山形県置賜地方の長井の庄を領地とした大江広元は、
村山地区の寒河江も領地としました。長男を寒河江の庄の地頭に、
二男の時広を長井の庄の地頭につかせました。
大江時広は姓を長井とかえここに置賜を統括する
長井家の初代が誕生します。
以後約190年にわたる長井家の置賜統治が行われます。
長井家3代時秀は、鎌倉幕府執権北条時宗の死と
鎌倉五山臨済宗建長寺の開山道隆大覚禅師の死を
悲しみ地頭職の地 長井の庄に禅寺建立を決意し
開山されたのが資福寺であるといわれています。
建立の地を越後、出羽、陸奥の国の交通の要であり、
近くに郡衙もあったところである置賜の中心地、
屋代の庄夏刈り(現在の高畠町夏刈)に決定したのであります。
ここに、慈雲山資福寺を創建し合わせて学問の場としました。
執権北条時宗の修禅の師、およびゆかりの寺との縁により、
鎌倉五山の建長寺大休禅師の高弟、紹規老により建立されました。
当時、関東十州の折1国1大寺の時代であったが、
建長寺末寺として寺格も高く関東十刹の一つとして
鎌倉五山との人事交流もあり出羽の国の名寺でありました。
したがって置賜全域の禅僧はすべてこの資福寺にて
修禅研学をなしたものであったと思われます。
190年間の長井氏の置賜統治の最大の功績は、
資福寺建立であったといっても過言ではないといわれています。
この資福寺がのちに独眼竜政宗の学問の場として登場することになります