米沢藩士も注目して記した、鷹山の言行
現在開催中の開館15周年記念コレクション展「上杉鷹山と学びの時代」のみどころ、面白い資料などを何回かに分けて、ご紹介します。
今回は米沢藩士が鷹山の言行を記した資料を2点、ご紹介します。
1点目は降旗信周筆上杉鷹山「壁書」写です。
降旗信周筆上杉鷹山「壁書」写
寛政3年(1791)写
20.6×13.4
米沢市上杉博物館(武藤家文書)
上杉鷹山が実子・顕孝付の家臣に示した教育方針の書「壁書」を、下級藩士が書き写したものです。「壁書」の末尾に書かれた「なせばなる、なさねばならぬ なにごとも ならぬは人の、なさぬなりけり」という和歌は有名ですね。
この鷹山筆の壁書も国宝「上杉家文書」中の原本を現在展示していますが、今回ご紹介するのは同内容を下級藩士が書き記したものです。筆写した降旗信周は「勤書」によれば安永3年(1774)家督、御扶持方に属する下級藩士で、鷹山の側近くに仕えたわけではありません。そのような下級藩士であっても、鷹山が壁書を作成してから、わずか5年後には名言を写し取り、共有していたと考えられます。米沢藩士たちの間でも、「なせばなる…」の和歌は人気だったのかもしれません。
2点目は「翹楚篇後篇」(ぎょうそへん こうへん)です。
「翹楚篇後篇」 一冊
文化8年(1811)頃
24.8×16.3
米沢市上杉博物館(上杉文書)
鷹山の言行録として全国に広く流布した莅戸善政「翹楚篇」の続編として書かれた言行録の一種で、寛政9年から文化8年まで約35の逸話を収録しています。内容に重複が多く文章も冗長であり、草稿のようです。
作者は未記載ですが、本文中に「予」として登場する小姓頭の深沢嘉平太が考えられます。一方で「御記録所局中之留」(資料73)によれば、木村丈八編の「翹楚後篇」二巻(未完)という、同名の言行録が別にあったようです。深沢、木村ともに鷹山の側近であり、彼らが鷹山の言行録を作成しています。
鷹山が義理の父・重定を赤湯温泉に連れていき孝行を尽くした話、隠居後の生活や倹約など、鷹山の孝養、礼節、家臣への思いやり、倹約と武備充実を強調する内容となっています。
鷹山の言行への注目は鷹山在世中から藩内でも高かった様子がうかがえます。
開館15周年記念コレクション展「上杉鷹山と学びの時代」は2月12日まで。会期も短くなってきましたので、お見逃しなく。