戦国観光やまがた情報局
▼直江兼続の家族
父:樋口惣右衛門兼豊(ひぐちそうえもんかねとよ)?〜1602
坂戸城主・長尾政景(上杉景勝の実父)の重臣。
のちに直峰城主。伊予守。
上杉家の会津移封後は米沢城にて、兼続が不在の際の留守役を務めた。
慶長7年(1602)9月12日死去。
母:蘭子(らんこ)1539〜1604
北信濃の豪族泉氏:泉弥七郎重歳(いずみやしちろうしげとし)の娘。
これとは別に直江景綱の妹という説もある。
大河ドラマ「天地人」では“お藤”の名前で登場。
弟(次男):与七(よしち)1562〜1622
兼続の2歳下の弟。
天正10年(1582)小国家を相続。
小国実頼(おぐにさねより)のち大国実頼(おおくにさねより)を名乗る。
天神山城主、のちに鴫山城代、高畠城代を務める。
関ヶ原合戦後、兄の兼続と対立して高野山に逃れた。
兼続の死後、密かに米沢北部の中小松村に戻り、同地で没したと云われている。
「能書、連歌の上手」と評され、連歌会に度々出席している。
元和8年(1622)2月9日死去。享年61。
弟(三男):与八秀兼(よはちひでかね)1580〜?
他家を継いだ兄達に代わり、樋口家を相続、千石を領す。
慶長19年(1614)大坂冬の陣に参陣。
妹(長女):きた ?〜?
須田満胤に嫁ぐ
須田満胤(すだみつたね)?〜?
須田満親の長男。景実、光義とも。父とともに上杉家に仕えていたが、
慶長2年(1597)伏見舟入普請を担当した際に不備があり、
同じく担当の柿崎憲家らとともに改易追放処分を受け、京で浪人となった。
そのため、須田家は次男の長義が継いだ。
室のきたは、本庄繁長を頼り、子の満統(みつむね)は、
慶長19年(1614)になって上杉家に帰参した。
妹(次女):名前不詳?〜?
色部光長に嫁ぐ
色部光長(いろべみつなが)1587〜1640
色部長真の長男。幼名・竜松丸。父の死去に伴い、わずか6歳で家督を継いだ。
父の遺言状には直江兼続の次女を息子の正室に迎えたいと書いてあると云われているが、
実際に嫁いだのは、樋口兼豊の次女(兼続の妹)であった。
上杉家の会津移封に際して金山城主となる。
慶長出羽合戦では先鋒を務め、畑谷城を攻略した。
妹(三女):名前不詳 ?〜?
篠井泰信に嫁ぐ
篠井泰信(しののいやすのぶ)?〜?
篠井正信の子か。正信は直江親綱の三男で景綱の弟。
慶長出羽合戦の際、第二陣として上山城攻略に向かうが、本村隊の敗北を受けて退却した。
その後、長谷堂城攻略のため、直江兼続率いる第一陣と合流した。
撤退にあたっては、春日元忠とともに先駆を命じられた。
妻:お船(おせん)1557〜1637
与板城主・直江大和守景綱の娘。
婿に迎えた信綱が死去したため、上杉景勝の命により、樋口兼続に再嫁し、
一男二女をもうける。
寛永14年(1637)1月4日死去。享年81。
米沢徳昌寺に埋葬、のち林泉寺に改葬。
長女:お松(おまつ)?〜1605
慶長9年(1604)閏8月、養子に迎えた本多政重(直江勝吉)の妻となる。
慶長10年(1605)8月17日病没。
次女:名前不詳(お梅?)?〜1605
慶長10年(1605)1月7日病没。
長男:平八景明(へいはちかげあき)1598〜1615
慶長3年(1598)直江兼続の嫡男として生まれる。幼名竹松。
うまれつき病弱で、病をおして大坂冬の陣に参陣。
翌年の元和元年(1615)7月12日病没。享年18。
養子:与次郎(よじろう)?〜?
本庄繁長の三男:本庄長房。
文禄2年(1593)嫡子のなかった兼続の養子となる。
後年、竹松(平八景明)が生まれたため、しばらくして帰家。
のちに、本多政重が前田家に帰参する際に随行した。
その後、上杉家に戻り小国城の在番を務めた。
養子:勝吉(かつよし)1580〜1647
徳川家康腹心の本多正信の次男:本多政重。故あって、徳川家を出奔。
大谷家、宇喜多家、福島家、前田家を渡り歩く。
慶長9年(1604)閏8月、兼続の婿養子となり、長女お松と結婚。
大和守勝吉(のち安房守)と称した。
慶長16年(1611)上杉家を去り、前田家に帰参した。
養女:阿虎(あこ)?〜1627
直江兼続の姪。兼続の弟:大国実頼の娘。
慶長14年(1609)直江家の養女に迎えられ、直江勝吉の継室となる。
慶長17年(1612)前田家に仕えた本多政重(直江勝吉)のいる加賀に赴く。
寛永4年(1627)5月10日死去。
:.2008/07/08 13:00
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