戦国観光やまがた情報局
▼直江兼続(なおえかねつぐ)
永禄3年(1560)〜元和5年(1620)
樋口兼豊の長男として坂戸城下に生まれた。仙洞院に見込まれ、幼くして上杉景勝の近習となった。御館の乱において功績があり、21歳の若さで家老に抜擢、のちに執政となる。景勝の命により、直江景綱の娘・お船と結婚し直江家を相続、与板城主となった。
上杉家の内政・外交を取り仕切り、豊臣秀吉や石田三成との関係を深め、豊臣政権内での上杉家の地位を確立した。会津移封にあたっては米沢城主となった。
秀吉没後、対立した徳川家康から送られた詰問状に対し、世に言う「直江状」を送り返した。関ヶ原の戦いと同時期に行われた慶長出羽合戦では、山形城の最上義光を攻めるも、石田三成率いる西軍の敗報に接し、撤退。追撃に出た最上軍相手に見事な退却戦を演じた。
戦後は、上杉家の存続に奔走。米沢の街づくりを推進し、藩政の基礎を固めた。大坂の陣には徳川方として参戦し、将軍・徳川秀忠から感状と太刀一腰及び小袖を与えられた。元和5年(1620)江戸鱗屋敷にて死去。享年60。
:.2008/05/10 11:00
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