戦国観光やまがた情報局

最上家臣余録 【志村光安 (1)】
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (1)】


 志村光安は、最上義光股肱の腹心として広く名を知られた存在だ。出羽の関ヶ原として有名な「長谷堂城合戦」において長谷堂城の城将として上杉軍の猛攻から城を守り抜いた名将として評価されており、「長谷堂城合戦図屏風」にもその奮戦ぶりが描かれている。また、最上義光の名代として織田信長に拝謁したとされ、ほとんどの軍記物史料において「武勇に優れ」「弁舌巧みな」功臣として光安は描かれている。しかし、志村光安の評価はそれらの事績においてのみ語られる傾向にあり、慶長出羽合戦後酒田へと転封され、三万石という大身の城主として庄内の統治に関わった形跡が見とめられるにもかかわらず、光安に対する検討は一部の市町村史において断片的になされているに留まっている。信頼のおける史料群を参照し、最上家臣団の中でいかなる立場にあったかを再評価する必要があるだろう。

 志村光安の生年は、系図・法名録等がみられず不明である。しかし没年については、遊佐町の永泉寺に建立されている石塔に、「奥大日本前出羽州□□□君候 豆g太守為天室良清公 禅定門菩提□報厚恩家・・・于時慶長拾六季辛亥八月如意珠日」とあり、志村光安は慶長十六(1611)に没しているようだ。建立記年がなく、この石塔自体いつ作られたものか、またこの記述が正確なものか判然としないが、いくつかある受取状の発給記年を見る限りでは、慶長十七(1612)年より嫡子志村光惟署名のものが出現し、志村光安署名のものは途絶えている。これを考慮すれば、石塔に記されている没年はそう不確かなものでもないだろう。

 そもそも光安の本貫地はどのあたりであったのか、長谷堂城主に就任する以前、どこを知行地としていたのかを語る一次史料はなく、その動向を追う上での基礎史料が軍記物史料や諸記録群となる以上その断定は難しい。『奥羽永慶軍記』を始めとした軍記物史料では、最上義光に最上家の主権が移行した比較的早い段階からその名が見えており、元々最上家の直臣衆であったことは確かなようである。また、山形市の北部、漆山地区に「志村」という地名が存在するが、元禄年間に記された『元禄郷帳』には「漆山ノ内 志村」という記載があり、江戸期にはこの地名はすでに存在していたようだ。さらに、江戸初期に成立したとみられるいくつかの書写記録には「志村館」との記載があるとされ(注1)、志村氏居館の存在をうかがわせる。その本貫地を姓とするパターンが最上家家臣の多くにみられ、また義光政権初期段階からの直臣であったことも鑑みれば、志村光安の本貫地もこの辺りであったろうか。
<続>

(注1) 『最上時代 山形城下絵図』(高橋信敬 1974)

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:.2010/06/06 15:38


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