戦国観光やまがた情報局

直江兼続の生涯 5 優れた民政家
 関ヶ原の戦い後、兼続は上杉家の生き残りのために奔走し、結果、上杉家は取り潰しを免れ、米沢30万石に削封となります。家臣の知行(給料)はそれぞれ3分の1に減り、大人数が一挙に米沢に引っ越してきたために、住む家さえない有様でした。
 兼続も6万石から1万石に禄を減らし、しかもそのうち半分を自分の家臣達に分け与えたため、自身の取り分はわずか5千石でした。この状況を打開するため、兼続は自ら先頭に立って殖産興業策を指揮します。
 米沢を流れる松川(最上川)の治水事業を行って町の基盤を整え、身分の低い士族にも開墾に当たらせ農地を拡大したほか、青芋(あおそ)、紅花、漆、うこぎなどの作物を奨励するなどして、米沢藩の基礎を築き、藩政を安定に導きました。
 これらの政策は、のちの米沢藩9代藩主、上杉鷹山の改革の手本ともなり、現代まで兼続の功績が評価されています。

 また一方で、蔵書家でもあった兼続は、その書籍を用いて学問所「禅林文庫」、のちの藩校興譲館を創設し、人材育成にも力を注いだほか、白布高湯の地には、技術者を招いて鉄砲製造工場を設け、家臣達に射撃訓練を奨励しました。
 慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、上杉軍は鉄砲隊を用いて奮戦し、めざましい活躍で家康をはじめとする諸将から賞賛されています。

 元和5年(1620)、兼続は江戸の屋敷で死去し、米沢の徳昌寺に葬られました。享年60。後に林泉寺に改葬され、墓は現在も奥方であったお船の方の墓と並んで建っています。また、兼続所用として有名な「愛」の前立の兜は、上杉神社稽照殿(けいしょうでん)にて観ることができます。


:.2007/09/19 11:36


直江兼続の生涯
HOME

(C) 山形おきたま観光協議会