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▼慶長出羽合戦の褒賞としての名刀正宗
慶長出羽合戦の褒賞としての名刀正宗
現在、「正宗」在銘の大黒と号する短刀がある。これが最上義光が長谷堂合戦を主とする上杉勢との戦いの武功によって徳川家康から下賜されたものであると見なされる。
それは『最上氏関係資料』に目を通していく過程で、この短刀に同定されると思われる記事が目に付く。先ずは『最上家譜』には、慶長六年(1601)四月に、前年の上杉との合戦の武功忠義による恩賞として、義光が家康から「正宗の御刀」を拝領している。また、「寛政重修諸家譜」の『最上氏系図』や『最上家伝覚書』にも同様の記事があり、その時下賜された品が「正宗の御脇差」であったと記している。
このように、記録によって刀と脇差との表記上の相違が見られるが、義光が名刀正宗を拝領していることは確かである。しかし、刀と脇差二口の拝領は考えられないから、「刀」を誤記と見なし、「脇差」つまり今に言う短刀であったと解して差し支えないだろう。
本刀は『埋忠押形』なる刀剣資料に、最上家所蔵として記載されているものである。この資料は、慶長(1596〜)から慶安(〜1652)にかけて、京都の金工家埋忠家(明寿・寿斎・明甫)が扱った刀剣金具類にまつわる刀身の押形、つまり現物の実写図である。
『埋忠押形』所載の最上家所蔵「正宗」の短刀
この中心(茎)図には「正宗作」と三字銘があり、その両脇に「も加見(最上)殿 壽齋 慶長十三年八月ニかなく(金具)拵共ニ仕候」という記載がある。これによって、慶長十三年(1608)八月、埋忠寿斎が最上家から預かっていた正宗の短刀に、さまざまな金具類や拵を調製したことが窺える。なお、「おもて 新藤五によく似申し候」とあり、正宗の師の国光の直刃調に似ているといい、また「うら 焼き直しと申し候」とあるが、刃文を再び焼き直したとは見られないようである。
拝領の正宗は、家康ゆかりの品として最上家の宝物の一つとなり、七年あまりを経て金具や拵を新調したのであろう。そして少なくとも、山形最上家が健在の間は本刀が献上品となったり、移動したりした形跡は窺えない。ところが、この正宗はいつの頃からか「大黒」を冠するようになり、譜代大名の堀田家が所蔵することになった。その後、明確な年代は定かでないが、昭和に入って民間人の手に渡り現在に至っている。
「大黒」の号の由来は分からない。正宗の短刀の中では大ぶりであることは確かである。あるいは、七福神の一つ大黒天が福徳を招来する神であるという、信仰上の意味合いの呼称であろうか。ともあれ、この手の称号は、その時々の所有者や状況等によって割と単純に呼称され、それが独走してしまうような傾向は否めない。
正宗は鎌倉時代末期(1310〜1330)に活躍した、相模国(神奈川県)鎌倉の刀工である。室町時代から名工として注目されてきたが、信長・秀吉・家康と時代が下がるにつれ、しだいにその名声が高まっていった。家康の遺品の分配台帳である『駿府御分物刀剣元帳』には、家康の遺品として十八口もの正宗が記載されている。中でも、有力大名からの献上品も目立っており、秀吉の時代より一段と正宗が重宝されていることが分かる。
したがって、家康から拝領の正宗は、義光の勲功に対する最大級の返礼であったと見てよいだろう。ともかく、正宗となると、「正系の宗家(一族の中心となる本家)や嫡流」という意味合いも加わって、各大名家を中心に贈答用(献上品)としてだけでなく、守り刀や家宝として珍重されてきた。また、そのような評価の高さを反映して、江戸時代から現代に至る多くの刀工たちが、正宗を目指して作刀してきたのである。
現存する正宗のうち、正真の在銘品は極めて少ない。管見によれば本刀の他に、短刀が四口、刀が一口を数えるのみである。あとは無銘の物を鑑定家本阿弥家が正宗と極めたものである。この本阿弥家もまた、正宗の評価を高めるのに一役買っていた。江戸時代には、真偽入り乱れて多くの正宗が存在したものと思われるが、鑑識眼の向上につれて淘汰されてきたのである。
■執筆:布施幸一(財団法人日本美術刀剣保存協会会員)「歴史館だより16」より
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:.2009/10/20 13:38
→最上義光歴史館より
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