江口氏は手勢を指揮して迎え撃ちましたが、約二時(4時間ぐらい)の戦いで敗れて自刃して落城しました。
直江兼続は撫で斬りを命じて500個余の首を取ったと手紙で伝えています。
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:.2008/05/25 00:04
▼山城の遠景
山形城から真西に16キロ、白鷹丘陵の深い山の中、畑谷と簗沢の小さな盆地の間に立つ館山が城の跡。
館山山頂は標高549メートル。
畑谷から見ると、高さ70メートルほどの低い丘ですが、簗沢から見ると170メートルの高低差があり、かなり高い山となります。
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:.2008/06/24 23:36
▼畑谷城趾より山形城を望む
山頂のわずかな平地が主郭。
遥か東に、義光のいる山形城を望むことができます。
戦いを報せるのろしを上げれば、山形の城からも見えたことでしょう。
主君義光の命令は「城を捨てて山形に戻れ」
命を無駄にするなとの主君の想いに感謝しながらも、江口五兵衛はこれを断わり、一族と家来わずか350人で立てこもりました。
直江の「開城すれば、厚遇する」の声掛けにも、断固拒否したという記録が残されています。
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▼国の境を守る要塞
南方は急斜面で、孤越街道白鷹方面を直視し、西方は山続きになっています。
戦乱の多かった中世には、置賜や寒河江からの侵攻に備える、最上の最前線の砦でした。
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:.2008/06/24 23:45
▼城山の全体像
主郭の南側に段々の曲輪(くるわ)、その下には東〜北〜南西と空堀がめぐらされ、西〜南西には二重の堀、さらに西に下れば尾根筋には三重の空堀が切られています。
館山と尖り森(標高575m)の間の低いところには、巨大な空堀と縦堀(たてぼり)があり、ここが重要拠点であったことを今に伝えています。
▲東からの攻めに備えた空堀
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▼江口氏の墓
城を枕に壮絶な最期を遂げた畑谷城主江口五兵衛光清の御霊を弔っています。
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:.2008/06/24 23:52
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