2018年度の上杉文華館は、「初公開 上杉鷹山関連および幕末・明治期資料」をテーマに国宝を中心としたゆかりの文化財、貴重な史料をご覧いただきたいと思います。
【展示期間】平成30年5月24日(木)〜6月26日(火)
《第3回 上杉家の不幸》
国宝上杉家文書の近世文書には上杉鷹山周辺の多くの内政文書が含まれています。冠婚葬祭に関わる文書から、今回は「ご不幸」についてのものをまとめました。
当時出産は命がけで、そのために亡くなる女性は少なくありませんでした。屋代の方もその一人です。また、子供の死亡率も高く乳幼児の死去はもとより、成長しても疱瘡などで命を奪われる例も多数あります。鷹山とお豊の方の長男顕孝も、今回紹介する庸女も疱瘡のために亡くなったのです。
重定代〜斉定代まで身近な上杉家の不幸を見ると、文化13年(1816)と文政4年(1821)、5年は大変な年であったことがわかります。文化13年は7月に治広の正室純姫が江戸で亡くなり、閏8月に母廓如院が江戸で亡くなりました。そして9月には斉定の実母千寿院が米沢で亡くなったのです。また、文政4年11月に米沢新田藩三代藩主上杉勝定(治広弟)が江戸で亡くなりました。12月には鷹山の側室のお豊の方が米沢で亡くなりました。翌5年3月に鷹山が米沢で死去しました。鷹山と賢夫人の誉れ高いお豊の方は3ヵ月違いで世を去ったのです。そして9月にお豊の方の姉光が江戸で、治広が米沢で亡くなりました。文政5年は、9代藩主であった大殿様(鷹山)、10代藩主であった(治広)をともに失った年だったのです。また、10月にはわずか2歳の斉定の娘光(母は継室寿)が江戸で亡くなりました。
上杉鷹山は藩政改革の中で倹約を奨励したことが知られています。それはすべてに徹底しており、冠婚葬祭も例外ではありませんでした。寛政6年(1794)、鷹山の長子で治広の世子となっていた顕孝が疱瘡のため江戸で亡くなり米沢に運ばれました。火葬にするのはしのびないという親心は察せられますが、火葬にして高野山に納骨する費用の軽減であったとの指摘もあります。米沢藩主は亡くなると、火葬の後高野山に納骨するのが通例となっていましたが、顕孝の死後亡くなった8代藩主からは土葬で埋葬されることになりました。鷹山は葬儀を質素にするよう上杉家のみならず、藩士や領民に指示しています。近世上杉氏の歴史の中で葬送のありかたがどのように変遷したか、具体的な研究が課題です。
また、織田信長が謙信に贈った狩野永徳筆の「上杉本洛中洛外図屏風」は複製(2作目=複製B)の展示となります。
▼ コレクショントーク
平成30年5月26日(土)
14:00〜
場所: 常設展示室 上杉文華館
※入館料が必要です。
皆さまのご来館を心よりお待ちしております。
【お問い合わせ】
米沢市上杉博物館 0238−26−8001